Nature
最近思うこと
そもそも日本国民は本当に賢いのか(笑)
〜「森友問題」「加計問題」で見えてくる本当のこと〜/2017年7月29日

 それにしても、このところずっとテレビを入れれば「森友学園」と「加計学園」関連の話題ばっかり。あまりの繰り返し報道で、私なんかは「学園アレルギー」になりそうだ。食傷気味なのを通り越して、吐き気さえもよおしてくる。

 連日の報道によって、安倍政権の支持率は急落とのことだが、そもそもこのふたつは、これほど長期に渡って国会やマスコミで取り上げなければならないほどのことなのか、私にはまるで理解不能。野党もマスコミも、今に始まったことではないが、本当の国民の利益ではなく、倒閣が目的化してしまっているようにしか感じられない。

 別に安倍さんを擁護するつもりもないが、ほかに重要なことはいくらでもあるだろう。北朝鮮のICBMの方が、日本としては、はるかに重大懸念事案だと思うが(アメリカが北朝鮮に対して軍事行動をとる可能性が増すという意味で)、日本の国民もマスコミも頭の中の論理と優先順位がおかしいとしか思えんわ。

 報道内容をいくら読み込んでも、「森友問題」は、結局のところ、安倍さんの知らないところで周りが「忖度」しただけの話であり(それも問題といえば確かに問題だろうが)、「加計問題」についても、待てど暮らせど「100%アウト」といえる証拠は何ひとつ出てきていない。朝日新聞等による「前川・文部科学省前事務次官=正義の人」大絶賛キャンペーンには呆れ果てるばかり。かつての「SEALDs=若い人による新しくて素晴らしい行動」大絶賛キャンペーンと同じ手法にしか見えない。
 その一方で加戸・前愛媛県知事の重要証言は完全スルー(朝日新聞では、詳報ページでは取り上げているが、肝心の本文では触れていない)。「報道しない自由」は、言い得て妙だが、このどこか真実を報道するのが社会的使命のマスコミのあるべき姿といえるのだろうか。

 その朝日新聞自身が、今年6月17日に共謀罪関連記事で、ジャーナリストの津田大介さんによる鋭い指摘を掲載していた。私が、「まったくその通りだ」と感じた部分を抜き出してみると…。( )は私が補足した部分。


@ (現代は)客観的な事実より、感情的な訴えかけの方が世論形成に影響を与える時代。
A (ネットユーザーは)自分が信じたい結論が先にあり、それに合致する情報を探し出す。
B 朝日新聞も「共謀罪」を厳しく批判していたが、マスコミが否定した事実ほど信用する傾向にある人が3割程度いるというデータもある。



 私は、かなり鋭い指摘と見た。まあ、Aについては、私も似たような指摘をしたことがあるが、Bについていえば、「あーいるいる。こういうバカ」と我が意を得たりという思いだ。こんな鋭くてまともな意見を取り上げる朝日新聞も、まだ捨てたもんじゃないと思うと同時に、Aについては朝日新聞自身にも当てはまることではないのか。自分(朝日新聞)が信じたい結論(前川=正義。安倍政権=悪)が先にあり、それに合致する情報を探し出しては報道する。もちろん信じたい結論を真っ向から否定する、自分にとって都合が悪い情報(加戸証言)については、「報道しない自由もある」というわけだろう(笑)。

 本サイト「世の中のホント」でも指摘したように、おそらくほとんどの人は、真理を最優先させて物事を判断する習慣自体ないはずだ。真理を最優先させると、世の中には自分にとって都合が悪い話ばっかり。それにイチイチ、バカ正直に真理を優先したところで、自分自身に何のメリットもなく、それどころか「渡世」とは自分にとってのメリットをいかに勝ち取るか、ということに尽きる…と考える人も多いはず。ただ、そういう人は決して正しいことをいわないわけじゃない。自分の欲求に敵対しないことに関しては正しいことをいえば正義面できるというメリットもある。欲求に敵対しないことだから、もともと自分にマイナスはなく、その上で正義面できればカッコ付けられてプラスになる(実はみんな、多かれ少なかれ正義面したいし、正しいことも時々いうことによって、自分の都合でもって発言しても誤魔化しやすい)。だから何割かは正しいことをいっている可能性もあるし、全体としてはそれによってそこそこバランスがとれたりする。

 イデオロギーの違いとは、突き詰めれば実は意外と簡単なことなのではないか、とも思える。左派の人はもともと政府とか政治家とか権力者みたいなものが理屈抜きで大嫌いで、仮に「非常に善良なる権力者」がこの世のどこかに実在していたとしても、やっぱり嫌いであり(なぜなら自分こそ正しいと思いたいから)、そんな悪の権化であってほしい巨大権力に反発する自分に酔っているだけであり、右派の人はその逆というだけではないか、とさえ思えてくる。左だろうと右だろうと、自分の好き嫌いが自らの判断に大きく影響していることを客観的に認識すらできないのか、あるいはたとえ認識できていたとしても、それに後ろめたさは一切感じない偽善者かのどちらかが大半ではないか。

 自分よりも社会全体にとって一番プラスになることを優先的に選択できる人なんて、むしろ少数派だろう。口では格好いいので「世のため人のため」といいながら、行動が伴っていないのは、政治家であろうと一般人であろうとよく見りゃわかるってもんよ。

 本当に真理を最優先させる価値観を持っていれば、@〜Bすべて絶対にあり得ないはず。真理を最優先するということは、ゼロベース思考でもってより公平に考えようと努力することだが、そうではなくて自分が信じたい結論が先にあり、それに合致する情報を探し出すようなことでさえ平気でできるというわけだ。このどこが、立派な国民といえるのだろうか?

 相反するAとBという意見であっても、大抵はAにもBにもいくつかの理由があるもの。その理由を比較して、どちらがより優れているか、公平に判断できる人こそ、真理を最優先して判断できる、まともな人といえよう。

 Bのような人が3割(実際はもっと多いんじゃないかとも想像するが)もいる時点で、本当に有権者に最も適切な政治家、最も適切な政策を選ぶ能力があるのか、大いに疑問符が付くような話である。正直な話、日本の国民は自分たち自身が思っているほど賢くないし、今回の件でも、現段階で安倍政権の支持率が急落すること自体、いかに国民の判断がまったく信用に値しないかの証拠でしかない。

 勘違いしてはいけないのは、「加計問題」は今のところ「疑惑」でしかないということだ。「疑惑」でしかない現段階で勝手に「安倍はダメだ。支持しない」と結論づけてしまうような国民は、裁判に例えれば、決定的な証拠もないのに容疑者を犯人と決めつける裁判官みたいなもの。もし、そんな裁判官がいたとしたら、まったく信用に値しないと思うが、国民はそれと同じようなことをしているのである。こんなレベルの国民のどこが信用に値するといえるのか。

 いっぱしをいくら気取っても、所詮は自分が正しいと信じたい特定のマスコミ情報やまわりの意見にも大いに影響され、残りはタダのイメージだけで判断を下しているに過ぎないし、もともと大して論理的ですらもない、ぶっちゃけ、実はかなりお粗末な集団。それが、愛しのわが日本国民というわけだ。

 Bの人は、「マスコミ情報=真実」と思い込んでいるのだろうが、これもまた随分バカな話。マスコミ情報って基本的にすべて二次情報や三次情報。当たり前だが、一次情報は極めて限られる。そんな不正確な可能性もある二次情報や三次情報を無条件にすべて正しいと信じ込む人も、申し訳ないが、相当問題があると思うね。

 私は、マスコミ情報とは科学の分野における専門家の見解と似たようなものだと考えている。科学に関する報道でも専門家の見解がよく取り上げられ、国民はそれを神の声のようにとられていると思うが、実はそうではなく「少なくとも私はこう考える」程度の意見表明に過ぎないことも多い。基礎的な事案では、「真実」もしくは「ほぼ真実」と断言できる場合もあるが、専門家でも見解が違うことはよくあることなのだ。

 マスコミ情報もこれと同じ。「有名なマスコミの情報だから、きっと正しい」ではなく、本当のことをいえば「弊社が取材したところ、一応、こんな結果になりました」くらいの意味しかない。その情報は正しいかもしれないが、間違っている可能性もある。

 なぜそういえるのか。その答えは至極簡単だ。それは複数のマスコミ情報に目を通すと、相反する内容ということが割とあるからである。A社は「真実はaだ」といい、B社は「真実はbだ」という。aとbの内容が互いに矛盾している場合、A社もB社も正しいなんてあり得ない。論理的にあり得るのは…

 ・正しいのはA社。
 ・正しいのはB社。
 ・両社とも間違い。


 …この3パターンのいずれかの可能性しかない。だから特定の1社の報道しか読まない人に公平な判断はそもそも不可能なのである。昔は一家庭に一紙と決まっていて、国民の認識も偏りがちだったわけだが、今はネットにより複数の記事に触れることができる。複数の記事によく目を通し、自分が正しいと信じたい結論に固執せず、好き嫌いからはとりあえず距離を置き、あくまで真理は何か、冷静で緻密な視点で判断すること。あらゆる常識や情報は、とにかく徹底的に疑うことだ。世の中には、割とウソがまかり通っている。なぜなら、真理を最優先して物事を判断しない人が実はとても多いからにほかならない。





人間と他の生物のあるべき関係とは?
〜魚の氷漬けスケートリンクの一件から考えたこと〜/2016年12月5日


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 福岡県北九州市のテーマパーク「スペースワールド」で、氷漬けされた魚の上をスケートで滑る企画が、「残酷だ」とか「悪趣味だ」などと批判を浴びて、中止になった一件。多くの批判に対して、ご当地ヒーローで同市の観光大使でもある「キタキュウマン」が、次のような意見をツイートされたという。



この企画の何が問題だったかを的確に理論的に説明できる人はいるだろうか。残酷だからダメ?じゃあ昆虫採集→標本はいいの? 私たちは普段から、動物をペットと称し監禁し、オシャレと称し毛皮をまとい(革靴もレザーバッグも生き物の皮膚です)、毎年600万t以上の食品を無駄にしているということを忘れてはいけない。その上でスペースワールドに対し『魚がかわいそうだ』と胸を張って言える人がいるだろうか。単純に『死骸の上を滑るのは気持ちが悪い』『申し訳ない気分になる』人がそういう感情を持つのは勝手。そう感じるのは当たり前。ただ私は、生き物の命うんぬんを、ここぞとばかりにスペースワールドに偉そうにぶつけられるような、そんなできた人間が今の日本にいるとは思えないと言いたいだけだ。




 この意見に対しても批判や反論があるようだが、私は「おおむね正論」と評価する。キタキュウマンの「中の人」は、20代の男性とのことだが、若いのに常識に捕らわれずに物事を緻密に考える習慣をお持ちのようで、なかなか賢い人と私は見た。ただ、多くの人が不快に感じてしまった以上、集客目的のイベントとして失敗だったのは間違いないだろう。

 以前にも本サイトで書いたことがあるが、人間とそれ以外の生物の関係は、突き詰めれば矛盾だらけ。というか、そもそも人間も含めてあらゆる生物は、実はすべて基本的には利己的なのだ。共生関係をもつ生物種もいるが、それも結局は自分たちの種にとって都合がいいから他種と協力しているに過ぎない。人間が動物たちを食料やペット、その他に都合よく利用するのも、すべて「人間のエゴ」といわれれば、確かにその通りなのだが、ほかの生物の行動も人間と同様にやっぱり利己的なのだ。他の生物はすべて善良な存在なのに人間だけが利己的であくどい存在というわけではない(多少の例外はあるにせよ)。ただ、人間以外の生物は、利己と利他を区別・理解した上で、より高次な視点から利己的な答えを選択しているわけではない(そこまでの知能はないし、悪意もない代わりに善意も道徳観もない)。また彼らが、他種を補食するなどの利用をすることはあっても、それはあくまで本能に従っているだけなので影響は限定的というのも人間とは違う点ともいえる。

 人間は地球という生態系の頂点に立ち、特に日本のような先進国においては生きるための空間や食料を安定的に確保できるので、あらゆる手段を講じる必要がなく、知能も高いので利己的といっても少しは他の生物に対する配慮もしようという余裕も生まれてくるわけだ。魚を食料として食べるにしても、それ以外のことで命を粗末に扱うようなことはなるべくしたくない…みたいな道徳的な視点を多くの人がもつのもごく自然な話しだ。今回のテーマパークに対する批判も、「残酷」というよりも、それに近い違和感から生まれたものだとしたら、それはそれで納得できる。

 また今回のイベントで、「かわいそうなはずの魚」の中にも、実はほかの生物を結構残酷に補食している種類だっているはずだ。食物連鎖なんて、多かれ少なかれ残酷なものだし、それに対して人間がどうこういえるものでもない。

 人間は、前述したように地球生態系ピラミッドの頂点に立つ生物であり、それを当たり前のように思っていて、その地位は絶対に揺らがないものと思い込んでいる。しかし、将来、他の惑星から別種の生物がやってきて地球に定着し、彼らが地球生態系ピラミッドの頂点に立ったとしたらどうだろうか。彼らは、人間よりも圧倒的に高い知能を有し、人間を野蛮な動物とみなし、次々に捕獲して利用し始めた。人間を煮たり焼いたりして食べ、あるいは研究目的や自らのコレクションと称して人間を標本にしたりする。さらには人間を拉致してきて奴隷やペットにし、人間の皮膚や髪の毛、臓器などを何かに利用するために「人間牧場」で大量繁殖させられたら…。

 そんな状況に追い込まれ、人間は彼らに対して声を上げる。「我々をモノのように扱うのはやめてくれ! 残酷過ぎるではないか」と。それに対して、彼らは、きっとこういうだろう。「何、寝言いってるんだ。これまで人間は、ほかの生物に対して同じ扱いをしてきたではないか。それなのに自分たちには同じ扱いをするなとは虫がよすぎる」と。それに反論できる人間は一人もいないだろう。

 とはいえ、どれほど突き詰めて考えようとも「あるべき答え」は容易に出ないし、ほかの生物にしても、実は人間と同様にやはり利己的であることに違いはないのだ。たとえ、今のあなたにはそう見えないにしても、それは生態系ピラミッドの頂点に君臨する人間に対して、他の生物は知能的にも物理的にもよほどの例外でもない限り、いくら利己的であろうとも勝つことはほぼ不可能というだけの結果論に過ぎない。





自粛って、そもそも何だろうと考えざるを得なくなる本当のこと

/2016年4月30日


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 まず最初に申し上げておくが、本項の趣旨は何も大災害時の自粛を否定することではない。その点を勘違いしないようにして頂きたい。

 さて、東日本大震災や熊本地震のような大災害が発生すれば、社会全体が自粛ムードになる。行き過ぎた自粛は、むしろ被災地の足を引っ張ってしまい、今回も「自粛するよりも熊本焼酎を買って宴会でもする方が被災地のためになる」という指摘があったが、その通りだと思う。
 一方、ある程度の自粛は、私自身これまでは当たり前のようにとらえ、特に考えたこともなかった。地震で家族や家を失い、悲しみに暮れている人がたくさんいるのだから、その心中をおもんぱかって、ある程度の自粛は当然…おそらく多くの人はそう考えるだろう。私もそれには同調する。しかし、熊本地震をきっかけにいろいろ考えを巡らせ、別の視点から掘り下げてみると自粛って、そもそも何だろうと考えざるを得なくなることにハタと気づかされた。

 ところで日本国内の年間死亡者数は、どれくらいかご存じだろうか。厚生労働省が公表した「2014年度人口動態統計の年間推計」によると約127万人である。つまり、1年間に政令指定都市の人口に匹敵する数の人々がお亡くなりになっている。単純に計算しても毎月10万人を越える数だ。しかも年間死亡者数は昭和41年以降、ずっと増加傾向にある。当然、遺族の数となると、その十倍は軽く越えるだろう。喪に服す期間は、続柄によっても違うが、一般に両親の場合は13ヶ月、兄弟や子供、叔父叔母などの場合は3ヶ月とされ、単純に計算しても毎月、喪中に入る人が少なくとも100万人レベルで存在することになる。これは、あくまで月単位で喪中に入る人の大雑把な推計値であり、同期間に喪に服している人となると、その数倍になることは間違いない。

 つまり、何もない平時でも国内に「家族を失い、悲しみに暮れながら喪に服している人々」が、月単位で少なくとも数百万レベルで存在することになる。これが東日本大震災や熊本地震の被災者数と比較して少なければ矛盾しない。平時よりも大災害の方が数が多いのだからから、普段はしなくても大災害時には社会的影響を考えて自粛する…というのは納得できる話だ。しかし東日本大震災の死亡者数に震災関連死亡者数、負傷者数、被災者数をすべて加えたとしても、平時の死亡者+遺族の数の方が圧倒的に多いのだ。せいぜいいえるのは、一度に多くの人が地震という自然災害で亡くなった、その衝撃が大きいくらいだろう。

 東日本大震災や熊本地震で自粛するのが当然なのであれば、平時でも喪に服している人の「悲しみに暮れる」心中を察して自粛すべきということにならないか? 大災害と何が違うか、うまく説明できるだろうか? 地震で亡くなられた方は気の毒だが、平時に病気や事故で亡くなられた方は気の毒じゃない? 常時、数百万レベルで存在する、その遺族の心中は考えなくていい?

 いうまでもないが、平時に亡くなられた方やその遺族にまで社会全体が配慮していると永遠に何もできないし、日本経済は確実に停滞・失速する。だから普段、喪に服している人の心中までは考えないことにしよう…ということなのか。もちろん私自身、普段もずっと自粛する方がいいとは思わないけどね。でも、こういうことを考えると、そもそも自粛ってなんだろうって思うわけよ。ある程度は必要だろうけど、突き詰めて考えると矛盾もある。そして誰もそれに気づいていないし、誰も「不謹慎だ」と批判しないので社会的には、とりあえずその慣例が成立しているということなのだろう。

 みなさんは、どう思う? 






情報が少なければ少ないほど判断を誤る可能性が増す
/2016年1月31日

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 前回の記事にもつながることだが、あまり中身を詳しく知らないことでも、人間の脳は、一応、答えを出してくれる。でも、自分からすれば正しい答えだと信じたい、その答えはあくまで「とりあえずの印象」くらいの意味しかなく、判断材料の情報が少なければ少ないほど、真の全体像を把握できずに判断を誤る可能性が増すものと考えられる。

 このことは、ジグソーパズルにたとえるとわかりやすいと思う。1000ピースからなるジグソーパズルの中から、一部のピースだけを見てパズル完成時の絵柄を想像するという場面を思い浮かべてみよう。
 最初にまず箱からピース数点だけ取り出してみると、すべてに花が描かれていた。そこであなたは想像する。「きっと花壇か花畑の絵だな」と。もう少し取り出すと、今度は木の幹のようなピースがあった。そこであなたは想像する。「ははあーん。花が満開になった木の絵だろう」と。ところが、さらにピースを取り出すと今度は瓦屋根や石垣らしきものが出てきて、「庭木と花壇がある和風建築の民家の絵だろうか」と思えてくる。
 実際に1000ピースすべてを組み合わせてみると、それは、お城の絵だった。奥には天守閣がそびえ、お堀を取り囲むように木々が点在。そして一番手前には花壇が広がる…という構図だった。ようやく、あなたは合点がいく。「あーそういうことか」と。
 つまり、少ないピース(情報)だけでは、「きっと花壇の絵だ」みたいな早合点をしやすいのは、当たり前の話。情報が増えれば増えるほど、本当の姿に焦点が合ってきて、より正確な判断が可能となる。

 そもそも脳には、「認知バイアス」があるという。自分の思い込みや願望などに影響されて「論理的に誤った答え」を出してしまう「脳の思考癖」が知られている。当然、情報量が少なければ認知バイアスに陥りやすく、情報量が増えれば、認知バイアスを克服しやすいはずだ。

 前回の記事でも指摘した通り、少ない情報を元に頭に浮かんだこと(=極めて「認知バイアス」臭い)だけで判断しても正しい答えを出せるわけがない。念のために申し上げておくと、私は常に認知バイアスを排除して正しい判断をしているというつもりは毛頭なく、そういう脳のしくみを理解し前提とした上で、なるべく正しい判断をするように心がけているだけである。ただ、その前提すらもない人に比べれば、相当にマシだと思っているけどね(笑)。

 私たちは、日常生活でさまざまな判断をしているが、実は私も含めてみんな、世の中のあらゆることに関して「真実」を知るのは、容易ではない。私たちの主な判断材料となるのはマスコミ情報だが、情報をかき集めて取捨選択・分析した上で発信している記者も、実は一般人が想像する以上に「認知バイアス」まみれである。記者全員を平均して一般人の平均と比較すれば、確かに調査分析能力が高いのは間違いないだろうが、彼らでも「認知バイアス」から完全に逃れることはできない。それは、たとえ専門家であってもある程度はいえることだ。
 知っている気になっていることでも、実際は誰しもすべてを知っているわけではないし、たとえ知ろうと努力しても、内容によってはどうしても限界があることを、せめて知っておきたいものだ。





自分のテストはきっと高得点だとみんな勝手に思い込んでいる
/2016年1月23日


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 タイトルだけでは意味がわからないと思うので説明しよう。以前、本サイトでも書いたことがあるが、誰しも自分の考えは基本的に正しいと思っている。なぜなら、そういう前提でないと生きられないからだろう。これは人間の性(さが)みたいなもので、たとえ学者であっても逃れることはできない。でも物事の判断を別のものに置き換えて考えてみると、まったく違う側面が見えてくる。

 世の中には、複雑すぎて時間を経ても正解を判定できないことも多いし、正解がひとつとは限らないこともよくある。そこで「時間が経過すれば白黒の判定ができる事案」だけで考えてみたい。であれば当然、テストのように答え合わせができるし、点数化もできるわけだ。もし本当に「自分の考えは基本的に正しい」のが真実だとしたら、みんながみんなテストの点数が高得点ということになる。でも、それは論理的にあり得ない。異なる意見というのは、基本的に背反しているわけだから「すべての意見が正しい確率は0%」と断言できる。

 自分はこの件に関してはこう思う。別の件についてはこう考える。みんなそんな風に、さまざまな事に対して考えを持っていて、みんな基本的にその考えは正しいと思い込んでいる。中には、「結論ではなく暫定的な意見」とか、「自信に乏しい意見」ということもあるだろうが、総じていえば「自分の考えは正しい」という基本姿勢から外れている人はまずいないだろう。でも自分という視点ではなく、少し高い位置から自分も含めて複数の人を俯瞰するように考えてみると、みんなが100点満点、もしくは高得点というのは絶対にあり得ないことに気付く。

 例えばである。社会問題でも政治問題でも、なんでもいいのだが、問題(イ)〜(ヘ)についてAさんからJさんまでの10人に意見を聞いたとしよう。当然、同意見もあれば、十人十色でそれぞれ意見が分かれることもあろう。そこで何年か経過して結果がすべて揃った時点で検証したら、仮に次のような結果だったとしよう。


 ●問題(イ)

 Aさんの意見…a 正解!
 Bさんの意見…b 正解!
 Cさんの意見…c
 Dさんの意見…d 正解!
 Eさんの意見…e
 Fさんの意見…f
 Gさんの意見…g 正解!
 Hさんの意見…h 正解!
  I さんの意見…i 正解!
 J さんの意見…j 正解!


 ●問題(ロ)

 Aさんの意見…a'
 Bさんの意見…b'
 Cさんの意見…c'
 Dさんの意見…d'
 Eさんの意見…e' 正解!
 Fさんの意見…f'
 Gさんの意見…g'
 Hさんの意見…h'
  I さんの意見…i'
 J さんの意見…j' 


 ●問題(ハ)

 Aさんの意見…a'' 正解!
 Bさんの意見…b'' 正解!
 Cさんの意見…c'' 正解!
 Dさんの意見…d'' 正解!
 Eさんの意見…e''
 Fさんの意見…f''
 Gさんの意見…g'' 正解!
 Hさんの意見…h''
  I さんの意見…i'' 正解!
 J さんの意見…j''

 

 ●問題(ニ)

 Aさんの意見…a'''
 Bさんの意見…b''' 正解!
 Cさんの意見…c''' 正解!
 Dさんの意見…d''' 正解!
 Eさんの意見…e'''
 Fさんの意見…f'''
 Gさんの意見…g''' 正解!
 Hさんの意見…h''' 正解!
  I さんの意見…i''' 正解!
 J さんの意見…j''' 正解!


 ●問題(ホ)

 Aさんの意見…a''''
 Bさんの意見…b'''' 正解!
 Cさんの意見…c''''
 Dさんの意見…d''' 正解!'
 Eさんの意見…e''''
 Fさんの意見…f''''
 Gさんの意見…g'''' 正解!
 Hさんの意見…h'''' 正解!
  I さんの意見…i''''
 J さんの意見…j''''


 ●問題(へ)

 Aさんの意見…a'''''
 Bさんの意見…b''''' 正解!
 Cさんの意見…c''''' 正解!
 Dさんの意見…d'''''
 Eさんの意見…e'''''
 Fさんの意見…f'''''
 Gさんの意見…g''''' 正解!
 Hさんの意見…h'''''
  I さんの意見…i'''''
 J さんの意見…j'''''




 検証以前は、みんな自分の意見は正しいと思っていたのに、おそらく実際に検証してみると、このような自分の認識・予想とは異なる結果になることの方が多いと想像される。確かにBさんのように正解率5/6で8割以上正しかった人もいれば、Eさんのように正解率1/6の人、あるいはFさんのように正解がひとつもなくて0点の人もいるわけだ。
 でも、繰り返しもう一度いうが、検証前は全員が自分の考えは基本的に正しいと思い込んでいたわけだ。結果からいうとBさんの認識はほぼ正しかったといってよいが、EさんやFさんの判断はまるでズレていたことになる。ただEさんはトータルの正解率は低いが、問題(ロ)では残り全員が不正解だったのに一人だけ正解を出している。こんなことは現実にもあり得るだろう。
 世の中の実態もこの仮想結果と似ていて、問題の難易度にもよるが、単純に考えても半数程度の人の正解率はおそらく5割以下であろうと推察できる。

 本来、物事の判断には、緻密な情報や論理性など、複数の要素が必要なことも多く、誰でも優れた判断ができるわけではない。しかも、おそらくほとんどの人は、主にマスメディアやネットから得たわずかな情報だけを判断材料にして、よく熟慮もせずに自分の頭に浮かんだことが正しい答えだと思い込んでいる。しかも前回の記事でも書いたように多少なりとも理由があったり、あるいは同意見の人を得たりすると、もう絶対的な確信に変わっちゃったりする。しかし「わずかな情報だけを判断材料にして熟慮もせずに頭に浮かんだことを自分の意見としている人」が、「多くの情報を判断材料にして熟慮の上に論理的に答えを出している人」よりも優れた答えを導き出せるわけがないのだ。しかも自分の意見に理由があるといっても、探せば好都合な情報がひとつやふたつ必ずあるもので、重要なのは「理由が存在する」ことではなくて「複数の理由の中で、最も優れた理由であると客観的にいえるかどうか」だ。

 世の中には自分の考えに自信満々という人がよくいらっしゃる。どちらかというと女性よりも男性に。若い人よりも中高年の年齢層に多い。例えば超難関大学の出身者とか、医師とか弁護士、大企業の重役みたいな社会的にハイクラスな人とか、その自信の背景にそれなりの根拠がある人が自信満々というのなら、まあ、半分は納得してあげるのだが、私の過去の経験をいわせてもらえば、どちらかというと社会的にパッとしない境遇の、しかもあまり聡明な印象を受けない人に限ってバカみたいに自信満々という印象がある。鼻持ちならない自信過剰なエリートも当然いるだろうが、むしろ賢い人ほど、自分の意見に慎重で「自分にも間違いがある」ことを知っている。誰かに教えられなくても、そのことにとっくの昔に気付いている。そういうことに冷静に頭が回る人だからこそ「賢い」のだ。

 そんな人は、メタ認知能力が高いことが多い。メタ認知とは、心理学や脳科学で使われる用語で、つまり「高次の認知」。自己の認知を客観的にとらえる能力をメタ認知能力という。自分の判断は常に正しくて、間違っているのはすべて他人の方と思い込むような人は、メタ認知能力が低い典型例。逆に自分の問題点を客観的に気づける人はメタ認知能力が高いことになる。自分の問題点を客観的に認識できれば、軌道修正もできる。実は間違いだらけなのに自分は絶対に正しいと思い込み、軌道修正もできず脱線したまま、これが正しい道だといつまでも盲信して生きていく人よりも、自分の問題点は早々に気づいて軌道修正できる人の方が、失敗にもつながりにくいし、プラスの結果を生むのは間違いない。

 おそらく正解率が平均以下の人は、認識や知識などのどこかに問題があって、その結果、間違った判断をしたとしても頭の中でスルーし、「気付かなかった」「見なかった」ことにし、そんな不愉快なことよりも自分にとって都合のいい正解例・成功例だけを記憶に留め、次からもやっばり「自分の判断はきっと正しい」という前提で、前回の間違いを引き起こした問題を修正することもなく、やっぱり同じ判断ミスを延々と繰り返す。
 自分の判断における過去の正否の割合なんて考えたこともないし、そんな人生の成績表みたいなことに絶対に真っ正面から向き合いたくない。「オレの判断は、きっと正しい」とただひたすら思い込みたい。たとえ虚勢であっても、そう胸を張りたい。というか、彼らにはそうするしかないのだ。たとえ見かけだけだとしても自信を保持するにはそれしか方法がないからだ。

 メタ認知能力に優れた人は、早い段階から自分に真っ正面から向き合っているので、すでに自分のいい面悪い面をよく知っている。だからいつ何時向き合っても怖くない。しかしメタ認知能力に欠ける人は、これまで自分に真っ正面から向き合ったことがないので、実は自分をよく知らないし、自分に向き合うということがどういうことなのかすらよくわかっていない。たとえ理解したとしても今さら怖くてできないのだろう。





頭の中に「根拠」という言葉が存在しない人々/2015年11月29日

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 宇都宮市であった重度の糖尿病男児が亡くなった事件。男児の両親にインスリン注射を止めるようにいったという自称・祈祷師の男が逮捕されたそうだが、それにしても驚愕だ。いくら子供の健康のことを真剣に考え「わらをもすがる思い」だったとしても、今時、医師よりもこんな珍妙な自称・祈祷師のいうことの方を信じる人がいるとはね〜。

 腹の中に悪霊がいる。そいつを退散させれば、この子の病気は治る。えっ、そうなんですか。じゃあ、あなたのいう通りにします!! …という会話があったのかなかったのかは知らないが、それにしてもあり得ん話だろ。

 普段から感じていることだが、「根拠」という言葉が頭の中に明確に存在していないとしか思えない人は実際よくいらっしゃる。例えば、何かのことについて「自分はこう思う」と意見を主張するにしても、そのあとに理由が続かない。理由まで喋っていると長くなるので省略することもあると思うが、「根拠がなきゃ説得力ねぇーよ」といいたくなるような場面でも根拠が語られない。それがいつも…となると、物事を論理的に考える能力や習慣がないとしか思えない。

 頭の中に「根拠」がない人は、このような詐欺師に騙される可能性が高い。もし私が男児の親なら、この祈祷師がそういったとしても、すぐに「で、あなたがそう仰る根拠とはなんでしょう?」って聞くけどね。まあ、どうせ根拠ともいえない根拠くらいしかいえないだろうし、それならそれで何も言い返せないところまでとことん追い込んでやるけどね(笑)。

 ところで自分の意見にその理由まで付け加える人は、まだマシなんだけど、注意しなきゃいけないのは、そういう人の中には、理由があること自体が自信につながっている単純な人が結構いるということだ。オレは、こう考える。だって、これこれこうだろっ…と自信満々。でも、違う意見の持ち主もあなたと同じように理由くらいはあるのだ。重要なのは、こうした異論の中にあって、本当に自分の意見が最も優れていると客観的にいえるかどうかなのだ。

 他人の異論に対して最初から偏見の目で見るのではなく、少なくとも一度は公平な視点から検証し、異論に一理あれば自分の意見を修正して取り入れ、異論の方がやはり違うと考えるのであれば、その根拠をきちんと用意することが絶対に必要。そういう複数の異論に対して同様の過程を経た上での「自分の意見」であれば自信満々に語っても納得してあげるのだが、この過程をすっ飛ばす人って結構多いのだ。

 そもそもテレビなどで意見を語る文化人もマスコミも、一応はみんな最初は公平な視点から出発して、それぞれ自分の意見というものを持っているように見えるが、実はそれほどじゃないと思うんだよね。一度は口にした自分の意見を変えるのが格好悪いので変えたくないとか、自分にとって都合のいい意見は絶対に変えたくないとか…ね。まあ、みんな、ご立派なことを主張していても所詮そんなもんだよ。特に重要なのは、どんなことをしても意見を曲げたくない人と議論してもまったくの無意味で時間の無駄ってことは、よーく胆に命じておこう(笑)。




安保法案に関して考えたこと
/2015年9月9日

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 安保法案の反対デモがまだ行われているようだ。そうやって意見を主張すること自体はまったく否定しないが、私は極めて冷めた目で見させてもらっている。申し訳ないが、いくらデモしようと状況が覆ることは100%ないだろう。

 デモを主催するSEALDsとかいう学生団体の中心メンバーの一人にインタビューしたネット記事も読んだ。初めてその名前を聞いた頃、「自由と民主主義のための学生緊急行動」というご立派な名前から、まじめなインテリ系の学生たちが声を上げているのだろうと勝手に想像していた。しかし、記事を読んだら「うわっ、なんじゃこりゃ」という代物だった。真剣に議論する気にもならない低レベル。まあ、そんなもんだろう。彼らのデモに参加していた人の意見に次のようなものがあった。「(目の前のデモを見て)こんなに反対する人がいるのに安保法案を通そうとするなんて…」。う〜ん、いくらなんでもアホ過ぎる。それってPC画面に表示された大きさを比較するものが写っていない商品のネット画像を見て、「そんなに小さいのか」と思う人と同じくらいの超絶爆笑レベル。

 橋下さんの以下ツイートが、左派系メディアによると「物議を醸している」らしいが、まさに正論であって、そんなことを書くヒマがあるのなら、その前に真っ正面から論破してみよといいたいね。特に赤字にした部分は、大賛成だ。


  デモは否定しない。国民の政治活動として尊重されるのは当然。政治家も国民の政治的意思として十分耳を傾けなければならない。ただしデモで国家の意思が決定されるのは絶対にダメだ。しかも今回の国会前の安保反対のデモ。たったあれだけの人数で国家の意思が決まるなんて民主主義の否定だ。

 日本の有権者数は1億人。国会前のデモはそのうちの何パーセントなんだ?ほぼ数字にならないくらいだろう。こんな人数のデモで国家の意思が決定されるなら、サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ。




 先日の記事でも触れたが、世間一般の人たちは、基本的に単純なので「大多数の意見は正しい」「世論は正しい」「民の声は正しい」「メディアの情報は正しい」という前提に立っている。そもそもそこが大間違い。大多数の意見が正しいこともあるが、記事でも指摘したように間違っていることも実は多いんだよ。メディアの記事も実は玉石混淆。だから書き手の記者によって、正反対の内容ということもよくある。世間一般の人は、最初に目にした記事の内容をひとつ覚えして最後までそれに引っ張られたり、あるいは自分が信じたい内容の方に流されやすい…といった傾向が見受けられる。

 クイズ番組でこういうのってあるだろ。「この問題の一般正解率は○%」。難しい内容であれば、当然、正解率は下がる。これって学術的なことやクイズばかりでなく、時事問題でも共通している。つまり、時事問題のすべてを一般人が正しい答えを出せるわけじゃない。正解率20%なら、残り8割の人は間違った答えを出していることになる。だから「大多数の意見は正しい」という認識は、必ずしも正しくない。

 大戦中、日本の国民は、そう思い込まされた部分もあったにせよ、みんな大本営発表は正しいものと信じていた。「日本は神の国だから負けることはない」と思い込んでいた。それが当時の世論だったわけだ。で、結局、それは正しかったか?

 昭和30〜40年代に繰り返された安保闘争の時も、アメリカと安全保障条約を結べば日本はアメリカの戦争に巻き込まれると世論は猛反対した。で、結局、日本は一度でも戦争に巻き込まれたか?

 当時、学生で安保闘争に参加していたという、ジャーナリストの田原総一朗氏が、ネット記事で次のような告白をしていた。「我々は、日米安全保障条約の中身がどんなものかという検証すらもせずに、ただ感情的に反対していた」と。昔も今も学生のレベルは似たようなものらしい。まったく進歩していない。

 日本が戦後70年、平和だったのは、日米安全保障条約によるところが大きいと私は考える。九条信奉者の中には、その理由として「憲法九条があったからだ」というトンチンカンなことをいう人がよくいる。まるで「憲法九条の威光に外国が恐れをなした」といわんばかりだが、その国の法律、たとえ憲法であろうと、その力が及ぶのは国内だけである。日本を侵略しようと考える国にとっては憲法九条は何の意味もない。条件さえ整えば、憲法九条があろうとなかろうと平気で侵略してくるだろう。

 中国が、南沙諸島でああいうことをやり始めたのは、おそらく1990年代にアメリカ軍がフィリピンから撤退したことも背景としては大きいと思うね。沖縄を見ればわかるようにアメリカ軍にもいろいろな問題があることは私も認識している。しかし、大きな視点で見た時、日本の経済発展のためにも安全保障のためにも日米安保という選択は間違いではなかったと考えている。理想的な状態とは思わないが、世の中に理想的な選択肢というのはほとんど存在しない。現実的な選択肢の中では、最も妥当と考える。これは、現在の安保法案についても同じだ。

 ひとつには、日本の安保法案に対する諸外国の反応を見れば一目瞭然である。マスコミは、この点について、なぜかわかりやすく報道していない(安保法案に反対しているメディアが絶対に触れたくないのは、ある意味当然か・笑)が、次の通りである。



 日本の安保法案の趣旨を理解し、それに賛成している国

 アメリカ(まあ、当然だろうが)
 イギリス
 ドイツ
 カナダ
 オーストラリア
 ニュージーランド
 インド
 シンガポール
 フィリピン
 ベトナム
 マレーシア
 カンボジア
 ミャンマー
 タイ
 インドネシア
 コロンビア
 ブラジル…等



 日本の安保法案に反対している国

 中国
 韓国



 この状況、特に中韓だけが反対している事実を考えれば、もう答えは出たに等しい。先々月、NHKのニュースでミャンマーのテインセイン大統領が、日本の安保法案について「よく承知しており、歓迎したい」と述べられたことを報道していた。こういう報道に対して、安保法案に反対している人たちはどう思ってるんだろうね。ミャンマーといえば、大戦中、日本に統治されたこともあるのに日本の安保法案に賛成しているのである。マスコミや民主党がいう「戦争法案」であれば、このような好意的な反応には絶対にならないはずだ。





オリンピックエンブレム問題で考えたこと/2015年9月3日

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結局、一度は決定したエンブレムの使用は中止され、新たに選定されることになったが、それにしても後味が悪い。私が何よりも問題視するのは、一見、盗作のように見える佐野氏ではなく、むしろそれを声高に糾弾する一般人の方である。これってSTAP細胞の時とすごく似ている。STAP細胞問題に関しては、本サイトでも繰り返し取り上げ、小保方さんへ対する世論の批判は過剰過ぎることを、その理由とともに書いたが、今回の件はそれとほぼ同じ状態だと思う。

 さて、オリンピックエンブレムの問題は、みなさんもよくご存じの通り次の4点からなる。

@ エンブレム決定案が、ベルギーの劇場ロゴと似ていた

A トートバッグデザインに盗作疑惑

B エンブレム当初案も、タイポグラファーのポスターと似ていた

C エンブレム展開案に使われていた写真の盗用疑惑



 本来、こうしたことは、それぞれ中身を精査し分けて考えなくてはならないはずだ。例えば警察が容疑者の複数の容疑を捜査する際、ひとつの容疑がクロと判明したからといって、同時にほかの容疑もクロと判断されることはない。それぞれの容疑も詳しく調べた上で、すべての容疑がクロとなることもあれば、一部の容疑だけがクロと判断されることもあるはずだ。今回の問題で世論は、疑惑が出れば出るほど印象を悪化させ→佐野はパクリばかりしている→日本の恥だ…とすべての疑惑をセットにして極めて短絡的に反応している。4点のうち、いくつかはあくまで「疑惑」に過ぎず、マスコミもその点を考慮して慎重な言い回しをしていることも多いのに、その言い回しの行間を読み取ることすらもできない一般人が、無責任な安全圏から正義を気取って(実はおもしろがってるだけ)佐野氏を糾弾し、それでもって世論が形成されているわけだ。実に恐ろしい状態だと思う。

 結論からいえば、私が完全にアウトと判断するのは、上記4点のうちAだけである。まず@だが、この件でベルギーの劇場ロゴと並べて比較する映像を見せられて、「あ、ホントだ!! すごく似てるじゃないか。佐野はパクったな」と思った人は、全員、確実にデザインに関して何の知識もない人と断言してよい。
 よく考えてみよう。今回のエンブレムのように丸や四角の至極単純な形の組み合わせで、しかもアルファベットという至極ありきたりの文字をイメージして作られたデザインであれば、当然、盗作しようという意図がなくても似たデザインが生まれやすい。ネット上では、こうした観点から有名な企業のロゴやマークにも、非常によく似た例があることを指摘しているサイトもあった。例えば、ホンダのマークとヒュンダイのマークも似ている…など。

参考 http://tocana.jp/2015/08/post_7109_entry.html
    http://webbiz.hateblo.jp/entry/2015/08/01/224242


 世界中にこれだけ膨大なマークやロゴがあれば、デザイナーに悪意がなくてもどうしても似てしまうことが発生する。今回は、オリンピックエンブレムだからこそ、徹底的に検証されて似たものを探し出されただけだと思う。科学史を塗り替えるほどの世界的に注目された内容だからこそ、徹底的に検証されたSTAP細胞論文と同じだ。何も指摘されていない無名のデザインには何の問題もなくて、佐野氏に突出した問題があったわけではない。

 彼らは、ベルギーのデザイナーが提訴したというのを聞いて「やっぱり!」と思うわけだが、私は、ベルギーのデザイナーとしてはオリンピックエンブレムという全世界的に注目されている内容だけに名前を売る絶好の機会と考えた結果だと見ている。口では「私のオリジナリティーが盗まれた」とか、いろいろいうだろうが、プロのデザイナーなのだから本音では「単純な形の組み合わせでは、意図しなくてもデザインが似てしまうことがある」ことくらい理解しているはずだ。それもわかった上で、仮に裁判で負けても自分にとっては名前が売れて有利になると考えて提訴したのだろう。

 そもそも論として、ベルギー劇場ロゴは、佐野氏のような一流の実績を持つプロのデザイナーが、盗作してでも真似たいほどの魅力的なデザインだろうか? ということである。ベルギーのデザイナーには申し訳ないが、私はまったくピンと来ない。

 おそらく将来、このベルギーのデザイナーや、日本のテレビ番組で今回のような件は自分にはまったく無関係であり、「あくまで私は佐野氏を叩く世間一般の味方です」みたいな顔をして偉そうなことをいってる「デザインの専門家」も、いずれ今の佐野氏と同じ立場に立たさせる可能性は十分にある。この問題はそういうことまでも含んでいる。

 また、「プロならデザイン案を出す前にしっかり調べろ」という批判もあったが、商標登録されたものを調べるのは比較的容易だろうが、いくらネットで画像検索ができるといっても、検索で類似デザインが100%上がってこない可能性もあるのではないか? 以上のことは、Bについても同じことがいえる。

 次にCについては、一見、佐野氏の疑惑をさらに強固なものにしそうだが、デザイン業界やメディア業界にいる人であれば、「内部資料として作ったものが公になってしまった」という佐野氏の説明にある程度、納得したはずだ。あくまで関係者しか目にしない原案であれば、ネット上の画像をちょっと拝借して使うことは普通にある。これを「盗用」と切り捨てるのは、どう考えても行き過ぎだ。

 AについてもCと同じような原案に過ぎなかったものを、うっかり最終デザインとしてクライアントに納品してしまった可能性がある。私は、出版業界でデザイナーとも一緒に仕事をしてきた経験から、頻繁に発生することはないにしても十分にあり得る話だと思った。
 あくまで想像の域を出ないが、原案でクライアント側のOKをもらって、そのあとにオリジナルのイラストと差し替える予定だったのに、複数の仕事をかかえていたスタッフが、ほかの案件の進行と混同してしまって最終デザインとしてそのまま納品してしまった。あるいは、オリジナルのイラストと差し替えた最終デザインも作ったのに、納品する際にPC内の同じフォルダーに保管しておいた「原案デザインファイル」と「最終デザインファイル」をうっかり間違えてしまった…とかね。

 その可能性もあるのに、佐野氏の事務所が日常的にパクリばかりしているかのように批判するのは、現時点ではかなり違和感がある。ただ、Aについてはすでにクライアントが使用しているので、佐野氏側に悪意がなかったとしても、結果論としてはアウトなのは間違いないと思うが…。



 ネット上の記事に目を通すと、私と同じような冷静な意見の持ち主も結構いるようだ。あるイラストレーターの方が書いた以下の記事は、まったくもってその通りだと思った。

http://www.mag2.com/p/news/27248


以下、特に同意したい部分を引用しておくと…(特に赤字太字部分は「激しく同意!!」。この記事を書いた人に握手を求めたいほどだ)

 
で、この件で最もガッカリしたのは、まさかと思ってた人までがすっかり釣られてしまって叩きに加わってること。

氏と「同類」に見られたくないための過剰反応かもしれないけど。マスコミまでがおもしろおかしく紹介してるし、「今回のオリンピックは何でも叩き放題ですよ〜!」って共通認識になっちゃったらしい。

なんちゅうか、ここまでくると佐野氏の件はどうでもよくなってて、大勢の人が安全な場所から個人を叩き続けて、恥ずかしいとも思わない風潮が嫌すぎ。

「民度が低い」としか言いようがない。足元の地面が崩れていく感じ。それに、落ち度がなくとも自分も叩かれる側になるかもという恐怖。騒いでる大半の人にこの恐怖はないだろうけど、それが「安全圏から叩く」なのだ。
 
ところで、僕はグラフィックデザインは多少知ってるから、専門家ではない文化人や芸能人など著名人たちのあまりにも的外れなコメントにあきれた。ってことは、誰もが専門外のことについてはデタラメを言ってる可能性がある。「わかんないのなら首をつっこむな」だ。そのへん肝に銘じたい。




 「まさかと思っていた人たち」が具体的に誰を指すのか不明だが、私が同様に感じた人を一人挙げるとすれば、教育評論家の「尾木ママ」こと、尾木直樹氏である。この人は佐野氏のことを「日本の恥」と斬り捨てているそうだが、まあ、テレビなどで意見を求められることが増えるにつれ、専門外のことでも自分は正しい判断ができると勘違いされているのだろう。この人は、教育問題では的確なことをいわれていると思うし、人間としては優しい心の持ち主だろうとも思うが、私のこれまでの勝手な印象をいわせてもらえば、教育問題以外のコメントでは70才近い年齢の割に薄っぺらいと感じることが多い。

 それはともかく、この記事の当初配信のタイトルは、『パクリ疑惑で佐野研二郎氏を叩く「何も分かっていない」人たち』だったのだが、記事最初に触れられているように変更されている。当初タイトルもそんなに内容とズレてないと思うが、どっちにしてもこの記事の指摘は同意する部分が多い。

 別のQAサイトでも、デザイナーだという回答者が「この問題は、デザインの理解が非常に低いレベルの者同士でのやり取りだと思います」と書かれていたが、それとも重なる。そして、まるで別分野のことではあるが、私がSTAP細胞におけるマスコミや世間の反応に心底驚き、「あー、こいつら何もわかっていない」と大いに呆れ、目眩がしまくったことにも重なってくる(マスコミも世論も本当にバカ丸出しだった)。

 世間一般の人たちは、誰でも判断できる社会一般のことと、専門知識がないと判断できない専門性の高いこととの区別がついておらず、どんなことでも自分たちはジャッジを下せると思っている。おそらく自分自身の学歴や職業の専門性が高くないので、その落差がどれほど大きいか、ということに想像力がまるで働かないのだろう。当然、専門性の高いことに関しては、そもそも判断云々以前に判断に必要な要素をすべて想起することすらできないし、従って正しい判断自体ができるはずもないのに、自分と同様の意見を見聞きしただけで自信満々になり、平気でズレたことを口している。みんな自分と同じ意見だ…多くの人が同じ意見ということは、やっぱり自分の意見は正しい…と。でも、その多くの人もあなたと同じく、その分野のド素人さんなのだ。素人の意見がネットやメディアによって結びついて拡大し、巨大なバイアスが作られてしまっている実態にまるで気付いてもいない。

 こういうモンスターみたいな人たちでも大きな集団になると、あたかも神の声の如く「自分たちこそ正しい意見」とばかりに世論を形成し、しかも困ったことにテレビなどで意見を求められるオピニオンリーダーさえも、そういう巨大な世論に媚びて、どこか慎重で遠慮した物言いをしたりする。でも、それって権力者に対して批判を遠慮するのと同じことではないか? その昔、どこの国でも権力者の声は「正しいもの」として誰もが批判や反論ができなかった。それが問題とされて民主主義が生まれたわけだが、今度は逆に世間一般の声が権力者と同じく無条件に正しいものと見なされ、それに反論できない空気が生まれている。本来は、どちらか一方を無条件に正しいとみなすこと自体が大いなる勘違いなのではないのかと、私は思うのだが…。これは、最近の安保法制や原発反対の世論についても、まったく同じことがいえる。





イスラム国人質事件について考えたこと/2015年2月5日


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 イスラム国の人質事件は、強い憤りを覚える。殺害された湯川さん、後藤さん、ヨルダン人パイロットのカサースベさん。その恐怖を想像すると言葉にならないし、ご遺族の悲しみを思うと心が痛む。その一方で、マスコミの論調には少し違和感を覚える。冷静に考えた方がいい部分もあるかもしれない。

 後藤さんについては、これまでの実績と今回の件については分けて考える必要があると思う。おそらくマスコミ報道の通り、後藤さんは命がけで紛争地の実態を世界に伝え、常に弱者に目を向けておられた優しい方なのだろう。ジャーナリストとして大変、素晴らしい活動を続けられていた。そしてイスラム国やシリアの現地状況に精通しておられたのも、ある意味正しいだろう。その点は否定しない。今回も湯川さんの情報を得たいという善意とイスラム国の取材が目的だったわけだから、軍事オタクの延長のようにしか見えない湯川さんとは動機が違う。

 しかし結果論でいえば、日本とヨルダンの政府までも巻き込む大事件の要因を作ってしまったわけだ。亡くなられた方に冷たいことをいうようで大変申し訳ないが、これほどの事態を招いた結果責任は、残念ながらあるとしかいえない。もちろん、一番許せないのはイスラム国だが、やはり判断が甘かったといわれても仕方ない。

 イスラム国の実態がよくわかっていない段階でシリアに渡航し、拉致・殺害されてしまったアメリカ人ジャーナリストとは違うと思う。昨年秋の段階では、イスラム国というのは、平気で人間の首を切り落とすおぞましい存在というのはわかっていた。極めてリスクが高いことは、各国マスコミ関係者は、みんな知っていた。日本人フリージャーナリストの中には「イスラム国のリスクは次元が違うので、自分は近づくことはない」という人もいたが、おそらくほとんどの人はそういう認識だったと思う。日本政府が、後藤さんに3度も「渡航自粛」を要請したにも関わらず、それを聞き入れずにイスラム国に入り、こういう事態になってしまったわけだ。

 ジャーナリストが「命がけの取材をしている」というと立派に見えるし、それを無条件に賞賛する人もいっぱいいると思うが、その背景には「世界をあっといわせる報道をしたい」というのもホンネとして大きいのではないか。しかし何かが起こった時、結局、その尻ぬぐいをしなければならない人がいることをどう考えているのか聞きたいものだ。

 ビデオで「何が起こっても、すべて私に責任があります」とおっしゃっていたが、こういうことって自己責任では完結しない話だろ。日本国政府は身代金要求に応じておらず、見かけ上の金銭的損害はないが、今回の人質事件のために動いた政府関係者の人件費、交通費…等のことを考えると、おそらく億単位ではないか。リスクが高くない国で運悪く人質となった事案では、国としてあらゆる対応をぜひしてほしいと思うし、被害者に大いなる同情を抱くわけだが、今回の件はリスク承知で自ら超危険地域に出かけて人質になってしまったわけだから、それと同じではない。彼らの判断ミスで、おそらく相当な金額の税金が使われたわけだ。普段、マスコミは、行政の判断ミスによる無駄遣いを徹底的に批判しているが、今回のような事案はどうして無条件に許すのかよって思うね。

 マスコミが後藤さんのことを勇敢で立派なジャーナリストとして賞賛ムード一色で取り上げるのも追悼という意味では、まあいいんだけど、その背景には、同じジャーナリストとして危険地域で似たような目に遭わないとも限らないことを念頭に擁護しておきたいこともあるのだろう。
 
 現地に行かなくては本当のことはわからない。それを伝えることがジャーナリストとしての使命だ。そりゃそうだろうけど、イスラム国の実態を報道することが、自分の命を賭けてでも、あるいは自国政府だけでなく他国まで巻き込んでも絶対にしなければならないこととは私には思えないけどね。

 昨日の朝日新聞に、2004年のイラク人質事件で陣頭指揮にあたった元外務事務次官・竹内行夫さんのインタビュー記事が載っていた。その中で竹内さんは次のように証言されている。
 当時、バグダッド駐在の日本の外交官たちは、外に出るのも危険な状況でありながら、イスラム聖職者や米英暫定占領局、あるいは部族長たちのもとへかけずり回って情報収集したという。そんな折、イスラム聖職者協会の幹部から「自分たちが3人を保護したので引き取りにきてくれ」と連絡が入る。もしかするとそれはワナで、迎えに行った外交官が人質にされる危険も考えられたが、大使館トップの臨時大使は覚悟を決めて出かけられたそうだ。結果的には、その連絡はワナではなく、日本人人質を無事に救出できたわけだが、つまり場合によっては対応する日本国政府関係者も命の危険にさらされるということである。
 今回の件では、ヨルダン政府の判断に任せるしかなく、似たような事態があったのかなかったのかは知らないが、そういうことも合わせて考えると、後藤さんがいう「自己責任」について疑問に思わずにはいられない。崇高なジャーナリストの使命を果たすためなら、万一の事態に対応する政府関係者が命の危険にさらされても仕方ない? 後藤さんを擁護するマスコミ関係者が、もしそう思っているとしたら、なんと傲慢な考え方だろうか。

 実は4日午後、この記事を書き終えたところで、自民党・高村副総裁の発言が報道された。高村さんいわく「後藤さんは蛮勇」。まさにおっしゃる通りだと思う。後藤さんも湯川さんも、その行動は個人で責任をとれる範囲を越えている。後藤さんのこれまでの実績がどんなに立派でも、どんなに「いい人」だったとしても人生最後の選択は大間違いだったと申し上げるよりほかにない。





間違った認識を生むゲシュタルト効果という罠
/2014年9月23日

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先日、BSのある番組を見ていたら、脳科学者が歴史上の人物について「ゲシュタルト効果」という用語を使って意見を述べていた。心理学用語の「ゲシュタルト崩壊」なら知ってたけど、「〜効果」の方は知らなかったなぁ。ゲシュタルト効果とは、自分が知らない空白部分を脳が勝手に補完して全体をとらえてしまうことだそうだ。おそらく脳が空白部分を補完していく際には、自分にとって都合のいい内容に偏りやすいと想像される。
 脳にそういう機能(半分は便利だが、半分は危うい)が備わっていることを前提にすれば、世の中の様々なことが、わかりやすく見えてくるような気がしてきた。

 そもそも人によって、なぜ意見が異なるのか。その理由を突き詰めていくと、知識や論理性の優劣、あるいは経験や価値観の違いなど、個々人がもつ要素が異なることに由来すると考えられる。もし、判断に必要な情報と正確に機能する論理プログラムをPCにインストールするように大脳に入力することができるのであれば、人々の意見は、価値観の違いによって分かれることはあっても、一定の方向に収束すると思われる。ただ現状は、意見相違の原因が、どちらかの知識不足から来ているのか、それともどちらかの論理がおかしいのか、客観的に把握できないことも議論がまとまらない理由のひとつだろう。

 もともと誰しも自分の考えは、基本的に正しいと思っている。でも、より正確にいえば、過去の判断の何割かは確かに正しかったが、その一方で何割かは間違っていたはずだ。自分にとって不愉快な失敗例は忘れがちになり、気分のいい成功例だけがより強く記憶に残り、それが自信につながっていることも多いかもしれない。

 とはいえ自分の判断の信用性さえも疑ってしまえば、人間は海図のない船に乗せられて大海の真ん中に放置されたようなもの。つまり誰しも自分の判断が正しいという前提で生きるしかないわけだが、ゲシュタルト効果によって、脳はしばしば間違った認識を生むことも知っておいた方がよいだろう。

 脳は、断片的な知識しかなくてもゲシュタルト効果に従って空白部分を埋めて全体像を作り上げる。空白部分が多ければ多いほど、作り上げた全体像と真の全体像とのズレ幅は大きくなり、出来上がった全体像は人それぞれ違ったものになる(=意見の相違が生まれる要因)。しかも困ったことにゲシュタルト効果は自動的に行われるので脳が作り上げた全体像を本人は正しいものだと思い込んでもいる。なぜなら脳は、自分のもつ知識が断片的なものに過ぎないことや、知識の空白部分を脳が勝手に埋めていく様子を視覚的にわかりやすく示してくれないからである。

 このことは、原発の放射線やタバコの害…等々、最近の諸問題に関わる世論を形成する根底にもつながっていく話だ。
 ほとんどの人にとって放射性物質なんて見たこともないし、得体の知れない危険なものといった認識しかない。被曝すると髪の毛が抜け落ちるとか、癌になるといった断片的で危険なイメージだけをもとにするので、脳はゲシュタルト効果に従って残りの空白部分をリスクが高い色で埋めていくことになる。だからこそ福島原発事故後、あのような過剰に放射線を恐れる反応が出てきたのだろう。
 一方、タバコの場合は放射線に比べれば、はるかに身近なものだ。しかも毎日のように吸っても今のところ病気になっていないヘビースモーカーが家族や知人にいたりする。そのため脳は、そのイメージだけをもとにゲシュタルト効果に従って空白部分を放射線よりもリスクが低い色で埋める。だからこそ禁煙学会がアニメ映画『風立ちぬ』の喫煙シーンを問題とした意見を過剰なものと見なす人が多かったのだろう。
 しかし、どちらの場合も実際のリスクを正確に反映したものではなく、あくまで脳がゲシュタルト効果によって勝手に作り上げた不正確なものに過ぎないのだ。

 ゲシュタルト効果という脳の機能の存在を前提にすれば、人々の意見の相違や専門家と世論の間に生まれるズレなどを説明しやすくなる。
 一般人の場合は、当然のことながら断片的な知識しかないのでゲシュタルト効果が働く余地が大きく、一方、専門家の場合は、ゲシュタルト効果が入り込む余地は限りなくゼロに近いか、あったとしても限定される。こうした構造の違いを考えれば、世論と専門家の認識の間にズレが生じるのは当然だろう。

 従って一般人のあなたが、何かの判断をするときに「自分の判断にはゲシュタルト効果によって作られた不正確な部分も含まれているのではないのか」と、ふと立ち止まって冷静に考え直すのもいいかもしれない。





小保方会見で私が考えたこと(2)
〜小保方さんの主張はそれなりにスジが通っている〜
2014年04月13日


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 私は、以前から日本のおける世論とは、極端な反応をすることが多いと感じていた。今回も、最初は「リケジョの星」とばかりに大絶賛。どうでもいい彼女愛用の指輪ブランドまで調べ上げ、それをわざわざ記事にして報道する(くっだらねー)。ところが、論文の不備が次々に発覚すると一転、批判の嵐。本来は無関係なプライベートなことまで徹底的に探してきて、「実は痛いリケジョだった」と散々こき下ろし、真実かどうかもわからない情報をもとに、記者の憶測だけで、あたかも真実であるかのように平気で記事にする(それってプロの記者としては完全にアウト)。しかも、小さくなって泣きながら謝罪しているにも関わらず、それでもなお、その前に仁王立ちになって批判を続けるわけだ。当然、自分は「ウソツキ女」を叩きのめしている正義だと酔いしれながら。

 今回の会見でも「あなたねぇ、人を騙しておいて…」みたいなきつい口調で質問をしていた記者がいたらしいが、この人は、人のことを批判する前に自分が本当にマスコミ業界にいるべき人間なのかどうか、一度考え直した方がいい。この記者は、本質的なところを何も見抜けておらず、自分では何も考えてはおらず、表面的な情報だけを取り入れて勝手に決めつけているだけだ。つまり、記者としては完全に疑問符しか付かない。
 おそらく理研の調査委員会が、捏造と判断したことだけを見て「人を騙している」と決めつけているのだろうが、本質的なところをきちんと見れば、むしろ理研の論理の方がおかしいという話であって、おそらくそれに気づいている、まともな記者もたくさんいると思うが、この記者はお気の毒なことにそれにお気づきになっていないらしい。自分の無能ぶりをテレビカメラの前で自ら大っぴらにするとは、本当にマヌケとしかいいようがない。
 
 それはさておき、日本の世論はなぜ、これほどまでに極端なのだろうか。その理由は簡単だ。日本人は、一致団結して集団行動するのが、なによりお得意で、それを美徳とする国民性。しかも論理的に物事を考えるのが不得手なので、「0」か「1」かみたいな単純な発想になりやすいという下地まで揃っている。何かを判断するとき、自分で考えるんじゃなくて、まず何よりも「まわりはどう判断しているか」を気にし、それを最大限参考にしながら自分の意見を決める。であれば当然、意見が同調しやすく、そういう極端な反応になりやすい。

 今回の件で最も重要な点は、「彼女は結果を捏造したわけではない」ということである。画像の切り貼りとか、いろいろ問題点や不備が指摘されているが、それはある意味、枝葉的なことであって、それがあってもなくても結果自体には影響はしない話なのだ。確かにミスが多くて信頼性を失っているのは間違いないが、だからといってSTAP細胞の存在自体が完全に否定されたわけではない。
 そもそも捏造することに何のメリットもなく、デメリットというよりも研究者生命が危機に陥るという高いリスクしかない。彼女は、数ヶ月前までは無名の研究者で、理研のユニットリーダーという研究者としては優遇され安定した立場にあり、わざわざ高いリスクをとってまでして捏造する動機は考えにくい。

 かつて石器発掘を捏造した考古学者がいたが、バイオサイエンスにおける捏造とは、考古学よりも圧倒的にハイリスクである。なぜなら考古学では、検証に時間がかかるが、バイオサイエンスの特に世界中の研究者が注目する結果では、すぐに再現実験が行われ検証されるだろうことも容易に想像される。つまり、ソウル大・黄教授の一件を知らないはずがない彼女が、捏造という手段を選ぶとは到底思えない。

 再現実験の成功者がまだいないといっても、最先端の研究では、最先端だけに珍しいことではない。また記者会見で根拠を示さなかったことを訝る専門家の意見もあるが、私は今回の記者会見でそれをオープンにすることはしないんじゃないかと思っていた。それはいろいろな理由が想定されるが、ひとつは体調も万全ではない状況で、しかも論文のミスを指摘されまくったあとだけに、やはり今度はうっかりミスをしないように…と余計に慎重になるだろうと想像したからである。

 それに記者会見では、もしウソなら、いずれ必ずバレて、余計に目も当てられない状況に陥るだろう情報を彼女は自ら積極的に発言していた。私はそこに彼女の自信を感じる。
 少なくとも世間が想像しているような「痛いリケジョがやっちまった」みたいな話じゃない。

 私は、今回の一件もiPS細胞移植手術の誤報騒動と同じで、国民とマスコミの科学音痴ぶりとバカっぷりがバレちゃっただけだと考えている。本当に呆れるほど単純で何も見えていない。
 記者たちは一応、ブランドマスメディア名が名刺に入るだけで、あたかも自分も何かの権威になったように錯覚。本当は、それほどでもないのだけれど、そう思いたくて思いたくて仕方ない。自分たちは社会を代表して検証し、正しい情報を届けている「権威」だと思い込んでいるが、国民はその自分たちを検証対象として見始めていることにまだ気づいていない。

 アウトなのは、彼女じゃなくて、単純でおバカな国民とマスコミの方であり、真理よりも組織防衛を優先した理研であり、さらにいえば、科学的な視点からしか考えられず、それ以外の想像力はあまり働かない、マスコミから意見を求められた専門家の方である。

 彼女は早稲田大学にAO入試で入ったそうだが、実にAO的な人材だと思う。一般的な研究者にあるべき姿からはやや外れていた部分もあったかもしれないが、すごく優秀で、発想もユニーク。そういう人材を拾い上げるのがAO入試の目的だとすれば、それは成功しているといっていい。今回の件は、今後は注意すればいい話であって、それでもって彼女の研究者生命を奪うようであれば、日本の科学立国としての未来はない。日本という国がアウト。それくらいの話である。
 (連載終わり)






小保方会見で私が考えたこと(1)
〜小保方さんの主張はそれなりにスジが通っている〜
2014年04月11日


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 すべてではないが、小保方さんの記者会見を見た。あの会見を見た専門家からは厳しい意見が相次いでいるようだが、私は小保方さんの主張には、それなりにスジが通っていて、そんなにおかしなことはいっていないと考えている。…なんてことをいうと「おまえは普段から科学リテラシーとかいってるくせに、根拠を提示しなかった、あの記者会見を認めるのか? 専門家はみんな否定的な意見しかいってないじゃないか」とツッコまれそうだが、私はその専門家の意見も少し違うと思うのだ。確かにSTAP細胞に対する疑惑を晴らすには、専門家が納得する科学的な根拠を示すしかない。それは絶対に間違いないし、その部分は一切否定しない。
 しかし、その一方で私はこうも思う。専門家は、みんな科学の視点からしか見ていないし、それは科学者なのだから当然のことではあるんだけど、この一件は科学的な側面だけではなく、いろいろな要素が絡み合っている。確かに本質はSTAP細胞という完全な科学の範疇の問題には違いないが、それだけで判断してしまっては真実には迫れないと考えている。


例えば専門家のこんな意見…
「世紀の大発見の要ともいえる重要な写真を取り違えるなんてあり得ない。それはアルバムに自分の子供の写真を貼ろうとして、うっかり他人の子供の写真を貼っちゃうようなものだ」


 仰りたいことはよくわかるけど、私は少し違うと思う。
 どういうことか説明しよう。このページは、ホームページビルダーで作っているが、写真と文章をセットにするという意味では、パワーポイントと同じようなもの。そのホームページビルダーで、例えば山を写した写真ファイル「img100」を挿入したページを作ったとする。その後、新たに海を写した写真で新しいページを作成・保存する時、たまたま写真ファイル名が同じ「img100」だった場合、以前のバージョンでは、上書きするか、しないかの選択画面すら表示されず問答無用に旧ファイルが上書きされてしまっていた(その後のバージョンで選択画面が表示されるように改善された)。つまり、このことは自分の意図しないところで、最初のページの山の写真が、自動的に海の写真に差し変わってしまうことを意味している。
 この例のように掲載写真の内容がまるで異なれば、差し変わってもすぐに気づくだろうし、掲載点数が多くても写真のアスペクト比(タテ・ヨコの寸法比)が異なる画像であれば、タテかヨコのどちらかが延びるか縮むかした変型画像になるので、気づくだろうが、よく似た画像で、しかもアスペクト比が近ければ気づけない可能性もある。
 小保方さんが使っていたパワーポイントでは、こうしたことが起こり得るのかどうか知らないが、そうでないとしても次のような場合も想定される。

@ソフト上ではなく、フォルダ上で不要な画像を整理削除した時にうっかり真正画像も一緒に削除してしまった。しかし本人はそれに気づかない。A後日、ソフト上でページを確認したところ、画像が表示されないことで画像ファイルをうっかり削除したことに初めて気づく。Bそこで別のフォルダに保管してあった真正の元画像をその画像内容をしっかり確認して、再度、ソフト上で貼り付ければ問題ないのだが、そうではなく、別フォルダ内に並んでいるファイルの中からファイル名だけ確認して、ソフト用フォルダにコピーした場合、ファイル名が似ていれば、本人が意図していなくても真正画像ではない別の画像と差し変わってしまう可能性があり、さらにソフト上で本人がそのページを見ていたとしても、よく似た画像でアスペクト比も近ければ、差し変わったことに気づけない可能性がある。それは本人でさえ認識していないところで発生しているのだからなおさらだろう。

 そもそも最初に画像を挿入する際に画像内容を確認せずファイル名だけで見て挿入し、たまたま真正画像と似た画像だったので見落とした可能性と、上記のようなある意味、ソフトの特性というか欠点みたいな部分に起因し、彼女もそれに気づいていない可能性もあるかもしれない。

 このようなことは、論文用原稿用紙に手書きし、写真も紙プリントを紙に貼り付けて論文を作っていた、ひと昔前の作業では起きにくいことだが、論文もPCで書くようになると、しっかり注意して作業をしないと、このような画像の差し変わりが自分が意図していないところで発生する可能性がある。

 それでも、やはり重要な写真を間違えるのはおかしいという意見もあるだろうが、そもそも私は細胞写真のようなものを自分の子供に喩えるのも、やや行き過ぎた喩えだと思っていて、いくら重要な写真とはいえ、その写真を見ただけで、STAP細胞の存在に納得する研究者はひとりもいない。しかも似たような色で染色された細胞の顕微鏡写真であれば、本人でさえ間違えることはあり得る。なぜなら細胞の顕微鏡写真なんて、どれも似ていて、いくらバイオサイエンスの研究者が自分で撮影した重要な写真であっても、この複雑かつ似たような絵柄の細かい部分まで正確に記憶しているわけがない。

 本人でさえ間違えることがあり得る理由をもうひとつ説明しよう。
 こういう否定的意見をいっているのは大学の教授クラスの人だと思うが、彼らは研究室のトップなのだから、論文を投稿するかしないか、投稿するにしても、いつどのタイミングで出すのかも含めて自分で決められるし、経験も豊富だから精神的な余裕もあるだろうが、彼女はそうではない。おそらく理研上層部のいろいろな思惑もあって、ネイチャー投稿を決められ、あの若さでその執筆の大半を任された。笹井副センター長のバックアップもあったとはいえ、明らかに彼女の経験からすれば、荷が重すぎる状況であり、しかもネイチャー投稿という初めての体験。いろいろなところに気をとられて、上記のような原因だったのかそうでないかは知らないが、何らかのミスで本人が意図しない形で「画像の差し変わり」が発生したのを見落としたとしても、それを責めるのは酷だと思う。

 免許取り立てで車を運転して幹線道路に出たとき、信号や標識、歩行者の動きにやたら目がいき、おまけにクラッチ操作やハンドル操作にも気をとられて、ガチガチに緊張。ゆっくり車窓の光景を楽しむ余裕がなかったことは、免許を持っている人はみんな経験していると思うが、それと似ていると思う。そんな状況で、うっかり一方通行標識を見落として路地を逆走。パトカーに呼び止められ「あなた、免許持ってるんでしょ。じゃあ、この道が一方通行ってことくらいわかるよね」と叱られた。確かにそういわれると「仰る通りです」というしかないが、でも、いくら自分は注意していても、ほかにも多数気をとられることがあれば「うっかり」ミスをしてしまうもの。それは人間であれば誰しもあり得ることではないか。

「世紀の大発見の写真を間違えるなんてあり得ない」…確かにそうだけど、それは「精神的に余裕がある場合」が条件になる。

(続く)





偽ベートーベン騒動について感じたこと
〜告発記事を書いたノンフィクション作家にも相当な違和感を覚える〜
2014年3月10日


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 日記に引き続き、ひつこいけど、このネタ、もう一回行きます。繰り返しになるけど、今の平均的なマスコミ報道やネット意見もちょっと違うと思う。肝心の部分をよく見ていない。何度もいうけど、別に偽ベートーベンの肩をもつ気はさらさらない。しかし社会に一番必要なのが真理だとすれば、現在、マスコミも含めて世間一般の人が抱く印象もかなり安易すぎると思う。

 今日もテレビ番組で記者会見の様子が繰り返し話題になっていた。そこでクローズアップされたのは、偽ベートーベン告発記事を書いたというノンフィクション作家・神山典士氏が質問をし、佐村河内氏がそれに即答したかのように見える部分について。確かに壮大なウソをついていた佐村河内氏を徹底的に疑う気持ちはわかる。しかし、あのやりとりでもって「聞こえてるじゃん。やっぱりおまえは大ウソツキだ」と断罪するのは、恐ろしく単純すぎるし、この作家のピンボケな正義気取りも鼻につく。

 都合よく編集されたものではなく、最初から最後まで未編集で収録された記者会見の様子をよく確認してみよう。あのやりとりは正確には以下の通りである。


神山 「えーと先ほど、あー、障害者に対する思いにウソはなかったという話がありますが、えーと佐村河内さん、確か去年の10月のサントリーホールでのコンサートのあと、義手のバイオリニストのみっくんに対して自分に謝るのか、あるいはバイオリンをもうやめるのかというメールをうっていますが、今考えれば笑止千万のメールなんですが、あれはどういう思いで自分にどういう力があって、ひとりの女の子の運命を左右しようとしたんでしょうか。またそれに対する謝罪の言葉をまだ聞けてないんですが」

佐村河内 「どういうことですか。どういうことですか。あの何を謝ればと」

神山 「まだ手話通訳終わってませんよ」(ほかの記者・カメラマンからの嘲笑)「全部聞いてからの方がいいんじゃないですか」

佐村河内 「は? 僕は今おっしゃったことに対して話しているわけです。何を僕がみくちゃん…」

神山 「目と目を見てやりましょう。僕と口話してください」

佐村河内 「あのーそういうふざけたことはやめてもらえませんか。科学的な検査がそこに出てきているじゃないですか」

神山 「聞こえるというね」

佐村河内 「もう、みなさん、本当にすみません。質問もう結構です」


(やりとりはさらに続くが省略)




 そもそも神山氏の質問の意味もよくわからないが、この質問の間、佐村河内氏はほぼずっと手話通訳者の方を見ているのは、まず確認できる。手話通訳が完全に終わってなくても「謝罪」という手話が出た時点で反応したとしても不思議ではない。神山氏は「謝罪」という言葉が手話通訳されていないことを確認した上でいっているのだろうか? それに佐村河内氏は、全聾ではないが、ゆがんだ感じで聞こえることもあるといっている。つまり、声の波長などの条件次第で部分的に聞こえたとしても、それはなんら矛盾しないだろ。

 この神山という作家も世の中にはよくいる典型的で単純な二分法発想しかできない人みたいなんで、そういうのも本当に困るんだけど、「聴覚障害者=耳が聞こえない」「健常者=耳が聞こえる」というふたつの選択肢しか頭にない。しかし聴覚障害というのは、そんなに単純じゃないだろう。例えば高音なら聞こえるけど、低音なら全然聞こえないとかさ。それでも聴覚障害の範疇に入ると思うけど、この場合は、声が高音の人が話す内容なら理解できるわけで、第三者から見れば健常者どおしの会話にしか見えないわけよ。この神山という作家は、そういう可能性を微塵も考慮していない。っていうか、なんとして佐村河内氏に「大ウソツキ」という烙印を押したくて押したくて仕方ないという印象すら受ける。そりゃそうだろうよ。自分は「正義の人」をアピールできて格好いいし、自分を売り込める最大のチャンス。しかも、この一件がまた話題になれば、彼にとっては仕事とお金に結びつくわけだから。

 マスコミもこういう程度の低い作家の茶番にそのまま載せられるんじゃなくて、肝心なのはそこじゃないだろ。佐村河内氏が記者会見に持参した診断書の信憑性がどの程度あって、どういう医師が診断し、本当に正しい結果を出しているのか。診断書に書かれていたらしい「感音性難聴」がどういうもので、佐村河内氏の言動と照らし合わせて妥当なものなのかどうか。そこを検証するべきでは? この論点は結局突き詰めると医学の問題なんだよ。それわかっているのかね? そういう分析の詰めが概して甘い文系作家の薄っぺらい正義気取りにも吐き気がする。佐村河内氏の聴覚がどういう状況にあるのか、医学の知識もない信州大学人文学部卒の作家にそんな言葉のやり取りだけで検証なんかできるわけがない。




 似たような感想を抱いた人はほかにもいたみたいで、あるネット記事にはこうあった。


 あらかじめ断っておくが、多くの関係者を騙し、聴覚障害者に肩身の狭い思いをさせ、社会保障制度を悪用した佐村河内氏を擁護する気は毛頭ない。ただ、このウソツキを叩くことに終始し、当事者でもないのに謝罪を強要するかのようなマスコミの報道姿勢はいかがなものか。佐村河内氏と質問者の“ボケ・ツッコミ”に反応してせせら笑いしていた会場の記者たちに対し、薄ら寒さを覚えたのは筆者だけではあるまい。

(中略)

 しかし、そもそもこのウソツキを「現代のベートーベン」などと持ち上げていたのは一体誰なのか。あるいは、せいぜい十数万人の、権威に弱いクラシック音楽ファンの間でしか知られていなかったこのウソツキのウソが明らかになるまで傍観していながら、謝罪会見となった途端、200人以上で取り囲んで断罪し、嘲笑を浴びせ、トップニュースに仕立てあげようとする姿勢は何なのか。正義ぶってはいるが、安全圏から集団で弱い者いじめを楽しんでいるようにしか見えない。 


 私はその通りだと思う。要は、ホンモノの音楽を自分は見抜けるみたいに気取って、佐村河内氏を取り上げ宣伝しちゃったことで、それがウソとわかったと同時に佐村河内氏だけでなくマスコミ自らの程度もまたバレちゃったわけだ。だから余計に佐村河内氏が腹立たしく、佐村河内いじめにつながっているようにしか見えない。私は、佐村河内氏のウソも確かに許せないが、この神山典士というノンフィクション作家が正義を気取って、マスコミで一定の地位を保っていることにも「おぞましさ」を覚える。緻密な分析と公平な視点を感じないこの人に正義を気取る資格はない。


 
参考情報

@意図して編集されたYouTubeはこちら

Aより正確に現場のやりとりを確認できる未編集のYouTubeはこちら 問題のやりとりは14:00あたりから

※@を編集した人は真実よりも話題性を重視している程度の低いニセモノであり、本来マスコミにいるべき人ではない。肝心の部分をカットし、佐村河内氏が即答したように見せる演出をしているのが非常によくわかる代物である。






世論という実はいい加減なものの正体 〜新型インフルエンザから禁煙学会の一件に至るまで、その違和感の背後にあるもの〜/2013年11月03日


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 本サイト2013年9月22日の日記で経済学者・池田信夫氏の記事をリンクした上で、池田氏の意見に同感であると書いた。この記事の中で池田氏は、「禁煙学会の要望書について『バカなことをいうな』という反応が多いのは意外だった」と書かれているのだが、私も氏と同じように世間一般の反応に驚いたうちのひとりである。私が読む限り、禁煙学会の主張は十分に納得できるものであり、むしろその主張をまるで変人扱いしている意見の方がよほど異常に映ったわけだが、考えてみれば、これと同じように世間一般の反応に驚くことが、近年増えていることにふと気づいた。
 それは新型インフルエンザや口蹄疫のときもそうだったし、原発事故に対する反応も同じである。このズレって一体何なんだろう。いろいろ考えていくに従い、ようやくピンときた。あーきっとそういうことなんだろうなって。そういう世論形成の一翼を担っている評論家みたいなオピニオンリーダーはもちろんだが、マスコミ関係者も含めて、全員、誰もそれに気づいていないし、当然その分野の専門家は世論のズレに危機感をもっているはずだが、専門家といえども世論を修正するのは容易ではないのだろう。

 私が考えた理由は次の通りである。
 新型インフルエンザにしても原発の放射線にしても、あるいはタバコの害にしてもそうなのだが、本来は判断に必要な情報を集め、問題の中身をしっかりと正確に理解した上でないと判断できるはずもないことでも、とりあえず自分の持っている薄っぺらな知識と漠然としたイメージだけで人間はなんらかの判断を下そうとする性質があることと無関係ではないと思われる。なぜ人間にはそういう性質が備わっているのか。それは生きる上で「わからない」ばかりで答えを出せないままだと先に進めないことも多いからだろう。
 たとえていうと、登山の途中、地図にない三叉路で立ち止まって、右か左かと延々悩んでいるわけにもいかないのと同じで、判断材料がなくてもどちらかを選ぶ選択をしないと先には進めない。人生なんて、そんな悩ましい分岐点だらけなわけだが、わずかな情報だけを頼りに「右が正しい」と考えたり、あるいは直感的に「左が正しい」と判断したりする。誰しも外面はいっぱしの判断をしているように気取ってはいるが、その程度の根拠だけで判断していることも多いのが実態だろう。

 新型インフルエンザにしろ原発の放射線にしろ、自分の知識や社会常識で判断できる内容ではないので、それらをいくら駆使して考えても答えは出ない。とはいえ自分なりに何らかの答えは出したいので、頭の中に漠然と浮かんだイメージに加えてマスコミやネット情報、ほかの人の意見などを参考にすることになる。で、それらの情報を見聞きした上で、有名なマスコミの情報だから正しいと考えたり、ネット上で自分と同意見を見つけて、ますます自分の意見に自信を深めたりする。しかし、実はその意見を述べている人がどういう知識を持っていて、その問題を判断するのに本当に適しているかどうかなんて重要な点に関心が寄せられることはまずない。文系の評論家が科学の問題に関してトンチンカンなコメントをしていても、「テレビにも出ている評論家のいうことだから、きっと正しい」という具合である。
 また例えば素粒子に関することみたいに誰が見ても高度な専門的な内容では、自分にはとても判断できないと謙虚に考えるわけだが、世の中の問題というのは、専門的な部分と一般常識の部分との境界線が曖昧なものもいっぱいあって、外見は一般常識の範囲にあるように見えても、その中に専門的な部分がモザイクのように入り込んでいることもある。しかし一般の人にはそのモザイク部分の見分けがつかないので、自分でも判断できる範囲だと勘違いしやすい。その典型がタバコ問題である。

 ほとんどの人は、自分が判断材料に使う情報の中に信憑性の低い情報も含まれていても、すべてをごちゃ混ぜにしたまま、テキトーに判断している。タバコの害にしても医学知識どころか科学知識もほぼゼロなので、自分がこれまでに聞いたタバコが害になる話も参考にしながら、でもまわりにいっぱいいる喫煙者が全員病気になっていない現実も勘案しつつ(本当は大して意味もない事実なのだが)、たぶんタバコの害とはこんなところだろうと、無意識のうちにリスク評価を10段階の真ん中くらいに勝手に決めちゃったりする。
 その一方で内科医は、実際に喫煙による肺ガン患者やニコチン中毒患者の現実を目の前で何人も診ている上に、疫学調査の結果やその意味はもちろん、タバコに含まれるどういう物質がどれほどリスクがあるのかについても精通しているので、彼らよりもリスク評価を高く見積もるわけだ。この認識の違いこそが、禁煙学会と世論とのズレを生んでいる。より高いリスクに対しては、メディアにおける扱いも慎重にすべきと考えるのは当たり前の話である。
 禁煙学会の一件で「バカなことをいうな」という感想をもった人々は、実はこれが科学の問題であることすらもわかってはおらず、薄っぺらな知識を元にして自分で勝手に位置づけた低めのリスク評価を基準にして判断しているところが大問題なのだ。さらにいえば同意見の人が多いのを確認して余計に自信を深め、自信満々に意見を述べたりするわけだが、「同意見の人は自分と同じく科学に疎くてレベルが低いだけ」という事実にも気づいていないお粗末ぶりである。
 医学・生物系の専門家の中にも禁煙学会を批判する人がいたのも承知しているが、肝心なのは、その全員がタバコの害の実態を知るはずもない(実際の患者を診たことがない)分野の専門家であることに気づいた方がいいだろう。少なくとも内科医で、禁煙学会を批判する人は、おそらくほとんどいなかったのではないか。文系メディアが、医学・生物系ということで専門家を一緒くたにしちゃうのも実に困ったもので、彼らはこういう詰めが恐ろしいほどに甘い。

 このようなバイアスは、ネットによって一層拍車がかかったようにも感じる。なぜなら、今までは埋もれていた個人の意見が公になりやすくなり、それが同じ意見をもつ者どうしの自信を深めるように作用すると考えられるからである。たとえバイアスのかかった意見でも大多数を占めれば、それが世論となる。世論という一見、見識あるように見える意見であっても、割といいかげんな判断が元になっている場合があることをご理解頂けるのではないだろうか。
 ただし私自身は例外というつもりは毛頭なく、知識が薄い分野に関することだと、やはり同じような判断を知らず知らずのうちにしてしまう可能性は十分にある。たぶん、それは専門家でも専門外の分野になると同じだろう。しかし、そういうバイアスがかかる可能性があるのをまったく認識していない人と比較すれば天と地ほどの違いがある。
 どちらにしても今の日本社会における世論とは、末恐ろしい状況になりつつあるにも関わらず、それを軌道修正する役割のマスコミが、修正するどころか、せっせせっせとバイアスの元を生んでいる。まあ、はっきりいっちゃえば目も当てられない呆れた状況であることは間違いない。





ハエ付着パンの学校対応は問題なし/2013年10月3日

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 岐阜県可児市の小学校で給食のパン表面に体長1〜2ミリのクロバネキノコバエが付着していた一件で、給食センターがハエ付着部分を取り除いて食べるように指導したことで批判されているようだ。確かに食品に虫が付着・混入するのは好ましいことではないが、この件に関していえば、やや微妙な話で、私は学校と給食センターの判断に大きな問題があるとは思わない。

 一昨日、テレビ朝日の番組を見ていたら、東京都内で教育長をしていたという人がコメンテーターとして出演して「危機意識が低い」と学校と給食センターの対応を批判していた。しかし、私はこの人にぜひお聞きしたいのだが、この場合の「危機」って一体何だろうか? ネットの意見を読むと「不衛生極まりない」とか「ハエは病原菌を持っているから危険」みたいな意見が溢れているのにも驚いた。しっかし、それにしても一般市民の意見もすごいバイアスだらけだな。あのね〜、少なくとも今回の場合は、不衛生というのはまったく当てはまらないし、これで集団食中毒が発生したかもしれない可能性はゼロである。

 その理由はちょっと考えれば、すぐにわかる。今回のパンは、焼く前に付着していたのである。仮にハエが危険な病原性細菌やウィルスを持っていたとしても、高温で焼いているのだから、それらの危険因子は確実に消滅している。児童にしてみれば気分はよくないだろうが、衛生的な問題が発生することはない。しかもパン生地をこねる時に混入したのであれば、生地内部のハエまですべて見つけられず、うっかり口にすることもあり得るかもしれないが、表面に付着しただけであれば、ざっと見るだけですべて取り除けるはずだ。うっかり食べても火を通しているのだから衛生上の問題はない。
 ハエが混入したのが、サラダとかの生ものとか、あるいは火を通したあとの料理だとしたら確かに不衛生といえるので、すべて破棄するという判断でも間違っていないと思うが、今回の場合はまったく当てはまらない。

 仮にわずか2、3個のパンに付着していただけで、学校や給食センターがすべて回収して破棄するという判断をしたとしたら、それはそれで「過剰対応」「もったいない」「子供がお腹をすかすのもかわいそう」といった批判が出たと思う。ハエが付着したパンの数が増えるに従い、人々の意見は「破棄すべき」という方に傾いていくわけだが、そのどこで一本の線を引くかというのは微妙なところ。現場の先生方も判断に迷うはずだ。給食センターの栄養士は、おそらくある程度の微生物の知識をもっているはずだから、上記の理由から取り除いて食べれば食中毒等の危険性はないという判断したのだろう。従って給食センターの判断は、十分に理解できる範囲に入っており批判するようなものではないと考える。むしろ批判している人の方こそ、パンを焼く段階で細菌やウィルスなどは死滅する(正確にいえばウィルスの場合は不活性化)という、ごく常識的な視点を見落としているわけだから、よほど物事の分析能力に問題があるといえる。

 ハエが付着しているのに気づきながら出荷したのだとしたら問題があるが、気づかなかったとしたら仕方ない。おそらく工場にとっても初めて経験する事態であり、今後、なんらかの対策をとってもらえばいいのではないか。それを「工場の衛生管理に大問題あり」「ほかのしっかりしたパン工場に発注先を変えるべき」という過剰な反応もどうなんだろうか。
 しかも体長1センチもあるニクバエなどの大型ハエならともかく、わずか1〜2ミリの微細なハエである。これほど小さなハエなら網戸もくぐり抜けるだろうし、工場のコメント通り「不可抗力」といえるだろう。それにだ。食品に虫などが混入するのを完全に防ぐことは不可能だ。

 私の過去の体験では、某コンビニチェーンの「鍋焼きうどん」のかき揚げの中にカメムシが入っていたことがある。それもかき揚げの内部ではなく、かき揚げ表面にそのままの姿できれいに揚がっていた(笑)。野菜などの食材に紛れていたのだろう。大学生の頃の話なので昔のことだが、クレームはしなかった。さすがにカメムシはちょっと論外だが、おそらく小さな虫の場合は気づかないまま食べていることもあると思う。

 これも大学生の時の体験だが、友人とともに栃木県のある山から下山して駅前のそば屋で食事した。ほぼ食べ終えて、汁の中にそばが残っていないかと箸ですくうと、なんと大きなハエ死骸が2匹も浮き上がってきた。温かいそばだったので汁はある程度は火を通してあるはずだか、そば屋では毎度毎度、一旦沸騰させてから提供しているとは思えず、実に不衛生。オエーっ、と思ったが後の祭り。

 また登山をしていると、小虫が寄ってきたのと呼吸のタイミングが重なって、うっかり虫を吸い込んでしまうことが時々ある。すぐに「ペッペッ」とはき出すが、取り出せないこともある。そういうのをゼロにするのも無理である。

 もちろん食品業界のみなさんは、人の口に入るものを作っているのだから、衛生管理だけでなく、残留農薬や食品添加物等に関しても、ぜひとも神経質になって頂きたいのはいうまでもないわけだが、私はもっと見えないところにこそ、様々な見落とされているリスクが潜んでいると想像している。具体的には、数年前にあったアフラトキシン生産カビが発生した事故米を流通させていたような事案である。それに比べればパンに小虫が付着するくらい、小さなことだ。





禁煙学会の一件について/2013年9月11日

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 NPO法人日本禁煙学会という団体が、ジブリ最新作『風たちぬ』に喫煙シーンが多いのを問題視して、要望書を送ったということが最近テレビやネットなどで取り上げられている。いろいろな人の意見を見聞きすると総じて禁煙学会に対する批判の方が多いようだ。確かにアニメ映画の表現のひとつとして喫煙をちょっと用いるくらいであれば、あまり神経質に問題視しなくても…と思わないでもないが、禁煙学会の主張にも私は一理あると感じる。念のためにいっておくと、私は禁煙学会という団体があるのをこのニュースを読むまではまったく知らなかった。また私は非喫煙者でタバコは迷惑以外の何物でもないと思っているが、彼らの肩をもつ事情は特にないことも先に断っておく。

 先日、実家でテレビを見ていたら俳優の津川雅彦氏が、学会を批判して「この人たちは文化というものをわかっていない」「そんなことをいっていたらテレビや映画の殺人シーンもダメなのかということになる」(記憶頼りなので不正確かもしれないが、主旨はこんなところだった)と批判していた。ほかのことでは津川氏のまっとうな意見には賛同することも多いのだが、この件についていえば少し違うと思った。
 まず前者の意見だが、逆に津川氏は科学をわかってはいらっしゃらないだろう。タバコに害があることくらい知っているとおっしゃるだろうが、タバコのどういう成分がどれほど有害なのか、科学的根拠と因果関係の違い、さらには疫学の意味も含めて、勝手な想像で申し訳ないが、おそらく正確に理解されていないはずだ。これは学会を批判している、ほとんどの文化人、評論家にもほぼ共通する点であるが、つまりタバコの害を「漠然としたイメージ」でしかとられていないということだ。タバコの害を漠然としたイメージでしかとられていない方々が、メディアにおける喫煙シーンの是非についてどうして何かをいえるのか、私にはそもそもそれがよくわからない。なぜなら是非を論じる際には、害の程度も正確に把握することが前提となるはずだからである。

 また後者の意見については、私は次のように考える。映画やドラマでの殺人や暴力シーンも同じだが、要は大人への影響というよりも子供への影響が懸念されるという点に尽きる。ほとんどの人が社会通念上、決して認められない行為、許されない行為と認識している殺人や暴力シーンであれば、大人も子供もみんな、実際にはよくないことはわかっているから、それがすぐに社会的な影響へとつながっていくことはないだろうが(※)、喫煙という正否が微妙なものであれば殺人や暴力シーンよりも影響は生じやすいと私は想像する(ここが重要なポイント)。

※ただ、それが頻繁に繰り返されたときの社会的な影響については、子供だけでなく大人の場合ですら検証の必要は多分にある


 子供たちは、タバコが健康に悪影響があることは漠然と知っているだろうが、喫煙は殺人や暴力と違って成人になれば法的に問題があるわけでもなく、まわりにも大人の喫煙者はいっぱいいる。しかも、大好きなジブリ映画にも喫煙シーンが出てくる。そういう環境にずっとさらされていると、知らず知らずのうちに「喫煙してもそれほど問題ない」という間違った認識が生まれ、今すぐはなくても将来の喫煙につながる可能性もないとはいえないだろう。重要なのは、子供全員がそうならないとしても、何パーセントかは、同様のシーンを繰り返し見ることで、その影響によって喫煙に走る可能性があるという点だ。
 たとえ「風たちぬ」の喫煙シーンだけでは、大きな影響はないとしても、同様のシーンが今後繰り返され、それをきっかけに喫煙→肺ガンともなれば、命にも関わってくる話でもあり、「表現の自由」を盾に学会を批判するのもどうかと思う。私たちの社会では、人の命は時になによりも重いとされ、原発や戦争みたいなことでは、それを最優先事項として語られることも多いわけだが、同じ人の命に関わるタバコでは、なぜか「表現の自由」の方が優先されるのもおかしな話だ。

 また「当時、タバコに害があることは誰も知らずに多くの男たちは普通に吸っていた。時代考証の結果だから喫煙シーンも必要」という意見もあるが、当時もすべての男性がタバコを吸っていたわけではないのだから、喫煙シーンが時代考証上、絶対に必要というわけでもないだろう。特に学会が指摘する「結核患者の前で喫煙するシーン」というのは、確かにあまり好ましくないと私は考える。

 ところでネット記事の中に、フリーライターの赤木智弘という人が、学会を次のように批判されていたものを見かけた。


 こうした批判が多方面からあったからだろうか、日本禁煙学会は条約を盾にするのを避け、映画などの作品によって子供たちが喫煙をすることが問題だとする「日本禁煙学会の見解」を出した。

 ところが、要望書では法令遵守求めていたのに、見解では子供の喫煙問題が中心になっており、作品の責任については「製作者の意図したものであるにせよないにせよ、結果的に「プロダクト・プレイスメント」の効果をもたらしています」という、ひどく曖昧な態度に変質してしまっている。

 そしてなにより、この変質によって、結局この団体がアニメ作品を「子供が見るもの」としてしか認識していないことが明らかになってしまった。

 日本においてはアニメーションは決して子供だけのものではなく、幅広い年齢層を対象とした作品として成立している。それを単純に「アニメーションだから子供ばかりが見るのだろう」という憶測の上で批判をするのは、作品に対する侮辱に他ならない。

※前後は省略。記事全文もついでに読まれるといい↓
http://blogos.com/article/68298/


 この記事には「今回の抗議は日本禁煙学会による売名行為であると考えている」とあるが、なぜそう考えたのか、納得できる根拠はどこにも書かれていない。また学会が説明した「子供の喫煙」について、学会の意見が違うと思うのなら、なぜ真っ正面から反論しないのだろうか。スルーした理由をぜひ教えてほしい。加えていうなら最初の要望書では法令遵守を求めていたのに、見解では「子供の喫煙」が中心になったことは変質の証拠…という、やや無理がある論法にもなっている。

 学会の要望書も見解もどちらも読んだが、私には違和感はなかった。医学の知識がある人であれば、当然、そういう判断をするだろうというものである。
 学会はアニメ映画を子供だけが見るとはいっていないだろう。「大人だけでなく子供も見るから問題だ」ということでは? まあねぇ〜、科学を知らない文系の人の思考傾向は、多分に分法的で定性的なんだけど、この記事により、このライターは二分法の思考回路しか持ち合わせていないことが明らかになってしまった(笑)。二分法の思考回路しか持ち合わせない人にタバコのことで何かいう資格があるのかね。このライターは、私のこの批判の意味も理解できないのでは? 
 こんなことを書くと、反論できない代わりに養老孟司や茂木健一郎の名前を出す人もいそうだが、彼らが禁煙運動を批判しているのは、科学とは無関係な別の要素が関係しているだけのことだ。

 タバコの諸問題というのは、半分は科学の問題なのである。その部分に疎い文系ライターが上から目線で「日本禁煙学会は、『子供のため』という御旗を闇雲に振りかざすのではなく、もう少し相手に対する敬意をもって活動を行ったほうがいいのではないかと、老婆心ながら忠告させていただく」…って偉そうによういうわ。禁煙学会の主張を詳しく読むと、科学に精通した人物が書いていることが容易にわかる。はっきりいって、このフリーライターよりもはるかに上だ。正面からディベートすれば、そのレベルを計る能力さえもない科学の素人が太刀打ちできる相手じゃない。





橋下さんの慰安婦発言/2013年5月26日


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橋下さんの発言は、不正確な報道によってあちこちから批判されているが、でもその主旨は間違っていないと思う。彼を批判している人は、真実を語ることよりも建前や世間体の方が大事なのか、あるいは原則論、精神論ばかりで、現実を直視できないのか、それともお気の毒なことに自分を中心に半径5メートル先までしか思考回路が働かないのか、はたまた日本語の読解力がないのか、そのいずれかとしか思えない。発言の一端だけで脊髄反射的に橋下さんを批判するマスコミも政治家も実に薄っぺらい。女性蔑視という批判もあるが、橋下さんは、現代でも慰安婦制度が必要とはいっていない。当時としては必要だった(もしくは仕方なかった)という主張は間違ってはいない。

 当時の軍幹部の立場になって考えてみよう。品行方正な人物ばかりで軍を作れるのならともかく、国民から広く徴兵しなければならないとしたら、どうしても軍の中に品行不良な人物も含まれることになる。当然のことながら戦地の一般女性に対する犯罪も懸念され、慰安婦制度にはその予防的な意味もあったと推察できる。この問題に対して理想的な解決策はなく、要は戦地の一般女性が理不尽な被害に遭うよりも自ら希望する女性によって慰安婦制度を作る方がマシという発想だったとも考えられる。私は橋下さんの発言を概略しか知らず、その発言内容とは無関係にこのように考えていたが、今日の朝日新聞で同じ主旨のことを発言をされているのを知った。物事を建前や感情ではなく論理的に考える人なら同様の答えを導き出すということだろう。

 橋下さんがいうように、これが日本だけの懸念だとは到底思えない。諸外国の軍隊にも同様の制度があったかなかったか知らないが、もしなかったとしても、それはその軍隊が立派なのではなく、その分、余計に現地女性がひどい目に遭わされた可能性の方が高いと考えるべきだろう。諸外国が橋下さんを批判するのなら、その前に「わが国の軍隊では慰安婦制度もなければ、現地女性に対して犯罪が行われたことも皆無である」と証拠を揃えて反論すべきであるが、それが可能な軍隊があるとは思えない。

 ソ満国境を越えて進軍してきたソ連軍が、日本人開拓団の村々で何をしたのか、戦後、進駐してきたアメリカ軍が敗戦国の日本人女性に何をしたのか。橋下さんを批判する前によく考えた方がいい。慰安婦がけしからんというのなら、そういう悲劇をより多く生むということでしかない。慰安婦制度があっても犯罪は発生するだろうが、減らす効果はあるはずだ。アメリカ政府報道官が橋下さんをきつい言葉で批判していたが、アメリカに正義面して偉そうなことをいわれたくない。

 さらにもうひとつ。誰も指摘しないので、代わりに私が見落とせない重要な要素を指摘しておきたい。それは人間は、死と隣り合わせの苛酷な環境に置かれると、自分の遺伝子を残したいという生物学的な本能が発現するということだ。実際に遺伝子を残せるかどうかは別にして、その本能が人間をどういう方向に向かわせるのか、説明の必要はないだろう。これはいくら理想論や建前論を語ったところで、生物としての本能なのだからどうしようもない。その本能が現れるのは日本人に限った話ではなく、すべての人類に共通する。であれば、死と隣り合わせのすべての軍隊で同じ結果をもたらすということだ。

 こういう真実にフタをして、一見、立派そうな建前論に終始するのなら、それはいずれどこかの戦場で女性の悲劇につながりかねないことに想像力を働かせるべきだ。繰り返しになるが、当時でも現代でも理想的な解決策はない。だから慰安婦制度を取り入れた日本軍が悪いとはいえない。もし私が当時の日本軍幹部であったとしら、やはり同じ判断をするだろう。強制性があったかなかったかについては、また別の問題だが、私は大いに疑問に思っている。





飛行機内で乳児が長時間泣き叫ぶのは許されるか/2012年11月25日


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 テレビのコメンテーターとしても知られるマンガ家が、飛行機内で長時間泣き叫び続けた乳児に我慢できなくなり、着陸準備中にもかかわらず席を立ち、出口に向かって走ったとか、乳児の母親に文句をいったとか、そんなことを本人が雑誌に書いて物議を醸しているという。著名人もこれに反応し、いろいろ意見を述べられているようだ。
 脳科学者の茂木さんがいう「1歳の赤ちゃんのふるまいを、コントロールできると思っている大人がいることが信じられない」は、その通りだと思う。この点を理解していない親による子供の虐待事件が時折あることにも驚くしかないわけで、確かにいくら大人が困っていても、そもそもコミュニケーション能力や社会性など、あらゆることが未発達の乳児に親のいうことや「社会のイロハ」を理解できるはずもない。

 もし私がその場にいたら我慢すると思うし、親に文句をいうこともないだろう。しかし、その一方で次のようにも思う。まず、その乳児の親の認識や対応がどうであったのかということである。ほかの乗客に申し訳ないと身が縮む思いで、なんとか泣き止むように努力していたのかどうか。乳児にとって泣くのは仕事みたいなもので、当然、飛行機に乗る前から想定できる話である。そもそも移動手段として飛行機を使う必然性がどの程度あったのか。私が親なら乳児連れで飛行機を利用するのは極力避けるだろう。どうしても乳児連れで飛行機を利用しなければならない事情があったのだとしたら仕方ないとは思うが、もし、さほど必然性がないにも関わらず乳児連れで飛行機に乗り、いくら乳児が泣き叫んでも知らん顔で、同行者とのおしゃべりに夢中だったとしたら、許容しようという気もしぼむのではないか。

 ネット上の意見には、「赤ちゃんの泣き声を許容できない心の狭さにも驚く」というものもあった。しかし、それも結局は飛行機で乳児が泣き叫び続けるという事態に遭遇する機会がほとんどないからいえる話である。もし、あなたが超多忙なビジネスマンで毎日のように日本中を飛行機で飛び回っているとしよう。そんな状況だから疲れもたまっており、飛行機での移動中は貴重な睡眠時間となっていたとしたらどうだろうか。それでも乳児が泣き叫び続ける事態に遭遇するのが年に一度くらいなら許せるかもしれないが、頻繁に遭遇するようになったとき、果たして本当に「理解ある大人の対応」を通し続けられるだろうか。飛行機で睡眠がとれないために仕事でミスをするなどの実害が出たとしたら、さすがに辟易して「何とかならないのか」と思うのではないか。

 また「赤ちゃんの泣き声くらい」といっても、乳児がどの程度の声の大きさで何時間泣き叫んでいたのか、その程度によっても違ってくる。さらにいえば乳児の側だけでなく、聞かされ続ける側にも個体差がある。絶対音感を持つ人は、普通の人が気にしない音にも敏感だといわれるように、人によって騒音(この場合は乳児の泣き声)の許容範囲が違うことにも留意しなければならない。つまり自分は平気であってもほかの人には苦痛に感じることがあるということだ。近所から聞こえてくるテレビの音や犬の鳴き声、あるいは爆音をたてながら走る改造車も同じことで、大抵の場合、ご本人は「これくらい許容範囲だ」と勝手に決めてかかっているのだろうが、マナーというのは、本来、他者が迷惑に感じることを避けるという社会習慣であり、自分にとって都合のいい許容範囲を勝手に決めて、それを他者に一方的に押しつけるのは、おかしな話なのである。

 もし親にどうしても乳児連れで飛行機に乗らなければならない事情があり、しかも一生懸命泣き止むようにあやしていたとしたら、これはもう何もいえない。乗客全員が快適な空の旅を楽しむために何らかのシステムを整えるとか、新しい法律を作るといった範囲の外側にある話であって、親やCA、あるいは航空会社に苦情をいっても何の解決にもならない。飛行機内で乳児の泣き叫ぶ声を迷惑に感じるのは、ごく普通の感情だと思うが、ほぼすべての人は誰でも多少の違いはあるにせよ、自分も乳児の時に周囲に迷惑をかけて成長して来たわけだから、ある程度は社会として許容し合うのが望ましい。

 ただ、このマンガ家の行動は行きすぎた部分があったにせよ、私はこういう問題提起をすること自体は別に構わないと思う。問題提起がなされて、社会的な議論が尽くされ、解決はしないまでも何らかの共通の認識が生まれるきっかけになるとしたら、それだけでも社会のプラスになると考えるからである。





iPS細胞移植手術誤報問題と科学ジャーナリズム/2012年10月28日


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 現在、発売されている『週刊ポスト2012年11月2日号』の新聞広告に「前代未聞の大誤報・iPS細胞移植手術疑惑 わが国の科学ジャーナリズムはどうしてこうも拙劣なのか」という文字が躍っていて、思わず笑ってしまった。
 確かに森口氏のウソをあっさり信じてしまったメディアも稚拙といわれても仕方ない。いきなり臨床応用で心筋細胞の移植って!? 途中の段階をすっ飛ばして、異常に早すぎるという印象だ。仮に私が新聞記者だとしたら、いくら医学の知識がなくとも少なくとも鵜呑みにはしなかっただろう。

 ところで『週刊ポスト』は、物理系大学を出た記者でもいると見えて、原発事故関連の記事ではまともなことを書いており(ネット上で記事を読んだだけだが)、自らの科学ジャーナリズムには自信をお持ちなのだろう。しかし以前、小学館101新書『生物多様性のウソ』(武田邦彦著)を好意的に取り上げて(自社本だから当然か)、武田教授のウソにしっかり騙されているようだった。
 この本は、私が知る生物系書籍の中でもまったくもって劣悪な内容で、こんなものを評価するレベルでありながら、上から目線で読売新聞や共同通信のことを「拙劣な科学ジャーナリズム」と批判する資格があるのか、甚だ疑問である。残念ながら物理学リテラシーはあっても、生物学リテラシーはスッカラカンだということがモロバレしちゃってる。

 武田教授については、まるでピンと来ない人も多いようで、彼らは自らの知識と比較して違和感がないということなのだろうが、大体、白黒がはっきりしている部分に関して間違ったことをいうはずもない。それを曲解すれば専門家として確実にアウト。そうではなくて、放射線の人体に対する影響みたいな白黒はっきりしない微妙な部分を、それが微妙な部分であることを十分に理解した上で、自分にとって都合よく解釈して「不安ビジネス」に結びつけているところが問題なのである。一定レベル以上の科学教育をきちんと受けた人なら、ほぼ間違いなく武田教授の問題点に気づくはすだ。実際、名指しはしなくても遠回しに批判している専門家はいっぱいいる。


 例えば今年2月、朝日新聞で統計物理学が専門の大阪大学・菊池誠教授が次のようなことを書かれていた。

 低線量被曝の危険性については専門家の中でも見方に幅がある。同じ東大でも児玉龍彦さんと中川恵一さんは違いますが、それは科学の範囲内での議論です。そうした議論と、普通の科学者なら誰も合意しない極端な議論とは分けなくてはいけないのに、ごっちゃにしている人が多い。
 困ったことに、科学者の中にも科学から逸脱した極論を唱える人がいる。科学者は、あまりに極端な論に対してはおかしいと言うべきです。ただ、それで納得できるとは限らない。「そんな説を支持する専門家はいない」と言っても、「他の人は全部御用学者。○○さんだけが真実を語っている」といわれてしまう。



 また東京大学大学院で物理学を専攻した異色の作曲家・指揮者として知られる伊東乾氏も日経ビジネスオンラインの連載記事で次のようにも書かれていた。

 経済効果ありき、なのか何なのか判りませんが、結論前提で不可解な「データ」を持ち出す「推進」の議論も見れば、これはたちが悪い、と顔をしかめざるをえない「不安を煽り立てて営利誘導する」ビジネスライクな反原発の人物まで。不安ビジネスをあおった上、線量計のCMに自ら登場、という筒井康隆の小説「俗物図鑑」を思わず想起させられるようなケースすら見かけ、言葉がありません。


 ご両人が批判しているのが具体的に誰なのか、聞いてみないとわからないが、私は武田教授のことを指していると理解した。
 発言内容を直接検証できない人は、無意識のうちにそれ以外の、例えば出身大学名や現在の肩書き、あるいはテレビでよく見かけるといった付属情報に惑わされて判断してしまいがちである。今回のiPS細胞移植手術誤報もこれとまったく同じで、記者が森口氏の話の内容を真正面から検証できず、単に「東京大学大学院特任研究員」とか「ハーバード大学客員研究員」みたいな一見、キラキラと輝く情報だけ見て判断しちゃったのだろう。
 武田教授を平気で使うメディアがいくつもある現状を見れば、まず間違いなく今回のようなことが今後も繰り返されるだろう。日本の科学ジャーナリズムのレベルに期待しても無駄である。





福島原発事故独立検証委員会の報告書について思うこと/
2012年2月29日


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 福島原発事故の政府対応を検証していた民間の独立検証委員会が出した報告書で「政府の初動対応に混乱があった」としたことから、自民党の谷垣総裁が「人災」と批判したそうだが、あの時、谷垣さんが総理大臣であったとしても、おそらくそれ以上の評価をされることもなかっただろうし、それに福島原発の問題を見過ごし、原発事故の危機対応システムを作ってこなかった自民党にも責任がないわけじゃない。
 マスコミが右の旗を上げれば右の旗を見、左の旗を上げれば左の旗を見るような国民からすれば、こういう報道に接して単純に「菅と枝野はけしからん」という風になっちゃうんだろうけど、菅さん自身も原発対応は大失敗だと振り返っていることもわかった上で、それでも私は次のように思う。

 あくまで仮定の話だが、菅政権の原発事故対応を総合評価をしてみたところ、わずか30点だったとしよう。それを知った国民は「30点とは、なんという低得点だ」と憤慨するわけだが、たぶん歴代のどの政権下であったとしても、似たような点数か、でなければもっと低得点だっただろうと私は想像するのだ。つまり歴史的に見ても希有な国家的危機、なおかつ一刻を争う緊急事態。しかも情報は錯綜して、何が正しいのかわからないし、東電に問い合わせても回答がなかなか戻ってこない。現場ですら事態をつかめずにいたわけで、そういう中にあって完璧な対応がとれる政治家なんてほとんどいないということだ。
 現場の緊迫感に飲み込まれることもなく、胃がキリキリと痛む極度のストレスに晒されているわけでもない部外者が、あとから「これは正しい、これは間違い」とはいくらでもいえる。もちろん、だからこそ冷静に検証できると思うし、今後に活かす意味からもこうした報告書を作ることは重要だと思うが、仮に検証委員会の委員長や委員が総理大臣として当時の状況下に置かれたとしても本当に的確な判断ができたかとなると、まったく別問題だ。

 緊急事態にどう対応するかというのは、別に政府だけの話じゃなくて国民にもいえる。例えば津波避難に置き換えて考えるとわかりやすい。津波が迫っているという情報を受けて、海辺に住んでいる津波未経験のあなたはどう行動するだろうか。津波が来るまで少し時間があれば、最低限の貴重品を持って逃げたい。でもそれを選んでいると逃げ遅れるかもしれない。すぐに逃げるにしても少し離れた高台まで逃げるべきか、それとも最短時間で避難できる自宅近くのビルを選ぶべきか。高台に逃げるのなら移動手段は自動車か自転車か、あるいは徒歩か。またどこへ避難するのが最も安全で、どのルートが一番早いか。何メートルの津波が、あと何分後に押し寄せるのか、何もわからず、津波にのみ込まれて命を落とすかもしれない極限の精神状態のまま、しかも津波から避難した経験もなければ、なおさらベストな判断ができるとは思えない。
 それでも最善と思われる手段を選び、行動するしかないわけだが、途中で津波にのみ込まれれば、結果を知っている他人が平穏な精神状態で検証して、あとから「正しい判断はこうだった」とはいくらでもいえる。確かに的確な判断によって避けられるリスクも多々あるだろうが、原発事故のように膨大な複合要素が含まれる事例では、あらゆる事態を想定し、あらかじめ予行演習でもしない限り、すべてに的確な判断を下していくのは不可能である。

 目の前に掲げられた選択肢、AとBどちらを選ぶ? 明日までじっくり考えても構わないのならともかく、間髪入れずに即断しなければならないとしたらどうだろう。そういうタイムリミットが迫られる判断を繰り返し求められる中、常に的確な判断を下すのは極めて難しい。原発事故後の政府の初動対応も、これと同じだと思う。もちろん政府の責任というのは個人のそれよりもはるかに重いわけだが、最悪の事態を回避できたという時点で、それはそれで評価するべきだ。今回の報告書でも菅さんが東電を撤退させなかった点については評価しており、これは当然だと思う。





プロメテウスの罠〜東電は福島原発から撤退しようとしていた〜

/2012年2月17日


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 朝日新聞で今年1月から続いている連載記事「プロメテウスの罠」は、人類に火を与えたギリシャ神話の神族に因むものだが、これを読むと津波が福島原発を襲ったあとの経緯について、これまでのどの報道よりも詳しく追っていて、これぞジャーナリズムと評価したい記事だった。

 昨年、枝野さんが、東電が福島原発の事故対応を諦めて、同原発から撤退したいと一時申し出ていたことをあかし、それを東電社長が否定した報道があったことを記憶している人は多いだろう。…で、両者の主張は完全に相反しているが実際のところはどうだったのだろう? と私はずっと気になっていたのだ。一方、福島原発で緊急事態が続いていた時、菅さんが東電本店に乗り込んだことについて、ほとんどのマスコミは批判的で「総理大臣が乗り込んできたら、事故対応に右往左往している東電関係者はみんな萎縮してかえって事態を悪化させる」みたいな意見もあった。私は、マスコミも知らないよほどの事情があったのではないかと想像し、その辺の理由をきちんと調べもせずに表面的な行動だけ見てとりあえず批判するマスコミの安易さに「またか」と呆れたりしたのだが、それに「プロメテウスの罠」は見事に答えてくれていた。

 「プロメテウスの罠・官邸の5日間」を読むと、これまでのマスコミ報道では見えてこなかった官邸の緊迫感が伝わってくる。事態を詳しく知らない国民と違い、いろいろな情報を集約している当事者がいかに動いていたのかよくわかった。100点満点ではないかもしれないが、あそこまで動いていれば、私は原発事故の対応に当たった政府関係者に「日本の危機を救ってくれてありがとう。本当にご苦労様でした」とねぎらいたい。
 確かに東京電力は政府に対して「厳しい状況で、もうやるべきことはない。撤退したい」と伝えていたことは、間違いないようである。3月15日午前3時、海江田経産大臣、枝野官房長官、細野首相補佐官らから「東京電力が原発事故現場から撤退したいといっています」と報告を受けた菅さんは「撤退したらどうなるのか分かってんのか。そんなのあり得ない」「こんなことでは外国から侵略されるぞ」と即座に否定し、撤退を食い止めるためには東電に乗り込むしかないという話になったようだ。午前4時には東電の清水社長が官邸に呼ばれ、超法規的に東電本店という民間企業内から直接指揮をする方針が伝えられている。午前5時35分には菅さんは東電本店に乗り込み、東電幹部らを前にこう訓示したという。

 「(前半部分省略)皆さんは当事者です。命を賭けて下さい。逃げても逃げ切れない。情報伝達が遅いし、不正確だ。しかも間違っている。皆さん、萎縮しないでくれ。必要な情報を上げてくれ。目の前のことと共に、5時間先、10時間先、1日先、1週間先を読み、行動することが大事だ。金がいくらかかっても構わない。東電がやるしかない。日本がつぶれるかもしれないときに、撤退はあり得ない。会長、社長も覚悟を決めてくれ。60歳以上が現地に行けばいい。自分はその覚悟でやる。撤退はあり得ない。撤退したら、東電は必ずつぶれる─」

 おそらく福島原発の視察も自ら危険な現場に行くことで覚悟を見せる意味もあったのではないか、という気もする。菅さんが有能な総理大臣だったといえるかどうかは正直よくわからない。マスコミ報道を見ると、それに疑問を感じる部分もなくはない。だが、「政治主導」を表明している政権に対して、自分たちの利権を維持したい官僚が全面的にサポートするとは思えない。素人政党を手玉にとるのはそれほど難しくないはずだ。
 国民は、100点満点の政治家でなければ政治家ではないといわんばかりに、次から次に出てくる総理大臣のどこかに欠点を見つけては、「民意」という御旗を振りかざして、いい気になって片っ端から否定し続けているだけという感もある。政治家をボロクソにいえるほど頭がいいとも思えない単細胞に限って、ここぞとばかりに批判している。これは国民だけでなくマスコミにもいえることだ。もちろん私自身も広い意味ではマスコミ業界の人間だし、マスコミ報道にも正しい部分が多々あってマスコミの意義も十分理解している。でも政治家が100点満点ではないのと同様にマスコミも100点満点ではない。政治を監視するのがマスコミの使命だといいたいマスコミ関係者は多いと思うが、そのマスコミにも監視が必要なのが実態である(マスコミ報道にもよくバイアスがかかっていてウソを含んでいるから)。

 菅さんは総理大臣全体の職務についていえば、問題もあったかもしれないが、私は福島原発事故対応では評価するべきだと考えている。その最大の功績が、東電に乗り込み、撤退を阻止したことだ。なぜ菅さんは、そこまでの行動に出たのか。それは菅さん自身が東京工業大学の応用物理学科を出て、専門家の説明を受けなくても、もし撤退すれば東日本全域がどういう事態になるか、ほかの政治家や官僚よりもはるかに理解していたからだろう。
 最近、菅さんの行動を間近に見ていた政府関係者が「福島原発の事故対応で怒鳴ってばかりの菅さんを見て、トップとしての資質に疑問をもった」と語られているが、トップというのは場合によっては怒鳴ることも必要ではないか。冷静を装っていると事態の緊迫性がまわりに伝わらないともいえる。怒鳴っていても頭の中は冷静を保っていれば何ら問題はない。菅さんは事態を理解し危機感をもったからこそ強い口調になったのだろうと、私は理解した。一方、この政府関係者が冷静でいられたのは、原子力分野の知識がまるでなかったから。おそらくそれだけのことだ。以前、テレビで原子力工学の専門家が、福島原発事故よりも何年も前に政府関係者に原発の問題点を指摘したところ、「まるでピンときていないようでした」と語られていたことにも重なる。
 大多数の国民にもいえることだが、科学音痴・技術音痴の素人というのは、右か左か、どちらか一方にしか頭の中の針がふれないものである。本当に危険なことにまるでピンとこないか、でなければ反原発団体や反原発の文化人のように大して問題がないことでも過剰に反応するかのいずれかである。なぜなら根拠も不明で最低限の検証もせずにたまたま接して取り入れた情報だけを元にして、しかも自分の願望もごちゃ混ぜのままに情緒的に判断しているに過ぎないからである。その情報次第で頭の中の針が、右に行ったり左に行ったりしているだけというのが実態だろう。

 枝野さんもいわれていたが、私は東日本大震災の時に菅さんが総理大臣で本当によかったと考えている。これが、原子力分野にまるで知識がない総理大臣だったら、東電の撤退に対して同じような対応ができたのか疑問が残るからだ。総理大臣のようなハイクラスの能力を要求される仕事だと、すべての問題に理想的な対応ができると期待しても無理だろう。ほかの分野での手腕はわからないが、国のトップが原子力分野の知識がある程度あったからこそ、東日本全体がゴーストタウン化する最悪の事態を避けられたのだと私は思う。
 「プロメテウスの罠」を読むと、実は昨年3月、大地震に続けて日本という国にとって歴史的な大危機を一度迎えたこと、そしてそれはギリギリのところで回避されたことがわかる。本店の指示にも従わず、独断で注水を続けるなど、命がけの対応を続けた福島原発の吉田所長はもちろん評価されるべきだが、東電を撤退させなかった菅さんも同様に評価されるべきだと思う。





原発や放射能に関する情報の取捨選択方法
/2012年1月26日

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 今回、多くの国民が戸惑っている理由は、専門家でも安全という人もいれば危険という人もいて、どの情報を信じていいのかわからないからだろう。相互に矛盾する情報が溢れて判断がつかなければ、人間の心理として最も安全な選択肢を選びたくなるのもわからなくはないが、現状はやや過剰反応というのが私の印象である。
 あるネット記事を読んだら、冷静な分析をした上で次のように書かれていた。


データで立証されていないことにどう反応するか。リスクを大きめに想定して最大限に安全策を講じるのか、それとも必要十分な安全策を模索するのか。どちらかが単純に正しくどちらかが単純に間違っているなら、ある意味で楽です。「それは絶対的に間違っている」と客観的に判断できるデータが提示されれば、そこで議論終了です。そういうデータが得られない以上、どちらもある意味で正しいからこそ、判断は難しく厳しいのだと思います。放射能に限らず、リスク対策についての議論は得てしてそうです。データ不足の状態で自分たちの生死に関わる判断をしなくてはならないのですから、それだけにデータ以前の世界観の対立になったり、感情のぶつかり合いになりがちです。あるいは「データ」のふりをしたデマやドグマや詐欺商法に振り回されたり……。


 リスクに対する考え方としては確かにその通りなのだが、こと原発や放射能に関していえば、状況ごとにさまざまな情報が錯綜していて余計に混乱に拍車をかけているところが問題なのであって、この意見も微妙に違うかなとも思うので、少し整理してみたい。

 私も放射線の人体への影響については素人だが、日頃から他の分野でも「情報の取捨選択」というフィルターにかけて、信頼に足る情報と足らない情報を選り分けている。
 原発問題ではメディアに多くの「専門家」が登場し、それぞれ異なる立場から意見を述べて、先に書いたような「専門家でも見解が異なる」状況を生み、困惑する人が多いと思われる。だが、問題なのは「専門家」という大雑把なくくり方にある。実はテレビなどに登場する「専門家」の中には、厳密に言えば「専門外」という人も多いのだ。
 ある問題について判断したいとき、その問題のオピニオンリーダーとして最適なのはどういう立場の人なのか、よく見極めなければならない。例えば、放射線が人体にどう影響するか、という問題を判断する上で最も信頼に値するのは、放射線医学や放射線防御学の専門家である。いくら原発の問題だからといっても核物理学や原子力工学の専門家ではないし、やたら不安を煽る資源材料工学が専門のタレント教授でもない。ましてや科学の基礎もまるで理解していない、単純な「死ぬか生きるか」という白黒二分法しか頭にないアホ丸出しの俳優でもない。加えていえば、こと科学の問題になると政治・経済が専門の評論家やテレビのコメンテーターの意見でも信頼性に劣ることが多い。
 御用学者なんか信用できないという人もいるだろうが、電力村の利権に放射線医学の専門家が関係しているとは私には思えないし、彼らの意見には科学的根拠に基づいた信頼性と一貫性があって、私には違和感はない。複数の放射線医学の専門家がほぼ共通した評価をしていたら、それが最も信頼できる情報ということになる。

 低線量被曝の影響については未解明なので、それも不安を増幅させるのだろうが、ある一定以上の影響については、確実に影響がある、あるいは確率論的に影響があるということがわかっており、一方、放射線量がゼロになれば影響がゼロになるのも間違いなく、つまり未解明部分においても放射線量が低下すれば、それに従って影響も低下していくと考えるのが自然だろう。かなり余裕を見た上での基準であれば過剰に恐れる必要はまったくないと思う。
 以前、民主党の国会議員がテレビで「放射能は自然界にはないものですから」と失笑発言をしていたが、宇宙から降り注ぐ宇宙線だけでなく水や食べ物にもごく微量の放射性核種が含まれており、これらの自然放射線を世界中のあらゆる人が日常的に浴びている。それを考えれば、「原発=放射線=死」と単純に結びつけて危険を煽ったり、それを異常に恐れたりするのはあまりに幼稚ということがわかるだろう。

 ただその一方で、問題をややこしくしているのは、政府や地元自治体が出している情報に信頼性が欠けるという現状である。被災地が出す情報は信頼できると考えるのも問題で、福島県は、わずか3ヶ所のサンプルしか調べないで県内産米の安全宣言をしている。被災地の人たちは、みんな善良で信頼できるとステレオタイプに思い込むのも、ちょっと違うかなと私なんかは思っていて、確かにほとんどの人はそうだろうが、対象地域の人口が何十万人か何百万人か正確な数字は知らないが、それくらいの多くの人がいれば、その中には当然「人の健康より自分の利益を優先する人」がむしろ確実に含まれていると考えるべきだろう。
 微量な放射性核種を体内に取り込んでも問題はないと思うが、かといってわざわざ進んで取り込みたいものでもない。しかも、どれくらいの量が含まれているのか見えない場合は余計に慎重になるのも自然な感情だろう。
 一方、被災地瓦礫受け入れに関していえば、そもそも福島の瓦礫ではなく、宮城や岩手の瓦礫であり、厳しい基準を作って、途中何度も計測して基準値以下であることを確認するといっているにも関わらず感情的に反対するのは過剰反応としかいえない。
 これは、本当に意見を聞くべき専門家を見極められず、あたかもどんな意見でも広く取り上げることが健全な行為であるかのように錯覚し、本来広めるべきではない専門外の人たちが発信する歪んだ意見や間違った意見を取り上げて広めてしまったマスコミが招いた事態である。いろいろな意見を広く取り上げるというのは、ある条件の下でなら正しいが、必ずしもすべての事象に当てはまるわけではない。マスコミも素人目に怪しい情報はさすがに取り上げないと思うが、この問題と要は程度の違いでしかない。





政府の原発事故収束宣言への批判について
/2011年12月30日


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 野田さんが、「原発事故そのものは収束した」と宣言したことに関して、マスコミも世論も「復興もしていないのに収束とはけしからん」と批判の嵐だったが、私はこの発表の何が問題なのか正直よくわからない。原発事故のために生活が滅茶苦茶になった人には心から同情するし、批判する人たちがいいたいこともわからなくはないんだけど、はっきりいって感情論に過ぎないと思う。この国では、これまでも似たようなことが何度も繰り返されてきたので、「またか」としか思わないし、正直うんざりしながら記事を読んでいた。相変わらず情緒でしか物事を考えない日本人ならではの反応である。

 別に野田さんの肩をもつ気もないが、要は「収束」という言葉じりをとらえ過ぎていると思う。野田さんは、「原発事故のあらゆる問題がすべて収束しました」といったわけではないだろう。「事故そのものは…」といったはずだ。「冷温停止になって危険な状態を脱した」ことを「収束」と表現したに過ぎない。そんなことをいうと、「まだ放射線が出ているのに何が収束か」という反論もあろうが、そもそも「事故の収束」とは何を指すのか、今一度、冷静に考え直してみよう。それが、「事故によるあらゆる問題が完全に解決した段階」しか指さない言葉だとしたら、確かに「収束」と呼ぶのは問題があろう。だが、それって「一万円は大金か、それとも端金(はしたがね)か」を議論するのと同じような話で、事故のあらゆる影響がすべて解決しないと収束と呼ぶべきではないと考える人もいれば、原発の状態がある程度安定したら収束と呼んで差し支えないと考える人もいるはずだ。つまり、どちらが正しいとか正しくないとかではなく、収束をどう定義するかによって変わってくる話であって、野田さんが「危険な状態を脱した」と定義して「収束」を使ったのなら、その定義も含めて発言の意図を汲む必要があると思う。それを「野田さんの定義なんか知ったことか。自分の収束の定義とはこうだ! だから収束というのはけしからん」とばかりに一方的に批判するのもアホすぎる。そして、マスコミもわかっていて故意に批判しているのか、国民同様に単純なのかは知らないが、お得意の手法、つまり「収束」という言葉だけ切り出してきて「政府の収束宣言は疑問」みたいな、いかにも国民が食い付きそうな取り上げ方をするわけだ。そして、野田さんが実際はどう発言したか確認もしないで、センセーショナルに取り上げられた言葉だけを見て感情的に反応する国民もお粗末すぎるだろう。

 別のシチュエーションで考えてみよう。凶悪事件の犯人が捕まった時、マスコミは「犯人逮捕で、事件は一応の決着を見ました」とよくいっているではないか。これも「収束」と同じく言葉じりをとらえれば、犯人の裁判もこれからで、被害者への補償も決まっていないのに、どこが決着なんだということにならないか。何の疑問にも思わずに「決着」という言葉を使う一方で、「収束」というのはけしからんというのなら、このふたつの例で何がどう違って対応が異なるのか、ぜひ説明してほしいものである。





菅さんへの批判はわかりにくい
/2011年6月15日


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 「震災や復興の対応が不十分」というのは、耳タコができるほどよく聞くけど、では、どういう部分がどういう理由で不十分なのか。具体例を出して説明しないと、ただ「ダメだダメだ」では、専門的知識がなく政治の中まで見通せない国民にはわからない。与野党の政治家が揃ってあれほどボロクソに批判しているということは、確かにそうなのかもしれないが、西岡参議院議長のように「すべてがダメです」では何の説得力もない。鳩山くんの時は、理由もわかりやすかったので、確かに批判されるのも当然だと思ったが、菅さんの場合はイマイチわかりにくい。

 批判のひとつにソーラーパネル住宅1000万戸普及計画を海江田経産相にも相談せずG8で発表しちゃった件がよくいわれるけど、テレビのインタビューで経産官僚がニヤけた顔して「あの数字は、確かに私どもが官邸に上げたものなんですが、官邸からこれで発表しても本当に大丈夫かという確認はありませんでした」(記憶頼りなので一字一句正確ではないが)といっていた。つまり「霞ヶ関からはいろいろな数字を上げているけど、それを国の方針として発表するのなら、その前に確認するのが政治の世界の常識ですよ」といいたいようだ。おそらく菅さんは、官僚が上げてくる数字とは可能なものであり、自分が独断で決めれば国の方針として発表してもいいと考えたのだろう。そうだとしても確かに慎重さに欠けるし、鳩山くんの時も同じことがあったわけで、あの批判から何か学んでもいいのではないかとは思うけど、官僚もそういうことをテレビでいうんじゃなくて、本人に直接進言するってできないのかね。

 ただ、震災対応のまずさや復興の遅れが、すべて菅さんのせいというのは、ちょっと違うんじゃないか。菅さん以下の流れはスムーズで完璧だが、菅さんがすべての流れを堰き止めている元凶とまでは思えないけどな。マスコミや国民の批判を聞いていると、まるで義援金の配分が遅れているのも菅さんのせいみたいなものもあるけど、それは確実に関係ないだろ。阪神大震災の時の村山くんと比べれば、かなりマシだと私は思うけど、マスコミの批判をそのまま受け入れて「震災復興対策が不十分」と批判している国民は、マスコミの代わりに具体例を出して、その原因がなぜ菅さんにあるといえるのかも含めて説明してほしいものだ。

 何日か前の朝日新聞「声」欄で、医師をしている人が、「危機的状況では非常に多くの要素に優先順位をつけて判断しなくてはならない。今回は地震、津波、原発事故と未曾有の事態が起き、このような有事にリアルタイムで行う指導者の判断は、決定的な情報不足の中、臨機応変を求められ、引き起こされたかもしれない最悪の結果が回避できればまずは合格とするべきだ」とし、さらに「例えば救急医療現場を考えよう。救急医はたとえ患者に関する情報が乏しくても、経験や想像力を駆使して臨機応変に最善の治療をする。この行為や経過に、後から逐一細部まで正当性をあげつらって責任を問えば、神ならぬ人間の医師は誰も患者を診られない」という投書をされていて、私の感じていた違和感をそのまま代弁した意見に「その通り!!」といいたくなった。こんなこというと私が菅さんを擁護・支持しているようにとらえる人も確実にいそうで、それも困るんだけど、今回の批判についてはそう感じたね。

 あと、もうひとついえるのは、マスコミの政治家批判、特に総理大臣批判とは、半分は正しいかもしれないが、残り半分は作り出されていることにもいい加減気づこう。ソフトバンクの孫さんが、「たまには総理大臣を褒めよう」といったのもまさにその通りで、本当に是々非々で判断しているなら、総理大臣の意見や政策を褒めることがあってもよさそうだが、私の記憶の限りでは時事問題に関心をもつようになった高校生以後、そんなマスコミの意見を見た記憶は一度もない。それほど無能な人ばかりが総理大臣になり続けているのではなく、政治家をネタにして批判していると、とりあえずマスコミの使命を果たしているように見え、存在理由が高まることに加えて、国家主義に荷担した戦時中のマスコミを想起して褒めにくいということもあるのだろう。だから、たとえ「名采配」だろうと、何やかんやと理由をつけて批判をすることが繰り返されているわけだ。
 批判するのは大切なことだが、何をしても批判する「批判のための批判」では、かえって国民の利益を損ねるとはいえないか。菅さんがこれに該当するとはいわないが、今の状況にも違和感を覚える。正しい判断をしたら評価するべきだし、マスコミの論調とは違う意見をいって周囲から浮くのを恐れて、とりあえずマスコミの意見に合わせておこうみたいなノリの人って結構多いような気がする。





原発の是非を考えた/2011年6月11日

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 今回、福島原発の事故によって、原発の安全神話が揺らいだのは間違いないし、脱原発という流れができるのは当然だろうが、現在の科学技術力では、太陽光や風力、地熱などに切り替えることで、これまで同様にいつでも電気を自由に使え、節電の必要もなければ停電の心配もない便利な暮らしが、その先に待っているとは思えない。エコで安全な発電手段に代替えしていくことは、ある程度は可能だろうが、原発による発電分を完全にまかなうのは、かなり難しいのではないか。
 確かに将来向かうべき方向としては脱原発が望ましいのは間違いないが、現状では理想的な選択肢はなく、今後、さらなる技術開発が進んで、新たな局面が生まれてくるまでの「やむを得ない手段」として原発を容認するしかないと思う。でなければ、時々、停電する不便な生活を我慢するか、脱原発によるコストを電気料金として負担する覚悟を決めるしかないだろう。いくらないものねだりしても、理想的な解決策はない。
 
 また、作家の村上春樹氏が、カタルーニャ国際賞受賞のスピーチで福島原発事故を広島・長崎に続く2度目の核惨事であり、「原子力は拒否すべきだった」といったそうだが、でも、過去において原子力を拒否したなら、計画停電が日常茶飯事になり、不自由な生活を送らざるを得なくなり、それどころか経済も影響を受けて、日本の経済成長の足を大いにひっぱったのは間違いないだろう。そんなことをいうと、「原子力以外の発電手段をもっと研究して導入すべきだったのだ」と決まって主張する人もいるわけだが、彼らがいうほど、それが簡単なこととは私には思えない。
 それにだ。今回、たまたま原発事故が起こり、注目されているが、まるでそれを「ほかのものにはリスクがないが、原発だけ安全神話が崩壊した」と思うのは間違いである。そもそも、安全か非安全かの境界線は一本の線で引くことはできない。それが原発でなくても、例えば超高層ビルでも、レインボーブリッジでも、新幹線でも何でもそうだが、必ず地震や台風の規模を一定の数値として想定をした上で強度計算が行われる。仮に一万年に一度という極めて稀な規模の地震や台風が起きても大丈夫なように十分すぎる余裕を見て作ることができればいうことはないわけだが、でもそうだったとしてもリスクをゼロにするのは不可能。より安全性を突き詰めれば突き詰めるほど膨大な建設費が必要になり、建設してもペイしない、つまり国の借金が増え、やがては国民がそのツケを払うことになる。つまり、今回の原発事故と同じように想定以上の災害が起これば、多かれ少なかれ大惨事になる可能性があるということだ。原発の方が影響が広い範囲に及ぶので、よりリスクがあるともいえるだろうし、福島原発の場合は、そもそも想定云々以前の問題としての人災という面が大きいとは思うが…。

 原発事故は目に見えない放射線に対する漠然とした恐怖もあって、余計に敏感になることもあるのだろうが、でも車も飛行機も同様に危険を含んでいることに違いはない。どちらがより危険か、安易に言えないが、死者数から見ると、今回の福島原発事故では間接的な理由で亡くなった人はいるものの、放射線による直接の死者は今のところいない。一方、日本国内で自動車事故による死者数は年間5千人である(かつては1万人を越えていた)。このふたつの事例を死者数からだけで単純に比較するのもどうかとは思うが、この数字だけ見ると、なぜ我々は、じわじわと身体を蝕まれて将来のリスクにつながる可能性があるとはいえ、死者がひとりもいない原発を異常に怖がる一方で、年間5千人も死んでいる乗り物を怖がらないのだろうと、自分のことも含めて疑問に感じてしまう。おそらく車は事故に対する心配はあっても、長い間身近に存在して慣れてしまっているということだろうか。それとも国民一人一人の自動車総乗車時間があまりに大きい割には、身近なところで重大な事故が滅多に起きないからだろうか。車がなければ生活できないところも多く、とにかく車が便利すぎることを身にしみてわかっているので、思考回路の別の穴に入り込んでしまって思考停止に陥っているのかもしれない。





石原発言をきっかけに人口増加の抑制作用について考えた
2011年02月21日

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石原都知事が昨年、同性愛者に対して「どこか足らない感じがする。それは遺伝とかのせいなのだろう。テレビなんかでも同性愛者の連中が出てきて平気でやるでしょ。日本は野放図になり過ぎている」と発言されたそうだ。以前、ニュースサイトでこの報道を読んで、私はおおむね賛同したいと思った。タレントとしての才能が高い人もいるとはいえ、確かに近年のこの風潮には、ちょっと違和感を覚える。誰かに迷惑が及ぶわけでもなく個人の自由の問題ではあるし、さらにいえばテレビというのは非日常の世界だから、おもしろいことをしゃべれる方が重用されるのだろうが…。
 でも、石原さん。原因は遺伝じゃなくて、おそらく性ホルモンの分泌異常ですよ。それも遺伝した可能性はあるが、両親の性対象が正常だったからその人が生まれたわけで(単純にそうともいえない部分があるにしても)、むしろ後天的な原因で、母親の胎内にいる時から思春期にかけて十分な性ホルモンが分泌されなかったために性対象を正常にとらえられなくなったと考える方が自然だ。それは、同性愛だけでなく、性同一性障害についても、おそらく原因は同じではないか(性同一性障害の原因は、医学的には未解明のようだが)。
 ホルモンの分泌部位と、それを受け取る受容体など、一連のホルモン機能が正常であれば、人間の行動や感情は確実にホルモンの影響を受ける。つまり、普通の人と同性愛者を比較して、では両者は何が違うのかと考えると…その最も可能性が高い答えが性ホルモンの分泌異常ということだ。
 おそらく、ご本人たちにしてみれば、同性を好きになる運命のもとに生まれたとか、そういう深いものに起因させたいのだろうが、現実は、それよりももっと単純だろうね。
 
 昨日の朝日新聞に、石原都知事の発言を批判する同性愛者からの投書が載っていて、「なぜ同性を好きになるのか、という問題は世界中の学者の研究をもってしても解明されていない」とあったが、「なぜ異性を好きにならないのか」という点も含めて、性ホルモン分泌異常で簡単に説明がつく。同性愛者の血中の性ホルモン濃度でも調べれば答えはすぐに出るはずだが、差別とか、いろいろめんどうな問題にもつながりそうなので、専門家も調べたがらないし、そもそも調べなくても主な原因はこれしかないと認識されていて、あまりそれをおおっぴらにいわないだけだろう。

 ただ、その一方で、こういう傾向というのは、人類という生物種が内在させている人口増加に対しての抑制作用の現れではないかという気もする。一定の生活空間で一定の餌と水を与え続けられるネズミ個体群は、ある程度までは、まさにねずみ算式にどんどん増加するが、これらが不足してきて、さらに個体密度が高くなるとストレスや病気も増えて、増加率は緩やかになり、やがては個体数は一定となって、X軸に時間、Y軸に個体数をとったグラフはS字のようなロジスティック曲線を描く。それは生物である以上、人間とてネズミと同じことで、個体数がピークに近づくと、何らかのブレーキがかかると考えるべきだろう。ネズミの例では、それは空間や食料の限界といった物理的側面が大きいが、人間のように全世界に広がっている巨大な個体群の場合だと、それ以外に機能する生物学的なブレーキもあるのではないか。
 晩婚化や少子化、同性愛者の増加、それをタブー視しない風潮は、社会的要因が最も強く影響しているとは思うが、そんな生物学的ブレーキに起因している可能性も考えられないか。また男性の精子密度が50年前と比較して減少している(生殖能力の低下)という報告もあって、あるいはこれもそうなのかもしれない。外的要因の可能性もあるが、環境ホルモンについていえば、一時いわれていたほどの影響は確認されていないというのが、最近の見解らしい。
 日本では、人口増加はピークを過ぎて超高齢化社会を迎えつつあるとはいえ、ブレーキの機能に時間差が生じると仮定することもできる。根拠が決定的に不足しているから、あくまで私の雑感に過ぎないのだが。





イギリス・BBC番組とアヘン戦争/2011年01月24日


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 イギリスBBCのバラエティクイズ番組で、広島と長崎で二重被爆して、先日93歳で亡くなった男性被爆者を「世界一運が悪い男」と笑い話のように紹介したことに対して在英日本国大使館が「無神経」と番組の制作会社とBBCに抗議したそうである。それに対して、制作会社は謝罪したそうだが、BBCからはまだ返事がないとのことだ。その後の経過は知らないが、大使館の対応は当然だろう。そもそも私は世界一運が悪いとは思わないね。広島で被爆しても生き残り、さらに長崎でも死なずにすみ、しかも93歳という長寿をまっとうされたわけだから、むしろ強運の持ち主というべきだ。ついでにいえば、この番組のプロデューサーよりも長生きである確率の方が大きいのも間違いないだろう(笑)。

 ところで、この話とは直接関係しないが、イギリスという国は、自らを「紳士の国」と呼び、高貴な王室を置く割には、歴史的に見ても結構えげつない国である(どの国も多かれ少なかれそういう面はあるかもしれないが)。中でも最悪だったのがアヘン戦争だろう。
 アヘン戦争というのは、清との貿易不均衡を是正するという目的のために清に大量のアヘンを持ち込んで多くのアヘン中毒患者を作り出し、清が強い姿勢で臨みはじめたことに不満を持ち、いいがかりをつけて2年間に渡り清を攻撃したというものである。
 
 こんなことをいうと、日本だって中国でアヘンを蔓延させていたという人もいらっしゃるわけだが、残念ながらその意見には賛同しない。大枠で見れば同じように見えるというだけの話であり、定量的な視点が欠落している上に細かい条件比較も行われていない。南アフリカのワールドカップで、開催前、殺人事件が多いことを危ぶむ報道があったことは記憶に新しいが、それを「南アフリカで殺人事件が発生しているかもしれないが、しかし日本でも殺人事件は起こっているわけだから同じだ」といっているに等しい。それが正しくないことはいうまでもないだろう。
 本来は、どちらが中毒患者をどの程度生んだのか(中毒のレベル、患者数と死亡者数の比較)とか、そこから派生するさまざまな問題も含めての視点も必要なわけだが、とはいえ、おそらく当時、清国政府や中国政府が、きちんとした中毒患者の医学的調査をしているとは考えにくく、たとえデータが残っていても信頼性に欠ける可能性も大きい。

 仮に中毒患者数が同じ、あるいは日本の方が多かったとしても、私はイギリスの方がえげつないと考える。当時のイギリスといえば、大英帝国といわれるように我が世の春を謳歌していた頃である。何ら国家の行く末が案じられるような状況にあるわけではなく、世界の富を集めていたはずだ。要は「世界に冠たる大帝国が平時の金儲け」のために他国に麻薬を売りつけ、それを拒否されると戦争を仕掛けたわけだ。ろくでもない品の悪さではないか。一方、日本は満州事変以後とはいえ戦時である。そこが根本的に違う。そもそも戦争に突入するなどして国家の命運が左右される事態に置かれると、日本に限らず、どこの国でも何でもアリになってしまうものだ。アメリカは、日本が重慶を爆撃した折、正義面して国際法違反と批判したが、その後、自分たちも同じ事を、しかも一都市どころか、多数の日本の都市を爆撃したわけだ(極めつけが2発の原爆)。また日本が中国で毒ガスを使ったことを非人道的だとして批判する人も必ずいるだろうが、アメリカは原爆のあと、本土上陸作戦では毒ガス戦を仕掛ける予定だったのである(テニアン島には、すでに大量の毒ガスが用意されていた)。
 軍医だった里見甫(関東軍の息がかかった麻薬密売組織・里見機関の責任者)がどう考えていたのかまでは知らないが、当時の情勢からすれば、そういう選択をしても不思議ではない。残念ながら戦争とはそういうものである。
 最後にもうひとつ。現代の麻薬生産密売国・北朝鮮と比較しても、かつてイギリスがやったことの方がよほどえげつないともいえるだろう。もちろん、あくまで麻薬に関してのみの比較だが―。





尖閣ビデオ流出で考えること〜法律や規則よりも真理の方が優先される〜/2010年12月22日

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 尖閣ビデオを流出させた海上保安官・sengoku38氏が、停職処分になりそうだとか。国民から圧倒的な支持を得る一方、「公務員としてあるまじき行為であり、こんなことが許されては組織が成立しない」という批判も根強くあるようだ。この批判意見にも確かに一理はある。個人的な考えで組織に逆らうことが頻発しては組織どころか国家も成り立たないだろう。それは間違いない。ただ、その一方で、常に組織や国家が正しい判断をするとは限らないのも事実だ。

 sengoku38氏が名乗り出たあと、テレビ番組で漫画家の黒鉄ヒロシさんが、ナチス・ドイツから迫害を受けたユダヤ人6000人にビザを発給した杉原千畝氏を例に出して擁護されていたが、まったくその通りだと私は感じた。日本のシンドラーとも呼ばれる杉原千畝氏は外務省や外務大臣にビザ発給許可を願い出るが、許可されず、悩んだ末に独断で発給を続けたことで知られている。現在、この杉原氏の行為を「本省や大臣の指示に従わないのは公務員としてあるまじき行為」と断罪する人が果たしているだろうか。多くの人は、6000人のユダヤ人を救ったことに賞賛の声をおくるのではないか。
 つまり「組織の方針や法律に従わないこと=許されない行為」ではなく、確かに組織の人間である以上、安易に自己の信念を貫いて暴走すべきではないとはいえるが、個別事案によって評価は異なるといわざるを得ない。

 世の中には、残念なことに法律や規則を判断の最上位に据え置いている「法律至上主義」みたいな視野狭窄的な人がよくいらっしゃる。もし社会の問題や矛盾を即座に吸い上げて、常に完璧な形で法律が修正されるしくみでもあれば話は別だが、現実の社会ではそうなってはいない。つまり法律にしろ規則にしろ、多かれ少なかれ問題を含んでいるのだ。だからといって法律と規則を守らなくてもいいといっているわけではもちろんないが、実際には、問題を含んでいるがゆえに「真理」と「法律・規則」が二律背反となる事態も起こり得る。このような事態に陥った場合は、当然のことながら「法律・規則」よりも「真理」の方が優先されるべきである。

 かつて救急救命士には気管挿管が認められていないにも関わらず、現場では救急救命士による気管挿管が容認されていたことが社会問題となったことがある。法律上、気管挿管は医療行為にあたるため医師にしかできなかった。そのため気管挿管が必要な場合は、救急救命士が医師に電話して許可をとらなければならなかったという。ところが現場では携帯電話も通じない場合もあって、緊急時には自分たちの判断で気管挿管をする例があとを立たなかったそうだ。この話を聞いて法律を守らない救急救命士を批判する人もいるだろうが、気管挿管をすれば救えるかもしれない心肺停止状態の患者を目の前にして規則だからといって医師に連絡が取れるまで必要な処置を遅らせてもよかったのだろうか。その患者が自分の愛する家族であっても、やはり「規則に従わないのは許されない」と批判するのだろうか。もし、気管挿管に自信があれば、助けられる命はなんとか助けたいと考えるのが、人間としてごく普通の感情だろう。私が救急救命士であれば、やはり同じように法律よりも人命の方を優先して判断をする。

 ある医師は、「私は気管挿管をした経験がほとんどないから、医師であってもきちんと処置できる自信はない」と語っていた。つまり救急救命士と同様に医師が行ってもミスが起こりうるということだ。そうであれば、あとは比較して判断するほかない。つまり、救急救命士が気管挿管でミスをしたり気管挿管が遅れて助けられなかった患者の割合よりも、救急救命士が気管挿管をすることで助けられた患者の割合の方が多ければ、救急救命士に気管挿管を認める判断をすべき、ということになる。
 厳密に言えば法律違反を犯していたのかもしれないが、患者の命を救う「真理」を優先して判断していた救急救命士は正しかったといえるだろう。(※ちなみに現在では、法律が改正されて救急救命士にも気管挿管が認められるようになった)

 尖閣ビデオにしろ、気管挿管の問題にしろ、「短」があるから即ダメと切り捨ててしまう原則論ばかり振りかざす人が多いのも困ったものなのだが、わかりやすくいえばこういうことだ。選択肢としてA、B、Cがあるとしよう。

選択肢A  長所多数  短所なし
選択肢B  長所あり  短所あり
選択肢C  長所あり  短所あり

 短所が一切なく圧倒的な長所しかないAのような選択肢があれば、もう何も迷わずAを選べばいいわけだが、現実にはそういう例はごく稀だ。Aのような選択肢がなければ、選択肢として考えられるBとCの長短を比較して、どちらがより重要か、どちらがより結果にプラスかという比較をするしかない。選択肢BとCに短所(問題)があるからダメということにはならないのだ。


 ところでsengoku38氏を「公務員としてあるまじき行為」と批判することと、ノーベル平和賞を受賞した中国人・劉暁波氏を賞賛するのは完全に矛盾する。前者は、政治家の判断が間違っていたのをsengoku38氏が正したということであり、後者は、中国の今の政治体制を劉氏が正そうとしている、という似た構図であるからだ。中国政府の視点から見れば、劉氏は中国の法律に従わない「犯罪者」ということになるが、だからといって劉氏は間違っているといえるのだろうか。

 組織の人間であったとしても考えに考え抜いて、それでも組織の方が間違っているとの結論に至ったら、その結果責任をすべて負う覚悟で、「真理」を貫くのもひとつの見識である。sengoku38氏は、そう考えたからこその行動だったのだろう。きれいごとを並べるばかりで、実は保身第一で何もできない政治家や都合のいいことだけ批判して正義を装うマスコミ関係者よりも、sengoku38氏の方がはるかに人間として立派であると私は考える。

 
確かに世の中、正論を貫きたくても貫けないことも多々あるが、なるべくこういう姿勢で物事を判断したいものだ。





口蹄疫に対して消費者が冷静である理由/2010年5月24日

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先日、朝日新聞を読んでいたらBSEや鳥インフルエンザの時と比較して、今回の口蹄疫に対して消費者の反応が冷静なので、社会全体に「科学的な見方」をしようという意識が浸透してきたからではないか、という消費者団体トップの意見が掲載されていた。確かに少しずつではあるが、消費者は賢くなっているとは思うが、それは十年二十年単位で見たときにちょっとばかしマシになっているという程度の話で、わずか数年前のBSEや鳥インフルエンザの時と比較して、消費者に「科学的な見方」が浸透しているとは私はまったく思わない。冷静、冷静というが、冷静であることがイコール科学的であるわけでもなく、鳥インフルエンザのように冷静過ぎて対応が遅れれば、それだけリスクが増えることも間違いない。一見、冷静に見えても、それが現状を正確に把握できていないことによる「呑気」に起因するのでは意味がないのだ。
 消費者が冷静なのは、BSEや鳥インフルエンザが自らに被害を及ぼすかもしれないのに対して、口蹄疫の場合は被害が及ばない(人間には感染しない)ことを報道を通して知っていただけのことであって、科学的な見方が浸透したからではないと思う。残念だが、科学的な見方(たとえそれが情報の根拠を確かめる程度の話であっても)ができるほど、一般消費者のレベルは高くない。日本の消費者を国際比較すると、ちょっとだけ意識が高いのは間違いないが、科学的な見方ができるにはほど遠いのが現状である。日本では、マスコミですらあれほどレベルが低いのに、一般消費者の程度なんて所詮知れている。





日本の過剰に見える新型インフルエンザ対応は、おおむね正しかったという話/2010年5月2日

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国立感染症研究所が、新型インフルエンザによる国内の死者数を推計したところ、およそ200人で、多い年には1万人以上が死亡する季節性インフルエンザの数十分の1以下だったと発表した。といっても、この結果からわかるのは、必ずしも新型インフルエンザは、季節性インフルエンザよりも危険性が低いということではない。
 日本における10万人あたりの死者数を計算すると、わずか0.1人となり、アメリカの30分の一程度。これは、諸外国と比べても断然少ない。過剰対応したにも関わらず死者の割合が諸外国と同じであれば、確かに過剰対応といわざるを得ないわけだが、日本だけ圧倒的に少なかった結果を見れば、むしろ適切な対応だったと考えられる。
 その理由について専門家は、日本では手洗いやうがいなどが徹底して行われたこと、医療機関で迅速にタミフルなどによる治療が行われたこと、などを挙げている。一見すると、日本だけが過剰対応しているように見えた人もいっぱいいたと思うが、この結果からいえるのは、むしろ諸外国の方が甘かったということになる。一時、懸念されたほどの大流行にはならなかったし、もちろん反省すべき点もあるが、結局、犠牲者を世界的に見ても最低レベルに押さえ込むことに成功した。日本の過剰にも見えた対応は、おおむね正しかったといえそうである。

 本サイトでは、2009年5月28日の日記で「日本での感染が、メキシコやアメリカほど広がらなかったのは、気温や湿度などの環境要因の可能性もあるが、あるいは欧米に比べれば、やや過剰にも見える対応のおかげだったのかもしれない。どちらかというと大雑把な諸外国に対して、緻密で細かい(ある意味、神経質な)日本の国民性が、幸いしている可能性も充分にある」と指摘した。約1年たって、どうやらそれは当たっていたといえそうである。もし日本の対応がアメリカ並みであれば、約6000人は死んでいた可能性もあるのだから、安易に「騒ぎ過ぎとはいわない方がいい」という意味をご理解いただけるのではないだろうか。昨年秋の時点でも「過剰にも見えるほどの対応の結果、死者数が少なくなっている可能性」があったにもかかわらず、それを「死者数が少ないのだから過剰対応」としたのは因果(原因と結果)を取り違えている。そこを見抜けず「騒ぎ過ぎ」と結論づけてしまったマスコミの分析もかなり問題があるといわざるを得ない。

 あるブロガーが、今回の国立感染症研究所の発表に対して、同じような意見を述べた上で次のように書いていた。「(日本人は)本当に目の前に具体的な形として危機が現前すれば、凄まじい同調性を発揮して危機を乗り越えられるポテンシャルを持っていると思う」と。確かにそれはいえるかもしれない。最も顕著だったのが、先の大戦だろうが、新型インフルエンザも同じく同調性がうまく機能した例といってもよいだろう。





テンに襲われた佐渡のトキから見えてくるもの/2010年3月17日

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佐渡トキ保護センターのゲージにテンが侵入して、9羽のトキが殺されたが、これは単純に想像力の欠如といわれても仕方ないと思う。すでに周辺地区でテンの被害があったことは、センターの職員は知っていたはずだが、ゲージの隙間を見た時にそれとを結びつける「想像力」がなかったということだろう。
 ところで、ある山岳関係者からこんな話しを聞いたことがある。某国立公園内にある避難小屋を建て直すことになった。環境省の方針は「2階は、おしゃれな吹き抜け構造にする。避難小屋だから屋根に樋は不要…」というプランだった。これを聞いて、みなさんはどう思われるだろうか。そのプランに問題を感じない人も多いかもしれない。
 だが、その山岳関係者は、次のように反論したそうだ。今風のおしゃれな吹き抜けよりも、多くの登山者を収容できるように2階は全部を床にするべき。また避難小屋のそばを登山道が通っており、冬期は、樋がなければ屋根に巨大な「つらら」が生じやすくなり、それが折れて落ちると登山者の生命に関わる重大な事故につながる可能性があると。私は、環境省のプランは想像力に乏しく、山岳関係者の方が、現地状況を熟知した現実的な意見だと感じた。
 環境省に限らず、中央官庁の方針というのは、時として想像力の欠如や現場を知らないことに起因する粗雑なものになることも多く、似たような事例はいくつもある。こうした状況が招く社会の不利益について、少しは考えていただきたいものである。いくら勉強が優秀であったとしても、それで現場の状況を正確に把握できるわけはないし、学校の成績と想像力の程度は、必ずしも関係しないのだ。
 両者は、別地方の、まったく無関係の話だが、根っこが同じ気がするのは、私だけではないだろう。





チリ大地震・津波避難勧告と新型インフルエンザ/2010年3月6日

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チリ大地震による津波が日本の太平洋岸にも到来するということで、沿岸各地の自治体から避難勧告が出されたが、結果的には被害が出るほどの津波は来なかったようだ。気象庁は過大評価だったと謝罪。これを受けて、早速、週刊新潮は「大袈裟すぎた津波警報狂騒曲」なる記事を掲載していた。週刊新潮は、相変わらずバカのひとつ覚えのように「狂騒曲」が好きだねぇ〜。

 新型インフルエンザもそうなのだが、なぜか知らないが、人命に関わることでも騒ぎ過ぎることが大問題とでもいわんばかりのマスコミの論調もどうかと思うね。何も被害がなくて、結果的には過大評価だったとしても、それが一体どうしたっていうのか。過小評価して人的被害が出るよりか、はるかにマシだろう。
  「正しく評価すればよかったのに、それをしなかった」とでもいいたいようだが、津波のようにさまざまな条件によって結果が変わる自然現象を正確に予測するのは難しい。それは、生態系や人体のような「複雑系」(知らない人は検索してね)でも同じことがいえるが、そういう対象であることを理解していれば、「今回の避難勧告を騒ぎ過ぎ」と批判はできない(もしくは慎重になる)はずなのだ。

 津波の被害が及ばない(自分の命に関わらない)地域に住んでいる人物による「他人事記事」だから、涼しい顔をして批判できるんだろう。おそらく、逆に過小評価により被害が出たら、週刊新潮は、確実に「気象庁の過小評価が生んだ人災」という記事を出すよ、きっと(笑)。実は、何も理解していない文系マスコミによる「あと出しジャンケン」的な記事ってことに、みんなも気づこうね。

 そういえば今日、新聞を読んでいて、偶然、ロシアでも週刊新潮レベルの大臣がいることが判明した。ロシア緊急事態省ショイグ大臣は、「天気予報をはずしたら責任をとる必要がある」といったそうな。それに対して気象庁のビリファンド長官は「絶対的に正確な予報など100万年後でもないだろう」と反論したという。これは、完全にビリファンド長官が正しい。ショイグ大臣には、残念ながら科学の素養がないだけのことだ。
 
 確かに過大評価が続いて「オオカミ少年状態」になってはマズいが、あまり騒ぎ過ぎと批判していると、次回の津波が懸念される時に気象庁や各自治体が避難勧告発令に際して萎縮しないかと私なんかは懸念する。

 ところで話は変わるが、新型インフルエンザは、感染者が少しずつ減少しており、あるいは流行のピークは過ぎたのかもしれない。重症化して死者も出たが、パンデミックといわれるほどの事態にはならなかった。
 新型インフルエンザ対応を「騒ぎ過ぎ」と批判していたマスコミは、「ほーら、やっぱり」と鼻高々なのだろうが、でもそれは結果論に過ぎない。専門家でもわからなかった結果を予測していたわけでもなんでもなくて、文系記者が抱いた「個人的印象」が、結果的には、たまたま当たったということでしかない。

 特に国内にまだ感染者が見つかっていない段階では、どの程度の感染力があるのか、日本の厚労省はもちろんWHOも把握していなかった。その状況では最悪パンデミックも懸念されたことも考えれば、厚労省が慎重な対応になるのは当たり前の話。発生当初は騒ぎ過ぎでもなんでもないし、そもそも人命に関わる話なのだから「騒ぎ過ぎ」ということはない。人命に関わるわけでもない芸能人が覚醒剤使用で逮捕されたって話を連日取り上げる方が、よほどの騒ぎ過ぎである。

 「季節性インフルエンザでも、毎年同じくらいの死者が出ているのだから、新型インフルエンザを殊更に騒ぐ必要はない」とネット上でよくいわれていたが、数の問題なのであれば、ほとんどの問題が騒がなくていいことになる。以前、一部の暖房器具による一酸化炭素中毒で死者が何人も出たことが問題になったが、これも季節性インフルエンザの死者よりも少ないのだから騒がなくてよかったのだろうか。最近、アメリカなどでプリウスの異常急加速が指摘されているトヨタの問題なんて、死者すら出てないのだから、同じ論理でいけばこれも騒ぎ過ぎってことにならないか。もちろん、私はそうは思わないけどね。騒ぐことで死者が一人でも少なくなるのであれば、ぜひ騒いでいただきたい。

 たまたま同じ「インフルエンザ」どうしだったから、余計に両者を並べて比較されただけの話で、もしまったく別の名前の病原体だったら反応は違っていたのかもしれない。それを考えると、結構笑える意見だってことに気づくだろ。そんなもんだよ、世間一般の意見なんて。





シーシェパードの抗議活動について/2009年12月24日

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懲りもせずに、今年も日本の調査捕鯨に対して抗議活動を繰り返しているシーシェパード。欧米で彼らの活動に賛同して募金に協力する人がいるという話を聞くと、アホが多いのは日本だけじゃないんだと、逆説的だが妙に安心してしまうのも事実である。彼らの主張とは、「頭のいいクジラやイルカを捕獲するのはけしからん!」というわけだろうが、「頭のいい動物なんだから助けたい」というのは、「頭の悪い人は助けなくていい」といっているに等しい。

 専門家から絶滅の可能性が指摘されていて「クジラは絶滅の可能性がある。ゆえに捕獲はけしからん」というのであれば確かに説得力がある。私もクジラが絶滅してもいいとは思わない。でも、仮にそうだったとしても、話し合いという手段を飛び越えて、一気に暴力的な抗議活動に飛躍する意味がわからない。おそらく抗議船を接近させるような派手な活動の方が、注目され寄付が集まりやすいからだろう。

 またシーシェパードの主張というのは、生態系を理解していない人にありがちな「典型的な勘違い」ともいえる。生態系を保全するには、特定の動物だけを保護しても無意味なのだ。クジラを保護しすぎて増えると、今度はクジラがエサにしている魚は減ってしまい、ほかの生物にも次々に影響していく。生態系のことを何もわかってない連中が、自分たちの勝手な信念だけであのような暴力的な活動を行っているわけだから、賛同できる要素はどこにもない。それに賛同するということは、イコール生態系について何も理解していないことにほかならない。

 欧米に限らず日本でもそうだが、物事を表面的にしか考えられない人というのは、結構たくさんいる。シーシェパードに賛同しているパタゴニアというアウトドア用品メーカーは、まさに上辺しか見ておらず、さらにいえばアウトドア系の人にしばしば共通する「自然のことをわかっているフリをしながらも実は生態系について何も理解していない」という傾向そのものだ。パタゴニアのトップは、すなわちそういうレベルの人間ということまで透けて見えてくる。自分たちは、地球環境のためにいいことをしていると思い込んでいるわけだから、余計に始末が悪い。

 牛や豚を殺して、その肉を喰うのは問題ないが、海洋ほ乳類だけは絶対に許せないというのは意味不明である。「牛や豚は、頭が悪いから喰ってもいい」ということなのだろうか。しかし、頭の良し悪しと野生動物捕獲の可否の関係を、どのような基準で決めたのか説明できるはずもない。おそらくシーシェパードにとって海洋ほ乳類とは、「ただ単に彼らが好意的に感じる動物」ということでしかないだろう。犬のことになると、俄然、犬のすばらしさを持ち上げ、批判されると徹底的に犬の擁護に走る「お犬様教」の狂信的な信徒とでも呼びたい頭が緩いアホと同じだ。「シェパード」と名付けるくらいだから、おそらく彼らも犬が好きなんだろうな。海洋ほ乳類と犬だけは人類の友ってか。どの程度の連中か、会わなくても大体、想像つくよ。

 ところで、昨年、カナダの漁業海洋相が、シーシェパードのことを「やつらは資金提供者に寄生するペテン師」といって批判している。これが的を射ているのかどうかわからないが、もしかすると海洋ほ乳類の捕獲をすべての国がやめたら、彼らは困るのかもしれない。寄付で運営しているわけだから、シーシェパードの構成員は、それで喰ってるのは間違いないだろう。活動する目的がなくなれば、団体としての存在理由がなくなり、収入源を絶たれてしまうわけだ。本音をいえば日本が調査捕鯨を続けてくれる方が都合がいいのかもしれない。でも万一目的がなくなったとしても別の問題を新たに探し出し、何も見えていないおバカさんたちに訴えて、またまた寄生するだけかも(笑)。

 捕鯨問題というのは、「自然や環境保護を優先する反捕鯨国」対「捕鯨を文化とする捕鯨国」という構図に見えがちだが、実は大いに政治利用されてきた経緯がある。アメリカの主張というのは、政治目的でクジラを利用しているに過ぎず、海洋ほ乳類にやさしいわけでもなんでもない。あからさまなダブスタを平然と持ち出し、それを日本などの捕鯨国に突きつけているのが実態である。





小沢幹事長・植民地支配謝罪について/2009年12月14日

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 民主党の小沢幹事長は、韓国における講演で、過去の日本による植民地支配を謝罪したという。ネット上では、批判の嵐だが、私も同意見である。もう、いいかげんやめよう。キリがない。戦後60年以上もたって、まだ謝り続けているなんて滑稽だよ。中国といい韓国といい、彼らは自分たちこそ最も優秀な民族だと思っている。その優秀であるはずの自分たちが日本の支配下に置かれた歴史的事実に、言葉にできないほどの民族的コンプレックスをもっていて、機会がある度にその鬱屈した心情を少しでも解消しようと「謝罪せよ」と口にしているに過ぎない。小沢のような愚かな政治家やマスコミが、バカ正直に安易に繰り返し反省・謝罪するから習慣化してしまっている。

 日本が韓国を支配したことを「植民地」とよくいわれるが、正確には「併合」である。日本の国の一部にしたのだから、インドを植民地にしていたイギリスとは違う。だから帝国大学も作ったし、社会インフラも積極的に整備したのだ。また韓国から「賠償」という言葉も聞かれるが、これは戦後に締結された日韓基本条約で、すでに解決済みである。この条約に基づき、日本政府は韓国に莫大な有償・無償の援助をしている。戦後韓国の驚異的な経済成長を「漢江の奇跡」と呼んでいるが、これは日本から莫大な援助を得てなしえた部分もあり、「奇跡」とまで呼んでいいのか疑問符がつくような話である。ちなみに某重工業メーカーの技術者だった父は、私が小学生の頃、韓国・国営企業の大きなプロジェクトの仕事をしていたが、これは日本政府が日韓基本条約に基づいて資金を出した事業だったと聞いている。

 日本は、これからも謝罪すべきと思っているみなさん。よく考えよう。オランダは、インドネシアに謝罪し続けているだろうか。イギリスは、インドに謝罪し続けているだろうか。あるいは、世界中にたくさんある、もとは植民地だった国々に対して、宗主国は、すべて謝罪し続けているのだろうか。日本だけが、中国と韓国だけに謝り続けていることが世界的に見ておかしいことに、いい加減気づこう。日本以外の支配していた国々も、それぞれの植民地で相当ひどいことをしているんだよ。支配されていた側は支配していた側に反発するのは当たり前の話であり、どこも同じ構図があるってことだ。

 日本が、戦争中、中国で侵略まがいの行為を行ったことがいいことだとは思わない。しかし、国際的なルールも未熟で人権意識すら希薄だった過去の世界史の中では、ごく当たり前に同じことが繰り返されてきた。日本が中国や韓国を支配していたのも、そのひとつに過ぎない。日本は、今も中国や韓国を支配しているわけではないが、翻って、ほかの国はどうだろうか。ハワイはもともと独立国だったが、アメリカに取り込まれたままである。チベットは中国に侵略されたままである。同じような例は、ほかにいくらでもある。それが、世界の歴史であり、今も変わらない。

 同じことは、日本国内でもいえる。沖縄は、江戸時代から薩摩藩の支配下にあったが明治時代まで琉球王国という国であり、北海道には松前藩が置かれるまで国と呼べるものはなかったが、それでもアイヌの人々が暮らしていた。さらに時代を遡れば、大和朝廷の力が全国に及ぶ以前、東北や九州には、それぞれ別の国があったわけだ。それが、今は日本というひとつの国になっている。あたかも時間に左右されない「侵略不可の絶対的な民族と国土の枠組み」みたいなものがあって、それを越えて他国が支配することが絶対悪であるかのような認識は間違いだということだ。

 日本人は国際比較すれば優秀だと思うが、その一方で自分があまり感心のない事柄には、おそろしく単細胞で、表面的な状況しか見ないし、深く考えもしない(世界中どこも同じようなものだろうが)。しかも日本という国は、歴史的に見ても気候や食糧環境だけでなく政治環境も比較的良好で、中国のように国ができては消えることを繰り返すこともなく、割と安定していたこともあってか、日本人は悪事や自己主張をしなくてもそこそこ生きていくことができた。そこから心理的時間的な余裕が生じて、武士道のような高い理念や誠実で正直な国民性も生んだ。これは日本人の長所でもあるが、このふたつの特徴がいかんなく発揮されると、自分があまり知識がなくて深く知らないことでも事実をよく確認もせずに「とりあえず謝っておこう」という姿勢につながるものと思われる。

 だが、中国や韓国に繰り返し謝罪すべきという人は、歴史を俯瞰し、さまざまな視点から検証する姿勢に欠け、実は中国や韓国の実態だけでなく歴史上の事実も含めて何もわかってはおらず、単に正直だけが取り柄のおめでたい人といっても過言ではない。こういう人たちのことをわかりやすく表現すれば「バカ正直」という言葉にしかならない。さらにいえば頭の中に「一般民衆」対「権力」という内向きの単純構図しかなく、過去に権力がやらかした愚かな行為を自国民である自分が、中国や韓国に対して公平・冷静に謝罪していることに自己満足しているに過ぎないのである。

 数年前のことだが、オーストラリアのハワード首相(当時)が、中国の反日運動に対して「いつまでも謝罪を要求するのは建設的ではない」という日本擁護の発言をしている。ハワード元首相は、現首相と違い親日家だったから、すさまじい反日運動を見かねて援護射撃をしてくれたのだろう。私は、ありがたい発言として印象に残っている。だが、これは自分たちの立場も少しは念頭に置いているのかもしれない。オーストラリアは、先住民のいた土地にあとから入ってきて国を作ったわけだが、アボリジニに対して「勝手に土地を奪って申し訳ない」と謝罪し続けているはずもないからである。





「売れる売れない」を考える/2009年9月14日

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 もう随分前から出版不況といわれ、「本が売れない」という声を聞く機会は増えている。これだけネットが発達し、便利になったことを考えれば当たり前の結果であり、何ひとつ不思議なことではない。出版業界の業績がV字回復するなんてことを夢見ている人は、業界の中で誰ひとりいないだろう。ただ、この危機感は、その人を取り巻く環境にもよるから業績が悪い環境にある人の危機感は強いだろうし、業績がさほど悪くない環境にある人の危機感は弱いといえるかもしれない。
 出版業界に長くいると、いろいろな意見を聞く機会があるのだが。以前から、こうした意見を聞いていて、しばしば感じることがあるので、今回はそれを書いてみたい。

 多くの編集者は、過去の経験を元にして勝手に「売れる方程式」「売れない方程式」のようなものを頭の中に作り上げ、その方程式に当てはめて「売れる売れない」の判断をしている人が意外に多いと私は感じている。その方程式が確かに正しい場合もあるだろうが、その方程式が生まれてきた経緯を少し冷静に考え直してみた方がいい場合もあるかもしれない。
 例えば、文芸専門でやってきた出版社が、初めて料理本を出したとしよう。料理本を何冊か出してみたが一向に売れない。そこで編集者は考える。「やはり、うちのような文芸専門出版社が、料理の本を出しても注目されないのだろう」と。確かにそういう面はあるかもしれないが、売れない理由は、ほとんどの場合は複合要因であり、その主因を突きとめることは難しい。売れなかったのは、文芸専門出版社だからではなく、読者の購買意欲をそそるレシピがなかったのが主因かもしれないし、他書と比べてデザインや写真に魅力がなかったのが主因かもしれない。マーケッティング調査でもすれば話は別だが、それを行っても本当の原因がわかるとは限らない。だから、いろいろ推測するしかないわけだが、1000例の結果を元に推測しているのならまだしも、極めて少ないサンプルから推測しているに過ぎない。しかも、そのサンプルはさまざまな要素が複雑に絡み合っている出版物である。つまり、いくら経験が豊富でも、もともと統計学的に無理がある判断であり、信用性に劣る判断になりがちだ。もちろん、ある程度の推測をしないと次に生かせないし、豊富な経験を元に的確な原因を突きとめられる場合もあるだろうが、そういう判断の性質上、「方程式」を一度作ってしまうと、間違った判断を繰り返す可能性がどうしても生じることを頭の片隅に常に持ち続けて、そうならないように注意するべきだろう。

 これは出版業界に限った話ではなく、多くの業界にも当てはまる。かつてアイスクリームは、夏しか売れないというのが常識だった。業界では、これが「方程式」だったわけだ。だからセブンイレブンが冬でも販売を始めたとき、否定的な見方が極めて多かったそうだ。ところが結果はどうだろうか。今では多くのコンビニやスーパーで一年を通じて販売されている。つまり冬でも需要があったにもかかわらず、勝手に作り上げた「間違った方程式」にとらわれて、せっかくの「冬でもアイスクリームを食べたい」という消費者の需要を見落としていたことになる。

 大切なのは、自分が無意識のうちに不明瞭・不確実な根拠を元にして作り上げた「方程式」に惑わされず、需要をしっかりと読み取ることだろう。出版業界では、ある程度のものを作れば、そこそこ売れた時期が長かった。そのため出版関係者は、みんな揃って「読者の需要を真剣に考えている」と一応は口にするのだが、実は何も考えていないことが多く、しかも近視眼的視点に陥っており、「もう工夫の余地はない」という負の感情に支配されすぎている。
 長年のそういう体質から市場で競合する既刊類書の特徴すらろくに調べもせず、さらにいえば対ネット戦略もなくして似たような本を出すことが平気で続けられてきた。しかし、現在はますます出版物全体に対する需要が減っている状況下にあることはいうまでもなく、特徴がない魅力がない本を出しても売れるわけがない。

 「売れない売れない」と愚痴ばかりいいたくなる気持ちもよくわかるが、いくら言い続けても実に非建設的で無意味。不安なら、それを解消すべく売れる本を作る努力、それを売る努力をするしかなく、努力をしたくないのなら静かに会社が行き詰まる時を待つしかない。どちらかを選ぶしか方法はなく、努力はしたくないが、本はどんどん売れてほしいなんていうのは、あまりに図々しい。





新型インフルエンザ対応
を「騒ぎすぎ」と騒ぎすぎるマスコミ/2009年5月18日

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新型インフルエンザの国内感染が、ついに確認され、空港の検疫に限界があることが証明された形になった。少し前から今回の対応を「騒ぎすぎ」といくつかのマスコミがしきりに報道していたが、これを受けてトーンダウンするのではないか。確かにいたずらに不安を煽るのはよくないが、「騒ぎすぎ」と騒ぎすぎている気がしていた。こういう問題に対して国民全員が、正しい認識をもち、正しい対応をとるのは不可能に近いわけだから、バランスの取れた対応よりも、やや過剰なくらいにしておく方がちょうどよい。
 例えば、大雑把にいえば、こういうことだ。バランスの取れた対応を「0」とする。それに対してやや過剰な報道がされ、国民の対応や認識が、やや過剰な「プラス側」に傾いたとしよう。だが、もともと認識が甘くて「マイナス側」の認識しか持たない人だっている。そういう人は、やや過剰な報道によって、ようやく「0」の認識になるはずだ。
 日本国民全員が、インフルエンザについての最低限の基礎知識があり、見識ある判断ができるのであれば苦労はないわけだが、1億人もいれば、知識も能力も認識もバラバラ。まったく甘い認識しか持たない人だっているわけで、彼らの危機意識を少し上げ、なおかつ全体が極端なパニックにならない程度にしておくくらいが、感染拡大を防ぐにはちょうどよいのではないかと思う。感染というのは、一人一人の人間で終結する話ではなく、次々につながっていく話なのだから、なるべく「マイナス側」の人を減らし、「0」や「プラス側」の認識をもつ人の割合を増やす方が、リスク管理上は都合がよい。

・感染拡大で懸念されること
 以前の記事でも書いたが、今回のインフルエンザは弱毒性だから危険ではない、という認識は間違いである。懸念されている鳥由来の新型インフルエンザは、強毒性とされ、致死率もはるかに高いが、それに対して弱毒性だから、あまり騒がなくても大丈夫ということにはならない。なぜなら中には死に至る人も現実にいるからである。そのあたりのことをきちんと認識しないままのマスコミ報道も散見され、しかも専門家の意見をもとにそういう記事を書くのならともかく、記者の印象だけをもとにした楽観的なイメージを強調する記事も見受けられる。この手の勘違い文系記者も困ったものである。
 今回の新型インフルエンザの感染が拡大すると、どういう問題が生まれるか想像してみよう。仮にタミフルのような坑インフルエンザウィルス薬の投与で、ひとりひとりの患者は大事には至らなかったとしても、それですむ話ではない。例えば、私は次のような点を懸念する。
@タミフルが使用される機会が増えることで、タミフル耐性を獲得したウィルスが発生することはないか。さらに最も懸念されている鳥由来の新型インフルエンザウィルスにも、それが何らかの影響を及ばさないか。
Aタミフルがどんどん消費され、国内備蓄が減れば、秋以降に流行が懸念される鳥由来の新型インフルエンザ対策にも影響が生じる。
B医療機関に感染者が集中し、対応が遅れたり、対応しきれなくなったりする。感染者が少なければ専用の病室も用意できるが、感染者が増大すれば、それも困難になる。
C感染者が増大すれば、他国にも影響する。感染した直後で症状がでていない人が、まだインフルエンザの感染が確認されていない国に渡航すれば、空港の検疫をすり抜けて、その国初の感染源にもなりうる。もし感染が拡大して、そこが医療水準の低い国なら、確実に死者が出る。

・欧米の対応は冷静というのは正しいか
 「アメリカやヨーロッパの一般市民は比較的冷静で、日本ほど騒いでいない」という報道もあるが、そういわれるとなぜか自動的に日本は過剰反応しているように見えてしまう人が多いのにも困ったものだ。これこそ日本人の中に、まだ対欧米コンプレックスがある証拠ともいえる。もしかすると欧米の方が呑気で楽観的すぎていて、実は日本の方が正しい対応をしているかもしれない、なんてことは一切考えず、欧米の対応は、なぜか無条件に正しく思えてしまう人のアホぶりもどうかと思う。重要なのは、「楽観的な姿勢に科学的根拠があるのか、ないのか」ということのはずだ。テレビのインタビューで、あるアメリカ人女性がこういっていた。「全然、気にしてないわ。ビタミンだってとってるし、私は大丈夫よ」。ビタミンをとればインフルエンザウィルスの感染を防げるのなら、誰も苦労はしない。感染地域でも、ほとんどの人はマスクをしていない、という話を聞くと、冷静というよりも楽観的すぎるという気がする。そんな楽観的な認識が、アメリカの感染者増加(一説には感染者10万人ともいわれる)の原因になっているのではないか。

・ウィルスはウィルスであって細菌ではない
 ネットユーザーにもいろいろな意見があって、危険性を認識している意見も見受けられるが、そうでないお粗末なものもいっぱいある。「騒ぎすぎ」といっている人が、「菌が、菌が」と連呼しているのはお笑いである。インフルエンザウィルスは、ウィルスであって細菌ではない。ウィルスと細菌は完全に別物ってことも知らない人が、わかったような顔をして論評するのもねぇ。

・正しい報道もある
 ただ、今回の新型インフルエンザについて、正しい報道をしているマスコミもある。そのひとつは朝日新聞である。朝日ってイデオロギーは偏ってるけど、もともと科学関連記事は優れており、それなりにきちんとした知識を持った記者が書いているように感じる。なぜなら、ほかのマスコミの科学報道に時折みられる「トンチンカン」な部分がほとんど見られないからだ。ほかのマスコミも朝日の記事を読んで、少しは勉強してほしい。あとNHKの「週刊こどもニュース」でも、正しい解説をしていた。それも付け加えておこう。





平頂山事件日本政府謝罪要求について/2009年5月8日


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 昭和7年(1932年)に中国遼寧省の平頂山村で、旧日本軍が村人を銃殺したとされる平頂山事件について、昨日の朝日新聞夕刊に次のような小さな記事が載っていた。生き残った村人3人は、平成8年(1996年)に損害賠償を求めて東京地裁に提訴し、最高裁まで争ったが敗訴した。そこで今回は、賠償を求めず、日本政府に対して公式な謝罪、犠牲者供養碑の建立、事実を究明し後世に伝えることを要求することにして、中国で面会した民主党議員に協力を依頼し、約束を取り付けたそうだ。

 この記事を読んで、協力を約束した民主党議員に拍手を送る人もいると思うが、私は正直、違和感を感じた。確かに大戦中の旧日本軍のさまざまな問題点について、それが事実であれば謝罪と反省をするのは、あるいは正しいことなのかもしれない。だが日本のマスコミもそうだが、その視点が、いつも決まって日本以外の国に寄っているのは、一体なんなんだろうって思う。
 大戦中、日本が悪行の限りを尽くし、日本人に被害は一切なく、酷い目に遭ったのはすべてアジアの人々というのであれば、日本は一方的に反省し謝罪し続けるのは当然かもしれない。だが、現実はそうではない。
 ほとんどの人は、過去に一般市民を虐殺したのは、旧日本軍だけだと勝手に思い込んでるだろうが、それは間違いである。以前、私は本項で、終戦前後にソ満国境を越えて進軍してきたソ連軍が、日本人開拓団の村々で行った行為について書いたが、もっと酷い虐殺事件もある。みなさんは尼港事件や通州事件をご存じだろうか。これは、共産パルチザンや中国軍が、日本人居留民集落を襲って多数の日本人を殺害した事件のことだ。これらを見れば、酷いことをしたのは、「どっちもどっち」ということがわかる。
 また、アメリカ軍による原爆や日本の都市爆撃は、非戦闘員である一般市民の大量虐殺以外の何ものでもないはずである。

 南京事件もそうだが、旧日本軍による虐殺事件に対して国として反省や謝罪をするのが当然というのであれば、同様に日本人が被害を受けた虐殺行為についても、それを行った国に対して反省と謝罪を要求するのがスジというものである。今回、彼らに約束した民主党議員は、平頂山事件と同様に尼港事件や通州事件に対して中国政府の公式な謝罪と事実を究明し後世へ伝えることを要求すべきである。日本政府に対しては声高に批判できるが、中国政府に対して要求するのは、なんとなく気後れするなんて、まさか思ってないよな。次の内閣を担うつもりになっているみなさんが、まさか中国政府の高圧的な反論にタジタジになるわけないよね。そもそも中国の国会議員ではなく、日本の国会議員なんだろう。であれば、なおさら被害を受けた日本人のために行動していただきたい。本当に正義のためというのなら、ぜひ日本人が被害を受けた外国政府にも同様の要求をして自分が正義と公平であることを証明していただきたいものだ。

 日本では、左派の多いマスコミの論調に洗脳され、左派イデオロギーが真実であると思い込んでいる人もいっぱいいる。一見、いかにも国という枠を越えた公平で正義の言動のように見えるが、私は相手国の主張に沿って自国に都合の悪いことでも積極的に報道する自分に、ジャーナリストとして公平な姿を見い出して勝手に悦に入ってるようにしか思えない。真実を追究するというよりも、自国の粗探しをしているようにさえ思えてくる。それは、南京事件がやたら有名なのに対して、尼港事件や通州事件がほとんど知られていないのを見れば、一目瞭然だろう。自国の政府に追従しすぎるのも気持ち悪いが、今の日本のマスコミもちょっと異常だよ。もちろん極左マスコミなんて論外だね。私にいわせれば、論理回路が破綻しているビョーキの持ち主である。





新型インフルエンザの対応は、決して騒ぎすぎではない/2009年5月3日

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 WHOが週明けにも警戒レベルを引き上げ、世界的規模の流行(パンデミック)とする可能性を示唆しているそうだ。鳥由来の新型インフルエンザが流行する危険性の方に目をとらわれていたら、思わぬ伏兵がいたってことだが、でもネットユーザーの反応に「騒ぎすぎ」という意見が多いのに正直愕然とする。おそらく今回の豚由来の新型インフルエンザが弱毒性であるという言葉のイメージをそのまま鵜呑みにし、さらにはタミフルなどの坑インフルエンザ薬が効くという報道に起因しているのだろう。
 一昨日の朝日新聞にも記事になっていたが、インフルエンザウィルスの弱毒性、強毒性というのは、それぞれ定義があって、弱毒性とは感染しても軽い症状ですむという意味ではない。今回もメキシコなどで死者(幼児や高齢者よりも20〜40代に多いようだ)が多く出ていることを見れば、決して甘く見てはいけない病原体であることがわかる。死者が出たのは医療体制の問題も確かにあると思うが、日本のような先進国は医療体制も整っているし、タミフルの備蓄もあるから、そんなに騒がなくても大丈夫というのは明らかな間違いだよ。仮に日本で死者は出なくても感染者が増大すれば、日本国内だけの問題ですむとは限らず、人の移動に伴って、さらに医療水準の低い国に感染が拡大する可能性もある。空港でいくら検疫しても、感染直後は症状が出ないわけだから決して万全な対策とはいえない。医療水準の低い国で感染が広がれば確実に死者が出るだろう。それを防ぐには、すべての国が感染拡大を防ぐ、あらゆる対策をとる以外に方法はない。従って日本政府の対応は決して騒ぎすぎではなく、当然といえる。敢えていえば、こういうトンチンカンな意見が出てこないように国民に向けてもっとしっかり説明をした方がいいかもしれない。
 北朝鮮のロケットの件でも「日本は騒ぎすぎ。韓国やアメリカはずっと冷静」という意見があったけど、うーん、なんじゃそれ。ロケットの予定進路から完全に外れている韓国が冷静なのは当たり前。アメリカは、北朝鮮から断然距離があるわけだから、日本と比べれば危険性はさらに低下するわけで、冷静でいてもおかしくない。一方、日本はその真下にあって何かが落ちてくる可能性があったわけだから、騒がない方がどうかしている。こういうのって冷静な意見でもなんでもなくて、単に頭がパーなだけだよな。
 それにしても表面的な自分の印象だけで、ろくに調べもせずに物事を判断する人が多いのも何だかなぁ。だから「世論」というのは必ずしも信用できないのだ。いろいろな点に想像力を働かせて、もっと慎重に判断した方がいいと思う。なんでも思いついたことをいえばいいってもんじゃない。いや、いってもいいんだけど考え方が薄っぺらってことがバレバレだよ。





犬と飼い主の奇跡の再会ニュースに見る世間の反応と歪んだ動物観/2009年4月12日

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オーストラリア北東沖で、ヨットからあやまって転落し行方不明になっていた犬が、4ヶ月ぶりに飼い主と奇跡の再会を果たしたというニュースと、それに対するネットユーザーの反応を、あるサイトで読んだ。犬はなんとか離島にたどり着き、そこにいた野生の子ヤギを餌にして飢えをしのいだという。その後、犬は保護されて飼い主との再会を果たすと、狂喜して跳び回ったそうだ。当然のことだが、その反応には「感動した」というコメントが多かった。
 以前にも私は本サイトの日記で、映画にもなった『南極物語』の話を書いた。あれも今回のニュースと同じく、犬と飼い主が感動の再会を果たす話だが、タロとジロが餓死していなかったということは、つまりペンギンなど、何らかの動物を捕獲して食べていたということである。犬としては生きるためにほかの動物を捕獲するのは当然といえるが、感動話としては微妙である。もし映画でタロとジロが、獰猛にペンギンに襲いかかり、雪面に血が飛び散り、血肉をむさぼり喰う場面があったら、観客はみんな引いてしまうだろう。だからそんな部分は一切カットして、1年ぶりに再会を果たした犬が、飼い主である南極隊員に駆け寄るみたいな、美しい感動場面だけで映画は作られているわけだ。でも実際には、犬が南極の野生動物を襲うことは確実に起きていたし、しかもそれは一度や二度ではなかったはずである。そこの想像力が欠落したまま、表面的な「感動ストーリー」に、映画会社の思惑通りにそのまま感動してどうするって私なんかは思ってしまう。確かにタロとジロが凍死体で発見されたっていう結末よりかはよかったかもしれないが、でも本当のことをいうとどっちもどっち。犬をとるか、ペンギンをとるかって話なのだ。少なくとも諸手を挙げて「犬が生きててよかった。バンザイ」と感動するような話とは思えない。それに感動している人も、おそらくその一方で、ヨチヨチ歩きのペンギンを見て「かわいい〜」なんていってるはずである。もう一度いうが、そのかわいらしいペンギンに犬が襲いかかって、血が飛び散っている光景を想像してみよう。な、やはり「微妙」だろ。
 今回のニュースでも、同じだ。つぶらな瞳をした子ヤギを見たら、やはりみんな「かわいい〜」っていうんだろう。でも、そんな愛らしい子ヤギを犬は喰ってたわけだ。もちろん犬にしてみれば生きるために当然の行動といえるし、犬が悪いなんてこともいえない。でも、そこんところをスルーして、見かけ上の部分だけで、このニュースに感動している人たちのあまりに一面的な姿勢に呆れたってわけ。おそらく、今の日本ではほとんどの人はこんな感じだろう。日本人の動物観って、こんなもんだよ。
 だが、もし天国から子ヤギが、自分を喰っちゃった飼い犬が無事に戻ったことを喜ぶ買い主と、そのニュースに感動する人の様子を見ていたら「えぇーっ。ボクの立場はどうなるの?」って思うはずだ。これを人間に当てはめれば、もっとわかりやすい。船が難破し長期間漂流した挙げ句、食料がなくなり、やむを得ずなかまを殺して喰っちゃた人が、無事に救助され家族と涙の再会を果たしたニュースを見て「感動した」っていうのは、違うだろうってこと。厳密にいうと人間どうしの場合と犬対ほかの動物の場合は同列で比較できないが(人間の場合は法的・道義的に問題があるのに対して、犬の場合は本能に従ってるだけだから)、それでもペンギンや子ヤギのことは完全に無視して、犬のことしか見えていない人の盲目ぶりもどうかと思う。

 でも、これって実は、欧米の反捕鯨国に見られる「クジラのような賢い動物を食べるなんて、日本人はおかしい」というのと似たり寄ったりなのだ。自分たちが愛着を覚える特定の動物だけを特別視するという意味では、どちらも共通しているってこと。日本人にとってクジラは、もともと「食べる動物」だから、欧米人のような愛着がない。だから、そんな反捕鯨国の強硬な態度に反発する意見の方が多いわけだが、でも、その一方で日本では、欧米人がクジラだけを特別視しているのと同じように犬を特別視している人が多い(犬は欧米人も特別視してるけどね)。欧米人の動物観もバランスを欠いているが、日本人のそれも似たようなレベルだってことがよくわかる。欧米の環境保護団体のヒステリックな反応に呆れている人も多いと思うけど、犬猫に対してだけはなぜか異常な突出した反応をする一部の日本人も同じようなもんだよ。
 自分が飼っている犬に愛着を覚えるのは当然かもしれない。だが、愛犬に対する思いをすべての犬に重ね合わせて、ほかの動物との関係を判断するのは明らかに間違っている。それをしていたら矛盾だらけになって、解決できる問題も解決できなくなってしまう。ノラネコが希少動物を食べるので、ネコを捕獲しようとすると「殺さないで」と動物愛護団体が声を上げるが、そのまま何も対策をしなければ、ネコは希少動物を「殺し」続けるのである。ネコを処分することがいいことだとは思わない。だが、世の中すべて円満解決なんてあり得ない。捕獲したネコを行政が終身飼育できるわけもなく、かといってそのままにしていたら希少動物が絶滅する。動物愛護団体なんてのは、大抵が表面的・感情的にしか物事を判断できない連中ばかりで大いに困ったものなのだが、「殺さないで」というのなら自分たちが資金を集めてネコを飼育できる施設を作って、そこで受け入れるしかない。希少動物のことはほったらかしにして、ネコだけにはなぜか愛護心を発揮。対案も出さなきゃ金も出さない、でも口だけは出すってのが、彼らの実態。これも特定の動物だけを特別視する典型的な例だが、延々とそんなことしていても何の解決にもならないんだよ。

 ところで『南極物語』では、肝心の部分が脚色されていることをご存じだろうか。1年ぶりに再会した南極隊員と残された2匹の犬。映画では、タロとジロが隊員に駆け寄り、隊員は2匹をしっかりと抱きしめる…。まさに感動のクライマックスってわけだが、現実はそうではなかったのだ。隊員が2匹を見つけて近寄ろうとすると、タロとジロは警戒して後ずさりしたという。飼い主をすでに忘れていたのか、、それとも自分たちを見捨てたことで不信感をもっていたのか、それは犬に聞かないとわからないが、これが現実だったのだ。でも、映画を見た人、中でも愛犬家は、そんな現実なんか知りもせずに、原作者と映画会社が脚色したシーンを見て「犬って、やっぱり飼い主との絆を大事にするすばらしい動物なんだ〜」と大いに感動して、涙を流したのだろう。なんともおめでたい人たちである。まあ、満足されたんなら、それでいいんじゃないのって思うけどさ。





田母神・前航空幕僚長の論文と日本近代史について/2008年11月7日

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田母神・前航空幕僚長が民間の懸賞公募に書いた論文の一件。私はネット上で公開されている、この論文を読んでみたが、話のスジは通っており、それほど違和感は感じなかった。ただ、もし私が「日本は侵略国家であったのか」と問われれば、「そのように受け取られても仕方ない部分もあった」と答えるだろう。少なくとも大戦中の日本の行為すべてが悪であったかのような意見にはまったく賛同しない。
 論文の中で、田母神氏はこういっている。「もし日本が侵略国家であったというのなら、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない」。これはおっしゃる通りだと思う。私も以前から中国や東南アジアに進出したのは日本だけでなく、オランダやフランスなどの欧米の列強各国も同様であったはずなのに、なぜ日本だけが叩かれるのか理解できなかった。
 確かに今回の一件は、文民統制という観点からは微妙な点もあったかもしれないが、マスコミの批判を聞いていると、「大戦中の日本の侵略を正当化している」という論文の概要だけで、まるでアレルギー反応のごとく短絡的に批判するばかりで、それ以外に問題視しているのは防衛省が定年退職とした経緯についてのみであり、どの新聞もテレビも論文の内容について詳しく検証はしていない。結論だけ批判するのは簡単だが、批判するのであれば、引用している個別の内容についても具体的に取り上げ、その何がどう間違いなのかも含めて批判すべきではないのか。その批判をしていないということは、実はその部分にも真実があるからではないのか。それが真実であるということはわかっていても、それを公言すると、今、一斉に批判されている田母神氏を擁護しているようにも聞こえ、しかもあの3ヶ国からの批判もありそうで、いろいろやっかいだからとか、そういう理由であまり触れたがらないだけではないのか、とさえ思ってしまう。
 
 この機会に、私が日本近代史に対して感じていることを書いてみようと思う。こういうことを書くと、一律で「右寄り」という烙印を押す薄っぺらで単細胞な方もたくさんいらっしゃると思うが、それでも敢えて書いてみたい。


・日本が太平洋戦争を始めたこと
 私は大部分の日本人の太平洋戦争に関する認識というのは、真珠湾攻撃から始まっていると感じている。それ以前にどういう経緯があったかについては、思考停止している人がほとんどである。だから日本がハワイの真珠湾を奇襲攻撃して、あの悲惨な太平洋戦争が始まり、ドイツと共に世界中に迷惑をかけて申し訳ないという具合である。そこには、なぜ日本が戦争に踏み切らざるを得なかったのか、という視点は皆無だ。
 太平洋戦争以前にどういう経緯があったのか、もう一度、日本史の教科書を開いてみよう。その経緯の中で日本がとった政策すべてに問題がなかったとはいわないが、要は資源などを求めて東南アジアなどに進出していた欧米列強が、日本も同じように進出してきて権益を拡大するのをおもしろくない、と考えたことが、そもそもの発端である。なぜ欧米列強はよくて日本はダメだったのか。簡単なことである。日本人は、自分たちよりも下に見ていた黄色人種だったからである(もちろん教科書には、そんなこと書いていないが)。
 こうした欧米列強の思惑が、のちに日米通商条約の破棄、さらにはABCD包囲陣につながり、資源を海外に頼っていた日本はジリ貧になっていく。アメリカ政府は、経済制裁により日本の対外進出を抑えようとしたというが、資源がないから進出しているのに、経済制裁とは話の辻褄が合わない。
 当時の日本では軍部が台頭し、その力が強かったことを考えると、アメリカのいわれるがままに対外進出をやめると思う方がどうかしている。私は、むしろ日本が対外進出をやめないことを想定した上で、アメリカは故意に経済制裁に踏み切ったのだろうと考えている。日本が到底受け入れるはずもないハル・ノートにしてもそうである。つまり日本の方から先に拳を上げるような状況を作り出したということだ。このことは、田母神氏の論文にも同様の指摘がある。
 たとえとしては適当ではないかもしれないが、敢えていえば、さんざん悪口をいわれ貶され、いよいよ我慢の限界に達して拳を振り下ろしたら、「おまえの方が先に暴力をふるったのだ。オレじゃないぞ」と騒ぎ立てるようなものである。先に戦争を始めた方が悪い。確かにそうかもしれない。だが、その原因を作ったのは誰なのか。そういう視点もなく、日本が先に戦争を始めたからと一方的に反省するのもどうかと思う。いや戦争の反省はしなければならない。戦争は絶対にしてはならない。だが日本だけではなく、欧米各国も反省しなければならない。日本を含めアジア各国を差別し、戦争の原因を作り出したことを。

・真珠湾攻撃と原爆投下
 日本人が原爆投下のことを持ち出すと、アメリカ人は決まって「パールハーバーを忘れるな」という。だが、真珠湾攻撃の仕返しに原爆投下とは随分滅茶苦茶な話である。真珠湾攻撃によるアメリカ軍の死者数は約2340人、民間人は約50人ほどである。一方、広島・長崎の死者数は、未だに正確な数字は不明なほどで、20万人を越えるのは確実と見られている。しかもその被害のほとんどは、非戦闘員である一般市民である。アメリカは自分たちが攻撃されたら、その100倍の仕返しを、しかも戦闘員ではなく一般市民に対して行うのが正しいことだと思っているらしい。
 原爆投下を正当化する意見がアメリカ人の中には根強くあるが、それに対して私は問いたい。本当に原爆投下がアメリカ軍の兵士や日本の大多数の一般市民の戦死者をこれ以上出さないためであったのなら、なぜ投下する前に日本に対して大量殺戮兵器である原爆を使用する準備があることを通告し、ポツダム宣言を受け入れるように勧告しなかったのか。その上で、もし日本が勧告を無視したら、まず一発目を落とすという手順を踏むべきだろう。それなら、まだ理屈が通るが、実際はそうではなかった。しかも1発目のわずか3日後には2発目を落としたことを考えれば、戦死者をこれ以上出さないためという主張も実に空虚にしか聞こえない。原爆投下を正当化するのなら、この質問に答えていただきたい。
 アメリカは要は原爆を使いたかったのだ。その威力を全世界に見せつけることで、アメリカの国際的な立場をより強固なものにしたかったのだ。日本の20万人もの一般市民の命など、アメリカの国益を前にすれば、吹けば飛ぶようなものだったのだろう。

・南京事件
 南京事件と呼ばれるものは、実際にあったと思う。ただ、それは中国政府が大宣伝を繰り返している30万人もの一般市民に対して行われた「南京大虐殺」のようなものではなく、2〜3万人の捕虜に対して行われたものだということだ。当時の作戦に参加していた別々の部隊に所属する複数の兵士の日記に、ほぼ同様の記録が残されていることから、私はこれが真実であろうと推測する。一般市民が殺害された例もあったかもしれないが、それは一部だったのではないか。なぜなら中国政府の主張は、被害者数が年を追うごとに不自然に増加していることや、研究者の検証によりその証拠とされる写真が合成や修正が加えられたものばかりであることが確認されており、著しく信頼性に欠けるからである。このことは、最近の毒餃子事件における中国側のデタラメな対応を考えれば、充分にあり得る話である。
 南京事件の存在自体を否定する人もいて、例えば当時の南京在住者が、そのような殺戮を目撃したことも聞いたこともないと証言していることを根拠に挙げているが、それはおそらく当たらない。なぜなら大量の捕虜の処置に困った日本軍が人目につかない郊外の川原に連れ出して、機関銃などで殺害し、遺体を川に流すなどして処理してしまったからである。
 確かにいくら一般市民でなく捕虜であったとしても随分残酷な話であるし、国際法上重大な問題があるのはいうまでもない。もし、私が日本軍の指揮官なら法律云々以前に人間としてできなかっただろう。不幸なのは、あまりに中国軍の捕虜が多く、しかも敵地で収容施設もない。仮に収容施設があったとしても、食事などのことを考えると、数十人や数百人規模ならなんとかなっても、数万人規模になると対応は極めて困難だ。当然、対応できないからと解放するわけにもいかない。しかも処遇に対する不満が捕虜の間に広がり始めた、という状況下であれば、やむを得なかった面もあるのではないか。ひどいように聞こえるかも知れないが、相手をやるか、自分がやられるかという究極の選択しかない戦場にあっては、これしか方法がなかったのだろう。数万もの捕虜の暴動が起きれば、ヘタをすれば戦局が変わる可能性だってある。中国軍の捕虜にも同情するが、そうせざるを得ない状況に追い込まれた日本軍にも同情する。
 従って南京事件について日本軍の残虐性をことさら強調するのは、間違いである。おそらく日本軍の中にも悪人がいて、一般市民を殺害したり、女性をレイプした例もあっただろう。だが、それは全世界、戦場に巻き込まれたあらゆる地域で繰り返されてきたことである。南京における日本軍の、こうした悪行ばかり責め立てる人がいるが(しかも日本人でありながら)、そういう人は終戦前後、ソ満国境を越えて進軍してきたソ連軍が、満州の日本人開拓団の村々で何をしたのか、同じように取り上げて批判すべきである。ソ連兵は、抵抗する男性を殺害し、若い女性を探し出して暴行した。そんな女性の中には、ソ連兵の子供を身ごもり、井戸に身を投げて自殺した人もいたという。こういう事実には、なぜか目をつむり、南京事件ばかりを取り上げるというのは、正義のためというよりも別の意図があるものと、見なさざるを得ない。日本人はひどいことをしたかもしれないが、一方で日本人はひどいこともされているのである。どうして前者のことばかり取り上げて、後者のことには一切触れないのか、甚だ疑問である。

・日本はアジア各国で本当にひどいことばかりしたのか
 何かある度に中国や韓国はこういって日本を批判する。そういわれると何もいえなくなって、ひたすら頭を下げる日本人。だが、果たしてそうだろうか。確かに前項でも触れたように、現地の人にひどいことをした日本兵もいただろう。だが、それをもって、日本はひどいことばかりしたというのは論理的ではない。それをいうなら今日、中国の犯罪組織が、日本国内で悪行の数々をしているからといって、日本にいる中国人すべてが悪いことをしているというようなものである。
 日本はアジア諸国で散々ひどいことをしたというが、特に批判しているのは、例の3ヶ国だけである。そんなことをいうと、「インドネシアでも台湾でも日本が嫌いという人はいますよ」と反論する人が決まっているわけだが、これほどアホ丸出しの反論はない。どこの国でも特定の国について聞くと全員が好き、あるいは全員が嫌い、などということがあるはずがない。重要なのは、国民の大多数がどう感じているか、ということだろう。例外があるのは当たり前だ。
 例えば台湾は、日本に統治されていたにもかかわらず中国や韓国と比較して断然親日的だが、それはなぜなのか。本当に日本がアジア諸国でひどいことをしたというのなら、台湾が親日的なのはあり得ないはずではないのか。
 コメンテーターとして、しばしばテレビにも登場される台湾出身の金美齢氏が、ある本の中でインタビュアーに対して次のように述べられている。
「台湾では、戦後、日本時代を懐かしんで、『リップンチェンシン(日本精神)』という言葉が使われるようになりました。それは、旧日本軍などが使っていた国粋主義的な意味合いではなく、清潔、公平、誠実、信頼、責任感といった人間が生きていく上で守るべく倫理、美徳といったものを総称した言葉なんですね。今は、日本との関わりを離れて、例えば、台湾人を指して『あの人はリップンチェンシンで商売をしている』という風に使います。反対語として、インチキはするわ、お金が万能だわ、汚職は大変だし…というやり方を『中国式』といいます。どちらも台湾人が作った言葉です」
 金氏は、小学校6年生まで日本の統治時代を経験し、この文の最初の方では「日本の教育を受け、心情としても日本人だった」とも述べられている。もし日本の統治が悪であったのなら、こういう発言は生まれてこないはずだし、そもそも現在、日本での居住を選択されることもなかったはずではないのか。
 田母神氏の論文にも、日本は京城や台北にも帝国大学を設立し、陸軍士官学校にも朝鮮人や中国人の入学を認めたとある。もし日本が侵略者としてアジア諸国に進出したのであれば、現地に帝国大学を作る必要もなければ、相手国の人を陸軍士官学校に入学させるはずもない。むしろ搾取に終始したはずである。私も帝国大学のことは以前から同じことを感じていた。だが、ほかにもある。南満州鉄道を走っていた機関車のアジア号は、国内の機関車よりも性能がよく高速だったという。これも日本が搾取だけ考えていたのであれば、侵略国の鉄道のために多額の開発製造資金を投じるようなことはせず、国内の中古機関車を持ち込む程度で済ますはずではないのか。
 中国は度々、大戦中の日本の行いばかり批判するが、輸入超過の事態を改善するという目的のためにアヘンを大量に持ち込み、あれほどアヘン中毒患者を生んだ原因を作ったイギリスには、何も感じないらしい。つまり同じ黄色人種の日本人に何かされるのはおもしろくないが、欧米人から何かされても仕方ないということらしい。確かに清の時代のことだから昔の話だが、アヘン戦争というのは、イギリスのどこが紳士の国なんだといいたくなるような話だろう。


 こういう話をすると、いまさら60年も前のことを蒸し返して、中国や韓国から批判されるくらいなら、仮にそうだったとしても黙ってればいいと考える人も多いだろう。だが、そうだろうか。もし自分が誠心誠意がんばっていたことを、全否定され、お前のやったことはすべて悪だ、といわれたら、そうですかって簡単に引き下がるだろうか。私なら言葉にできないほど悔しく感じると思う。当時の日本人の中には、それぞれの国でいい仕事をしようとかんばった人もたくさんいたはずだ。そういう人の思いをすべて無視するかのように目の前のめんどうな問題を優先して真実の方に蓋をする。そもそも中国や韓国なんて国は、1のことを10にして主張するような国である。一方、日本は10のことも1しかいわない。この現状でバランスが取れていると考える日本人もどうかしている。私はこういう点を見ても、日本人は論理に弱いと感じるのだ。論理に弱いから、真実に対する執着もあまりないのだろう。さらにいえば、特にマスコミ関係者によく見られるのが、自分の国に都合の悪いことでも積極的に発言することが、あたかも自分が公平であることの証明になっていると考えているアホが結構いるってことだ。だが、公平といえるのは、それが事実であればの話だ。事実でないのなら、これほど愚かなことはない。

 あと従軍慰安婦についても書こうと思ったが、さすがに長くなりすぎたので、これで終了にしたい。この件については、いつか機会があれば触れたいと思う。





イージス艦と清徳丸の衝突事故で見えてくるもの/2008年3月10日

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自民党の大前議員が「交通事故のようなもの。他の漁船が(イージス艦を)かわしているのに、あの船だけかわしていない。重大な過失があの船にあるが、そのことについて一言も触れられていない」と述べたことが、ネット上では話題になり、賛否両論さまざまな意見が飛び交っている。圧倒的に反論の方が多いのだが、私も大前議員とまったく同じことを考えていた。重大な過失があるかどうかはともかく、この意見はおおむね正論だと思う。
 反対意見を読むと「何を考えてしゃべっているのか?相手は行方不明なんですよ」「相手は亡くなってるのに、その発言はどうかと思う」「公の場で言う事ではない」などがあるが、要は感情論。少し冷静に考えてみたい。もし相手の船がイージス艦ではなく、ほかの船だったら、みなさんはどう感じるだろうか。

1もし相手も同じ漁船だったら
2もし相手が外国の被災地に送る支援物資を積んだ貨物船だったら
3もし相手がアメリカ軍の軍艦だったら
4もし相手が北朝鮮の貨物船だったら

 複雑な要因が重なって発生する事故を単純にほかの船に置き換えて比較できない面もあるが、相手の船が違うだけでまったく同じ条件で事故が発生し、同じような結果になったと想定する時、それで事故に対する印象が変わるとしたら、あなたは感情だけで物事を判断していると断言できる。1や2であれば、なんとなく「不幸な偶発事故」のように思え、それが3や4になると反発も手伝って「善良な漁民が犠牲になった許し難い事故」に変わってしまうのは、やはり問題がある。これでは真実を見極めることを放棄しているのに等しい。相手がどういう立場の船かというのは、どちらにどの程度の割合で事故責任があるか、という話とは一切関係しないのだ。

 船舶の航行には、車とは異なる国際的な規則もあるようで、今回の事故の場合は、回避義務があるのはイージス艦の方だったのは間違いないようだ。だが、危険に直面した時も規則を守ることを第一に考える人はあまりいない。車でも、例えば一時停止がある交差点にスピードを出した車が突っ込んでくるのが見えた時、それと交差する自分の車が走っている道路が優先道路だからといって、そのまま交差点に進入する人はいないだろう。理不尽に感じながらも、停止して相手の車をやり過ごし事故を回避する。たとえ信号があって自分の方が青だったとしても、やはり危険を感じれば停止するのが普通だ。今回の事故も同じことがいえる。確かにイージス艦が充分に注意し、早めに回避していれば事故は起こらなかったのは間違いない。だが、清徳丸の方もイージス艦が接近しているのはわかっていたはずだ。その証拠に清徳丸と一緒に航行していたなかまの漁船は、危険を感じて回避している。だが、清徳丸はなぜか回避しなかった(もしくは回避が遅れた)。清徳丸の方に主な事故原因があるといっているわけではない。衝突事故は、一方が100パーセント悪くて、一方は何の問題もない、ということはむしろ少ない。つまり清徳丸の方にも多少なりとも問題があったということだ。結果的に漁師の親子が行方不明になられたのはお気の毒ではあるし、漁師のその人となりがテレビで紹介されると、みんな同情する。その気持ちもよくわかるが、その漁師がどんなにいい人であろうと、逆に極悪人であろうと、あるいは行方不明になろうと、ケガだけで済んでいたとしても責任の一端があることは揺るがない。

 今回のイージス艦と漁船の事故だけでなく、沖縄の少女暴行事件などに対する世論の反応を見ていると、私はそこに共通するものを感じる。簡単にいえば「感情的二分法」とでもいおうか。
 本来、世論というのは感情的に判断すべきではない話を感情だけで、あるいは感情に大きく影響されて判断する傾向がある上に、本サイトでも何度かふれてきたデジタル的思考法、つまり物事の判断を二択や三択という単純な選択肢に分けて、そのどれに当てはまるかという判断しかしない傾向が顕著なのだ。世間一般の多くの人は、頭の中に「正しい」と「間違い」、あるいは「問題がある」と「問題がない」というように、2、3の受け皿しか用意しない。彼らは物事について判断するとき、どの皿に入れるのが適当か、ということしか考えない。例えば沖縄の事件では、被害少女は「問題はない」という皿に入れる。だから自分とは違う反論を聞いたとき、少女を「問題がある」皿に入れるように受け取り、「少女の方にも問題がある」という反対意見は、いつの間にか「少女の方に問題がある」にとり違えていたりする。これは頭の中に単純な二分法しか存在しない証拠だ。
 価値観、着眼点、知識の有無など、みんな違うのだから、異なる意見が出てくるのは当然なのだが、意見がくい違う理由のひとつに、一方がこうしたデジタル思考法しかできない人ということも実は多いのである。意見が異なる人を説得する時、これに当てはまらないか見極め、もしそうであれば、その思考法の矛盾をついていくと、案外、相手は簡単に折れるかもしれない。
 
 私は、今回の事故の詳細を聞けば聞くほど、清徳丸がなぜ直前まで回避しなかったのか、という点にまったく触れず「あたご」の方ばかり責め立てるマスコミにも違和感を感じていた。だから大前議員の発言を聞き、「やはり、同じことを考えていた人はいたのか」と少し安心した。むしろその発言に対して、ピントのずれた感情的な反論の方が多いことに日本の行く末を案じる。




スピリチュアルブームに思うこと/2008年2月11日


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 最近、テレビ番組の影響からスピリチュアルブームといわれ、ネットや新聞を見ると、いろいろな意見が取り上げられている。「霊感商法を助長させる」という否定意見がある一方で、視聴者の中には完全に信じ切っている人も多いそうだ。私は江原啓之氏の番組は、暇つぶしに見たことがある程度で、どう思うかと聞かれれば「何ともいえない」くらいのことしかいえないが、この手のテレビ番組を安易に全国放送で流すのはどうかと思う。占いにしろ宗教にしろ、ある程度の距離を保つ方がいいし、それだけに頼るようになれば自分で考えるのを放棄したのと同じことだ。それはそれで怖いことである。残念ながら世の中には、批判精神に劣る人は多い。ある意見を聞いたとき、本当にそういえるのか、よく考えないで、安易に受け入れてしまう。特に自分にとって都合がいい意見の場合には、その傾向はさらに高くなる。そんな現状を考えれば、社会への影響が大きいスピリチュアル系のテレビ番組は慎重であるのが望ましい。

 ただ、その一方で私はこうも思う。例えば科学の分野で、研究者が提唱したある仮説が真実か否か、という判断をする時、実験をしてデータを集めるなど、極めて厳密な過程を踏んでいく。もし反証が出れば仮説は間違っていたことになるし、仮説に沿うデータが次々に集まれば、仮説は次第に定説とされるようになる。このように真実か否かという判断をするには、厳密な検証が必要なはずで、それは、この手の話でも同様でなければならない。「あれはニセモノに決まっている」という人も多いと思うが、彼らはきちんと検証した上で発言しているわけではない。もちろん検証云々の前にいろいろな印象を持つのは人間として自然なことだし、それを口にするのも自由なわけだが、あくまでそれは「印象」に過ぎないということだ。私がその意見を聞いても、そういう印象を持つ人がいるのがわかるという程度の話であって、それを聞いたからといってそのまま受け入れることは絶対にない。なぜなら、そこには根拠が欠落しているからである。否定するのであれば、先に説明したような仮説と同じように厳密な検証を行った上で、きちんとした根拠を提示すべきである。
 「霊感商法を助長させる」という意見は、これまでも散々聞かれ、そういう観点から霊魂について語ることもけしからん、という科学者もたくさんいらっしゃる。霊感商法は言語道断だし、同時にそれに簡単にひっかかってしまう人にも問題があると思うが、だが霊感商法が言語道断ということと、霊魂が存在するか否かというのは何の関係もない。それをいうのなら弁護士を語って詐欺をする連中がいるから弁護士はけしからん、というのと同じ論法である。こんなことをいうと早とちりがお得意の人からは、私が霊魂の存在を信じていると思われるかもしれないが、そうではない。正確には「何ともいえない」というのが私の考えである。ただ自分自身の経験から、やや存在するという方に傾いているくらいである。

 また霊魂やUFOを否定するのが科学的だと考えている人もよくいるが、それは科学と論理を実はよくわかっていない証拠である。科学者はみんな霊魂やUFOの存在を即座に否定すると思っているだろうが、本当に科学と論理を厳密に考え、現象に対して謙虚な姿勢を貫く人は、「何ともいえない」としかいわないものだ。脳科学者の茂木健一郎氏も以前テレビで「UFOは科学的にはあるともないともいえない」とおっしゃっていたが、さすがノーベル賞候補者。科学者だから論理的なのは当然だが、考え方が柔軟である。おそらく脳科学者だけあって「時には知識が論理を邪魔することがある」のをよく理解されているのだろう。
 今回、江原氏がカウンセリングした女性が、実はカウンセリングを希望していなかったことを見抜けなかったというのでマスコミに叩かれているらしい。「江原氏に超能力があるというのなら、どうしてそれがわからなかったのか」という作家の意見もあった。江原氏の肩をもつ気はさらさらないが、この意見は少しおかしい。「超能力者なのだから100パーセントの確率で相手の心を読み取れるはず」というのは、この人の勝手な解釈である。その解釈を前提として反例が出たではないか、100パーセントではないのだから江原氏はいかがわしいと断じるのはちょっと論理が稚拙だ。もし江原氏自らそういっていたのであれば、確かにウソと断じてもいいのだが、しかし頭のいい人なら「100パーセント当ててみせます」なんて、わざわざ自分のリスクを高めるようなことを公言しないと思うんだけどね。
 ひとつおもしろい例を出そう。あくまで仮定の話だが、次の2点を読んで、みなさんはどう思うだろうか。


[例1]
ある占い師が占った1000例の結果を、後日、専門家がきちんと科学的に検証した結果、なんと8割の確率で的中していた。的中率8割とは、偶然の確率よりも高く、この占い師の実力が証明された。


[例2]
ある占い師に見てもらったところ「亡くなったお父さんが、あなたを見守っています」といわれた。しかし父親はまだ生きている。この占い師はニセモノだ。


 このふたつの例が、もし同じ占い師だったとしても、まったく矛盾はしない。例2は、例1で占いが外れた残り2割の中のひとつだった可能性もあるからだ。
 私はスピリチュアルブームを肯定するつもりはないし、ことさら擁護するつもりもない。ただ科学上の仮説だろうと、霊魂の存在だろうと、それが真実か否かという判断をする時は、このくらいの厳密さで判断すべきということなのだ。だが、現実には世の中の多くの人は、結構粗雑な論理をもとに、あるいは自分の印象だけで断じている。実は「霊魂は絶対に存在する」という人も「霊魂は絶対に存在しない」という人も、根拠がなければ同じようなものだ。むしろ実際に霊をはっきり見た人なら「絶対に存在する」というわけで、根拠もなく印象だけで「絶対にない」と断じる人よりも、よほど論理的といえる。
 ちなみに大学で自然科学系分野を教えている私の友人は、外国のホテルに宿泊した際、幽霊に遭遇したと証言している。私は科学のプロである彼の証言には多少なりとも説得力があると思っている。





久間発言と原爆投下
/2007年9月14日

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「原爆投下はしょうがない」と発言した久間章生・元防衛相。今日の新聞には、その発言を久間さんが撤回しなかったということが小さく載っていた。私は広島出身で、原爆は実に許せない行為だと考えているが、この件に関していえばマスコミや世間が騒ぎすぎているという気がしている。発言の中から「原爆投下はしょうがない」という部分だけを切り取れば、確かに随分ひどい発言に聞こえるが、全体の発言を聞くと要は「原爆を落とされて、もうお手上げ。どうしようもなくなって戦争が終わったんだと認識した」というのが主旨だったのではないか。本心から原爆を容認しているとは私には思えない。もちろん一般市民の発言ではなく、現役閣僚という立場なのだから誤解を招かないように発言には十分に注意すべきだし、この発言が不適切といわれても仕方ないとは思うが、久間さんがそういう意味でいったのではないと釈明しても、「いや、なんと言い訳しようともけしからん」「これが被爆国・日本の大臣のいうことか」という具合に、まるで火が広がるように反応していくのもどうかと思うね。「長崎選出の代議士なのに何たる発言か」ではなく「長崎の代議士だからこそ、原爆の非人道性は十分に理解されていた」と私は思う。そういう意味で使ったわけではなかったが、そういう意味にもとれる言葉をうっかり使ってしまったということだろう。もちろん大臣の発言だけにアメリカに間違ったメッセージを送りかねないし、被爆者がこの発言を不快に感じるのも当然だと思うが、久間さんが「原爆投下は断じて許せないと思っている」とあとで語っても、「もうダメ。一切聞く耳もたない。何と釈明しようとも、あなたは絶対に本心では原爆投下を容認しているのだ」と決めつけて、さらにそこから「間違った歴史認識」などという意見に飛躍したりすると、正直「何だかな〜」って思う。批判されたあとも「私は原爆投下はやむを得なかったと考えている」といい続けているのなら、それに対して「間違った歴史認識」と批判してもいいのだが、そうではないだろう。しかも、こういう批判に対して、自分も原爆を容認していると思われたくない立場の人が、無難な「批判側」にまわって、おかしな論理におかしいと冷静に反論もしない構図が続くわけだ。
 ところで、この久間発言と対照的だったのが、アメリカのジョセフ核軍縮担当特使の「原爆使用が何百万人もの日本人の命を救った」という発言に対してのマスコミや世間の反応。この発言は久間さんの発言どころではない。つまり「原爆の使用は日本人にとってもよかったのだ」といっているに等しい。この発言に対しては日本でも反発が広がったが、久間発言のときに比べて、随分マスコミはおとなしいなと感じたのは私だけだろうか。自国の大臣の失言にはよってたかって責め立てるが、もっとすごいメチャクチャな論理、しかも失言というわけでもないアメリカ高官の確信犯的な発言になると、なぜか萎縮するのか、言っても無駄と思っているのか、それとも日本の大臣の失言に比べて視聴者や読者が食いつかないから大きく取り上げないというのが本音なのか、妙に冷静であっさりとした扱いだった。もし、これが中国や韓国だったら、トップニュースで大々的に報じられていたんじゃないか。それにしても日本人ってホントに自虐的で、外国に対してモノをいえない国民だよなぁ。
 アメリカには、ジョセフ特使の発言のような「原爆神話」が根強く残っている。つまり原爆の使用が日本の降伏を早めて米兵100万人の命を救った、などという言い訳だ。だが、それは歴史学者からも根拠がない説とされている。当時アメリカはすでに日本が戦争終結のためにソ連に仲介を依頼していたことを知っていただろうし、現に「原爆投下やソ連参戦がなくても1945年末までには日本は降伏しただろう」と、そのアメリカ自身も分析していたという。アメリカは自国兵士や日本の一般市民を助けるために、やむを得ず原爆を投下したのではない。国力を増してきたソ連を牽制するために戦略上、原爆の威力を見せつける必要があったのだ。本当にアメリカが正義の国で、戦争終結のために原爆を使用したというのであれば、まず大量破壊兵器を使用する準備があると日本に降伏を促し、それでも日本が戦争を続けるのであれば、まず1個目の原爆を使用するという手順を踏むべきだろう。だが、現実はそうではない。わずか3日間のうちにいきなり2個を、しかも非戦闘員がたくさん居住する都市に落としたのだ。この実態を見るだけでも、アメリカの「原爆神話」に無理があることははっきりしている。日本の一般市民を大量殺戮しておきながら、日本人の命を救ってやったとは、極めて身勝手な解釈としかいえない。こんな発言に対して当たり障りのない反論しかしない政治家も情けないが(アメリカの核に守られている現状では、正面切って反論しにくいのもわかるが)、自国の大臣には強気に出るマスコミが、なぜかおとなしいのも私は気に入らない。久間さんを批判したマスコミは、それよりも何倍も強い論調でジョセフ特使を批判すべきではないのか。






タミフル10代への処方中止について/2007年3月21日

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 服用後の異常行動が相次いだため、インフルエンザの特効薬・タミフルの10代への処方が中止されることになったという。今日のテレビのニュースで、その記者会見を見た。もっと早く対策すべきだったのでは、と記者が追及していたが、早く対策するのがいいのか悪いのか微妙だ。確かに10代の子供たちの命に関わることだから因果関係の証明を待つよりも生命の安全を優先させるべきなのは当然といえるが、この問題に関してはそう簡単ではないと私は思う。つまりタミフルの処方を中止にすることによる重大なマイナス面があるのも事実だからだ。
 因果関係が証明されていない以上、タミフル服用による危険な副作用がないとは現段階ではいえないが、一方でタミフルはインフルエンザ脳症などの危険から命を救う能力があるのも事実であって、要は処方を中止した時と中止しなかった時のそれぞれのプラス面・マイナス面との兼ね合いによって結果は変わることだから、どちらがベストなのか簡単にはいえない。厚労省としては、処方を中止することで「タミフル=危険」という風評が広がるのを最も恐れたはずだ。そのような認識が世間に広がると、インフルエンザ流行を助長させ兼ねないし、やはり処方中止に慎重にならざるを得ないのはやむを得ないと思う。タミフル以外にもインフルエンザの薬はあるようだが、インフルエンザが流行している時期だけに、急激に需要バランスが崩れるのも問題だろう。
 こういう問題に関しては、感情的になって「もっと早く対策するべき」などとはいわない方がいいと思う。つまり、タミフル処方を中止しても中止しなくても、どちらも命に関わることだからだ。冷静になって専門家の判断に任せるほかない。





直木賞作家の「子猫殺し」/2006年8月28日

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 飼い猫が子猫を生むと野良猫対策として崖に放り投げて殺していると日経新聞にエッセーを書いた直木賞作家の「子猫殺し」が波紋を広げているという。朝日新聞の記事を読んだだけだが、世の中にはおかしな人がいるな、というのが私の正直な感想だ。その作家は避妊手術をするのも生まれてすぐの子猫を殺すのも同じことだと主張し、また人は他の生き物に対して避妊手術を行う権利などなく、生まれた子を殺す権利もないが、飼い猫の「生」の充実を選び社会に対する責任として子猫殺しを選択したという。う〜ん、何だか理屈が通っているようで通っていないぞ。
 避妊手術と、生まれてすぐの子猫を殺すのは同じではない。生まれてすぐの人間の子供を殺すのも、避妊するのと同じというのだろうか。受精卵ができないようにするのと生まれてきた子を殺すのはまったく意味が違う。
 それに他の生き物に対して避妊手術を行う権利も生まれた子を殺す権利もないのに、なぜ飼う権利だけはあると考えるのだろうか。猫を飼わなければ社会に対する責任を考慮する必要もなく、人間には権利がないという「他の生き物の生まれた子を殺す」必要もないではないか。それなのになぜ自分は猫を飼うことを放棄しないのだろうか。それは自分が猫を飼うことよりも子猫の命の方を軽視している証拠だろう。
 そもそも人間と他の生き物の関係は矛盾だらけで、容易に答えが出せない問題はゴマンとある。人間の拉致は非人道的というが、川で釣った魚を持ち帰って飼うのはなぜ許されるのか。魚にだって本来の生まれ育った環境で生きる権利があるとはいえないのか。あるいは牛や豚を殺して食べる権利が人間にあるのか。人間は牛や豚を食べなければ生きていけないわけでもないのに。こういうことを考えたことがあるのかね。いかにも何か考えているようで、実は隙間だらけの自己中心的な動物観。私にはそのようにしか思えない。最近は妙な動物観を持った人はいっぱいいるから珍しくもないけどね。
 また子猫が生まれたら、それがどうして野良猫へと飛躍するのだろうか。自分が飼えないのなら誰かにもらってもらうとか、そういう選択はできなかったのだろうか。こういう物事の判断が極端な人というのはよくいる。Aという選択が不可能となれば、その間にあるB〜Yという選択の可能性を考えもしないで、一気にZという選択をしてしまう人である。例えば人間にしろ動物にしろ、安易にすぐに殺害という選択へと飛躍したりする。この作家もそういうタイプとしか思えない。いかに文学的に評価されようとも、こんな作家が社会で認められていること自体、すごく違和感がある。そのエッセーをありがたがって載せて「作者の自主性を尊重している」とコメントする日経もどうかしている。




埼玉県ふじみ野市のプール事故について思う
/2006年8月11日

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 先日、埼玉県ふじみ野市で起こった市営プールの吸水口に小学生が吸い込まれて死亡した痛ましい事故は、何でこんな事故がまた起こるのかとやりきれない思いがする。私はプールを利用することはまったくないが、それでも過去に同じようなプールの吸水口に足を吸い込まれて死亡した子供の事故を覚えていたし、危ないものという認識があった。だから当然、その後全国のプールできちんとした改善策がとられていると思っていた。ところが今回の事故である。プールに素人の私ですら、プールの危険性を知っていたのに、その後に全国で発覚した問題のあるプールのなんと多いことか。
 もし私がプールの管理責任者であれば、もっと以前の段階に発生した同様の事故をニュースで聞いたとき、「ウチは大丈夫だろうか」と不安になり、すぐに点検する。だが、これほど問題あるプールが見つかったということは、そこの管理責任者は、過去に何度も起こった同じような事故のニュースを見ても、それと自分のところのプールを結びつけられず、点検もしなかったということになる。あるいはそんな事故のことすら知らずプールの危険性も何ら認識していなかった可能性もある。何という危機意識の低さ。こんなことでは管理責任者として失格だ。
 さらにいえば文部科学省の対策もひどいものだ。平成11年にも同様の事故があったのに、その対策を通達したのは何とその2年後だという。そもそも官僚というのは何かの事故が起こっても人間としての感情なんか持てない人種。事故があり死亡者が出ても、「死亡○名」という数字しか見ていないのだ。だが、その数字の中には、ひとりの人間の人生があり、その死を悲しむ家族だっているのだ。それを思えば、同じような事故で二度と犠牲者を出さないように最大限の努力をし迅速な対応をするのが普通の人間の考えること。だが、彼らは勉強さえできればよしとされて育ってきたような人たちだから、そんな人間として普通の想像力すら働かず、対策がいつも後手後手にまわる。まったく当事者意識が欠落しているのだからどうしようもない。
 またプールの設計者、施工業者も随分お粗末だ。プールのプロであるならば、過去の事故について当然知っているべきだし、そのためにどうすればより危険性を低下させることができるか考えて対策するのが、プロだろう。それをあの程度の対策しかしていないプールを平気で作る。まったくどうかしている。
 テレビで見ているとどこのプールも吸水口や排水口をそのままプール側面や底部に配置し、その前に吸い込まれないための柵を固定する、という同様の造りだが、もし私がプールの設計者なら、以下のような構造のプールにする。こういう構造によって建設コストがどの程度加算されるのかは知らないが、素人の私ですら、この程度のしくみくらい思いつく。プロなら、コストもかからず、安全性もあり、なおかつ子供が吸水口に吸い付いてしまうこともない、もっと優れた構造にできるはずだ。これは技術的にそんなに難しい問題ではないと思う。要はより安全な構造にしたい、という設計思想があるかどうか、それだけのことだ。だが、そんな単純なことだけに余計に行政も含めてプール関係者のあまりの想像力、危機意識のなさにいいようのない怒りを覚える。次世代をになう子供たちを守ることもできないようであれば、もはや大人としての責任を何も果たしていないといわれても仕方ないではないか。

プラン1

側面から送水管に一気に吸い込まれる構造ではなく、このような送水管スペースを作って送水にもうひと段階を設ける。上部に空間があることで、吸い込む力も低減され、万一第1の柵が壊れて送水管スペースに吸い込まれても、第2の柵で送水管にまで吸い込まれることはないし、上部に空間があるので溺れ死ぬ可能性は限りなく小さいが、念のためつかまれる手すりも設置しておく。送水管スペース上部は金属製のすのこ状のフタで覆い固定する。コンクリートなどで完全に覆わない理由は、子供がこのスペースに吸い込まれ、もし誰も見ていなかったとしても声を上げればまわりに聞こえやすいようにするためだ。また送水管スペースの長さは、この図よりももっと長くして(例えば2メートルくらいに)第2の柵に到達する前に子供が自分で態勢を整えて送水管に吸引されにくいようにするのも一案だ。



■プラン2

そもそも危険なのは吸水口や排水口の単位面積あたりの吸水力が強すぎることだ。またプール底部に升状の排水口を作り、柵で覆う構造では柵が壊れた時の危険性が増大する。ならば吸水口や排水口の面積を増やして単位面積あたりの吸水力を低下させ、なおかつ吸水口全体を身体で覆ってしまって吸い付けられることもあり得ない構造にすればいい。例えばこうだ。プール底部に幅数センチ、長さはプールの幅とほぼ同じ超細長い排水口を設ける。もちろん穴には手足が入らないように丈夫な金属製の網で覆う。これならば吸い付けられることもないし、排水能力も低下しない。





早稲田大学教授による研究費の私的流用事件/2006年6月26日

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 早稲田大学理工学術院の女性教授による国の研究費私的流用事件は、一流大学の教授がここまでするか、と唖然とさせる事件である。この教授は文部科学省から同大学宛に振り込まれた遺伝子解析プロジェクト研究費の一部900万円を教授個人名義の投資信託口座で運用していたのだそうだ。しかも問題がニュースになったその日のうちに大学側は研究費の私的流用を記者会見で認めているのに、テレビ局の記者に追及されると「私的流用はございません」と平気で嘘をつく。そもそも公的なお金を個人的に流用する、そのモラルのなさにも驚く。最近はこの事件だけでなく大学教授による女子学生へのセクハラもたまにニュースになるし、そういえば早稲田大学では以前「手鏡」でさらに有名になっちゃった教授もいたな。「一流の肩書き」をお持ちなのであれば、それに見合ったモラルもお持ちになっていて然るべきと思うのだが、最近はそんな常識も通じない「一流の肩書き」の持ち主も増えてきたようだ。
 私は出版社に勤務した折、それこそ東京大学医学部、京都大学理学部などをはじめ、さまざまな国公私立大学や研究機関の先生方と接する機会が多かった。私が原稿などでお世話になった先生方は、確かにきちんとした人ばかりだった。むしろ今となっては世間知らずの20代のペーペーの編集者とよく対等につきあってくださったと申し訳なくなるほどだ。出版社をやめて現在の仕事をするようになったあとも、たまに大学の先生にお世話になることがあるが、そんな先生方も常識人ばかり。だから大学のすべてがモラルハザードというつもりはないのだが、常識が通用する先生ばかりではない、ということは残念ながら実際いえることだ。特にこのニュースのように呆れる話にも時々接する。
 これはその出版社での体験。某有名私立大学教授のゼミの学生さんから、ある時電話をもらった。「うちのゼミの○○教授が本を出したいとおっしゃっていまして、その原稿をお持ちしたいのですが」という。普通、この手の話は教授本人から直接話しがあることが多いのだが、ゼミの学生が電話してくるのも不思議に感じた。実現性は低く、あまり気乗りしなかったが、見るだけならと持参してもらうことになった。約束の日、電話をかけてきたゼミの学生が会社まで持ってきた。原稿には「ゼミの○○さんに託しますので、ご検討ください」という教授の手紙がついていた。教授としては、出版社に原稿を持ち込み編集者に会ったりするのも絶好の社会勉強とあくまで老婆心からの指示だったのかもしれないが、仮にその本が刊行になったとしてその印税は教授個人の収入になる。本には○○大学教授として載っても、それは教授のアルバイトみたいなものだ。そのアルバイトにゼミの学生をたとえ半日でも使うのはいかがなものか、と私は感じた。これが公私混同でなくて何だろうか。結局、企画は通らず丁重にお断りしたのだが、その学生さんに電話でお話しすると「まさか」という反応だった。有名大学教授なら出版社も喜んで本を出すとでも思っていたのだろうか。大学の名前だけで本の売れる売れないが決まるのなら、世の中の出版社はみんな東大や京大の先生に頼む。そんなに単純なことで決まるのなら、逆に誰も苦労はしないよ。
 もうひとつ。出版社での経験ではないが、私がある人から聞いた某大学名誉教授の話。その先生は一見物静かな学者風なのだが、やはり公私混同の多い人で、とにかく「お金」に汚いということでまわりにはよく知られていた。大学を退官したのち、元自分の下にいた先生が結婚されることになったとき、両家のご家族どころかご本人も了解されていないのに勝手に何の利益関係もない、ある民間会社に費用の一部を出させようと画策されたり、とにかく理解を超えた行動の多い人だった。また、その先生は自慢話をするのが何よりお好きで、ある時、自分はいかに年金が多いかという話しをいきなり始められたそうだ。まわりの同年代の人たちは、大学教授の年金はそんなにいいのか、と聞いていたという。それくらいで止めておけば「自慢話」で完結したのだが、さらに具体的な金額までも出して自慢話を続けられたそうだ。聞いていた人はみんな黙っていた。なぜなら、その中に誰ひとりとして先生の年金よりも低い金額の受給者はいなかったからである。実はお笑いで終わったのだが、ご本人だけは満足してお帰りになられたそうだ。この先生はご存じないようだが、サラリーマンの年金は公務員の年金よりも掛け金が高い分、高額だ。それを知っていれば、いい恥さらしをしなくてすんだのだが。この話を聞いて、私はこの先生は大きな勘違いをされているように感じた。そんな人だから大学にいたときも、おそらく尊敬はされていなかったろう。ひょっとすると「自分はほかの教授と比較して、どうして人望がないのだろうか」と疑問に感じられていたかもしれない。賢い人はそこで自分に何かが不足していることに気づくのだが、この先生はそこではなく民間会社にパラサイトして自分の力で会社がこれだけのことをした、ということで自分自身を誇示する方向にしか視点をもてなかったのだろう。そんなことを繰り返した結果、さらにまわりの人が離れていくことに気づきもしないで。そもそもまわりから尊敬を集めるような人は、聞かれもしていない話を自分から積極的に自慢したりしない。人望がない、だから何とか自分の価値を高めたいという心理から自慢話をしたくなるわけだが、賢い人というのはそれくらいのことを読み切っている。結果として、むしろ尊敬を集めるどころかさらに軽蔑されて終わりなのだ。本当に哀れな先生だ。
 実はこの程度の話をほかにもいろいろある。例えば某大学理学部教授の話。ある時、その先生は学生を引き連れて、あるお宅のパーティーに出席して、しこたま飲み食いされたという。まぁ、そこまではいい。問題なのはそのあとだ。学生たちは帰り際、そのパーティーの主催者である家の人にちゃんとお礼を言って帰ったそうだが、肝心要のこの教授は礼もいわずに満足してさっさと帰ってしまったという。世の中の幼稚園児、小学生ですら、よそのお宅で「およばれ」したら、「ごちそうさまでした」とか「ありがとうございました」くらいはいえる。この大学教授は肩書きだけはご立派だが、人間としての中身は幼稚園児以下としか私には思えない。うっかりというレベルの話じゃないし、実はこの教授にはほかにも呆れる話がいろいろあるのだ。「うっかり」じゃなくて、「やっぱり」なのだ。つまり大学教授にも人間としてピンからキリまであるということだ。そもそも大学教授という肩書きからは研究のレベルがある程度以上あるということがわかるだけで、実はそれが人間としてどうかという判断基準には一切ならない。そこを勘違いしてはいけない。もちろん先にも書いたように立派な先生も私はいっぱい知っている。重要なのは肩書きだけで判断を下すのではなく、やはりその人自身をよく見極めなければ人間としての中身は判断できないということだろう。世の中には「肩書きに弱い人」というのがよくいるけど、そんな人は詐欺にもひっかかりやすいだけでなく、私にいわせれば単に「思考停止」と思わざるを得ない。




山口・母子殺害事件の最高裁判決
/2006年6月20日

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 今日、山口県光市で発生した母子殺害事件の最高裁判決が出た。広島高裁への審理差し戻しとなり、被告が死刑となる可能性が大きくなった。高裁で次にどういう判決が下るのかはわからないが、「死刑にしない理由は見あたらない」などと踏み込んだ文言もあったようだし、ある程度は評価できる結果だ。このような凶悪事件を死刑にせず、たかだか何年かの懲役刑でその罪が許されるとしたら日本という国に正義はなくなったと私は思わざるを得ない。一審で諦めず上告を続けた検察にも最高裁にも正義があったということだろう。
 以前からテレビなどで遺族としての思いを語り、また極めてスジの通った主張をされていた夫の本村洋さんの姿を見る度に「もし自分が同じ立場に立たされたとき、果たして自分に彼と同じことができるだろうか」といつも敬意を感じながら見ていた。すごい人だと思っていた。その重みのある発言に多くの人が心を動かされ、ひいては最高裁の判決にも影響を与えたといえるだろう。むしろ、こうした流れこそが普通の人間として納得できるものであり、これまでの、被害者よりも犯人の更正や人権ばかりに目がいっていた傾向の方がどうかしていたのだ。そもそも優秀な人材が多いはずの法曹界にあって、こうした犯人よりの視点に偏っていることに今まで誰も疑問を感じなかった、ということが心底不思議なくらいだ。
 その一方で、この犯人の弁護を引き受けている弁護士のように死刑廃止論者もいるのも事実。弁護士というのは被告の利益になるように弁護するのが仕事だから被告の優位になる材料がほかに何もないから「殺意はなかった」というトンチンカンな主張をするしかなかったのだろうけどさ、それにしても随分お粗末な主張だ。そんなレベルの主張をほとんどの国民は「何いってんだ、コイツ」と呆れて聞いたことだろう。
 彼ら人権派弁護士は「人間が裁判をする以上、冤罪というのは決してゼロにはできないのだから死刑は廃止すべき」という主張らしい。だが私はそれはちょっとおかしいと思う。そもそもこの事件のように死刑にするしか選択肢がない犯罪というのは現実にある。冤罪の可能性があるから、すべての死刑を廃止にせよ、と飛躍するのではなく、その前に冤罪を起こさないように裁判官のレベルを上げるように努力すべきではないのか。
 死刑廃止論者に決定的に欠如しているのは、自分が犯罪被害者もしくはその家族になった時の視点だ。私から見れば、その想像力が不十分としか思えない。そういえばオウム真理教の坂本弁護士殺害事件でも、同僚だった弁護士が「自分も事件が起こる前は死刑廃止論者だったが、事件を経験してからやはり死刑は必要と思うようになった」という意味のことをテレビで語っていた。つまり、この弁護士も事件が起こるまで被害者の立場になって考えるという想像がやはり不十分だったということだろう。死刑廃止を訴える人は、もし自分の愛する家族が残虐な方法で殺された時、犯人が無期懲役となり何年かの服役のあとに出所し、のうのうと普通に生活することが本当に許せるのか、ということを徹底的に想像してみるべきだ。それを考えに考え抜いて想像してみた時、普通の感覚をもつ人であれば、やはり死刑は必要と思わざるを得ないだろう。
 ところで、この母子殺害事件の犯人が出した手紙の内容を聞くにつけ、本心から反省しているとは到底思えない。そもそも反省したから罪を軽くするというのもおかしなことだ。本心から謝罪しているか、そうではないのかということをすべての事例において裁判所が正しく判断ができるとは私には思えないのだが。それに更正の可能性もあるといったってさ、本当に更正できるかどうかも確実にわからないのに、さらなる被害者が出る最悪の可能性やリスクはなぜか無視して、更正の可能性を信じて社会に放り出す意味が私にはまったくわからない。そんなリスクを背負ってまで、一度は社会を震撼させた者のために配慮する必要なんかまったくない。よく「刑罰を重くしても犯罪は減らない」と重罰化に反対する人がいる。刑務所の収容人数を心配しての発言ならまだしもだが、そのために必要なら、どーぞ税金をお使い下さいっていいたい。そういう理由で反対しているのではないとしたら、いったい何のために反対しているのか、まったく意味不明だ。少なくとも、そんな犯罪傾向のある連中が社会にいる時間が減るだけでもマシというものだ。それだけ被害者が出る可能性も減るだろうしね。
 今日のテレビでは犯人の実父が出てしゃべっていたが、しかし、よくテレビなんかに出れるよな。もし私がその立場なら恥ずかしくて出れない。しかも、まだスジの通ったことでもいうのならともかく、無教養丸出しで、まるで他人事のような意味不明のことをしゃべっていた。自分があんなろくでもない人間を育てた責任については、頭をかすめもしてないって感じ。まぁ、あのような犯罪を平気で犯すような人間の父親。どうせたいしたことはいわないだろうと見ていたが、見事にその通りだった。





防犯カメラの必要性
について/2006年4月15日

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 以前から防犯カメラについてはいろいろな意見があったが、ここ数日の間に朝日新聞の「声」欄に相反するふたつの意見が相次いで掲載された。「防犯カメラが市民生活を守る」という意見に対して、今日掲載された意見は、「彼女との恋心が急に燃え上がり路上でチュッすることもあれば、体調を崩して粗相をしてしまうこともあり、そんな姿は誰にも見られたくないはずだ。犯罪の防止は防犯カメラに頼るよりも地域の人の目に委ねるのが望ましい」というものであった。
 確かに他人に見られたくないことは誰にでもある。防犯カメラの管理がどのような形で行われ誰が見ているのか、不明な部分もなくはない。だが、私は防犯カメラは必要不可欠と考えるし、これからもっと増やすべきだと思う。もちろん防犯カメラだけに頼るのではなく、それ以外の犯罪防止手段も充分講じること、次に防犯カメラの運用は、きちんと管理をするという前提でのことだが。
 そもそも地域の人の目によって犯罪が防止できるくらいなら誰も苦労はしない。しかも人間の記憶というのは時に非常に曖昧で、防犯カメラのようにあとから自分が見た映像を再生して他者に見せることができるわけでもない。カメラに写った映像というのは、極めて客観的で、人間の記憶のように主観や時間に左右されることもない。先日の高層アパートから男児を投げ落とした殺人事件が、防犯カメラによって一気に解決したことを見れば、その価値は極めて大きい。未だ解決していない栃木の女児殺害事件でも、連れ去る現場、あるいはその近くに防犯カメラがあり、犯行時刻に不審な車が撮影されていれば、警察の捜査対象は相当絞り込むことができ、ひいては検挙に結びついたかもしれない。早期の犯人検挙は同時に犯罪抑止にも大きな意味がある。犯人を検挙できなれば、模倣犯が生まれる可能性だってある。また人間の目というのが、24時間365日、防犯のために機能しないのはいうまでもない。深夜誰もいない場所で、どうやって地域の人の目によって防犯するというのだろうか。
 何か新しいことをしようという時、必ず反対する人がでてくる。それは、どんな手段にも必ず長短があるからで、反対する人はその「短」の部分に重点を置いているわけだ。しかし、その長短を比較してどちらがより重要かという判断をしようとしない人も実は極めて多いのである。何事にも必ず長短はあるのだから、どちらをとるかという判断をする時は、より重要な方をとるしかない。もちろん世の中には「長短」のどちらがより重要かという判断が微妙なこともたくさんある。しかし、この場合は彼女とのキスを見られたくないということと、何か犯罪が発生した時に犯人逮捕に重要な情報を得られるのと、どちらが重要なのかいうまでもない。プライバシー、プライバシーというが、部屋の中までも監視されるわけじゃあるまいし、あくまで防犯カメラが設置されるのは公共の場のはずだ。彼女とキスをしたけりゃ家の中ですればいいだけの話しだ。体調が悪く粗相をしたとしてもカメラがなくても公共の場なら多かれ少なかれ誰かに見られてしまう可能性が高いのだから同じことだ。そもそも防犯カメラをプライバシーの観点から反対するという人は、自分や家族が犯罪被害者になった時のことについて想像力がなさすぎる。もし自分の家族が許されざる犯罪に遭ったときでも、やはり防犯カメラを反対するのだろうか。防犯カメラがあれば、犯人につながる手がかりが得られたとしても、やはり防犯カメラはない方がいいと断言できるのだろうか。それを考えれば、単に想像力が足らないだけなのは明らかじゃないか。
 また防犯カメラといっても、いろいろな方法がある。コンビニなどの店舗に設置してある防犯カメラは、万引きに目を光らせる必要から常に店内の様子を監視しているはずだが、すべての防犯カメラが同じような方式にすることはできないし、またその必要もない。例えば自動録画をするだけの、何らかのモニターに常時接続されていない防犯カメラというのがあってもいいのではないか。つまりリアルタイムで誰かが監視しているわけではなく、自動的に録画だけをする防犯カメラである。何か犯罪が起こった時だけ警察や行政などのきちんとした立場の管理者によって録画画像を解析できるようにしておき、それ以外の時は10日とか1ケ月とかの一定の期間が過ぎれば画像は順次分単位で自動的に消去され更新されていくという方式。これなら常に誰かに見られているという不安もなかろう。すべての防犯カメラをこの方式に変える必要もないが、こんな方式の防犯カメラの方がいい場所だってあろう。防犯カメラの設置が誰の目で見てもわかるようになっていれば、100パーセントではないにしても必ず犯罪抑止に効果が生まれるはずである。ゆえに防犯カメラは今後もっと増やすべきなのだ。このような防犯効果が期待できることに税金が使われるのなら、私は喜んで金を払う。





民主党・永田寿康議員
のメール問題。私はこう思う/2006年3月16日

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 永田議員のメール問題について、ほかの民主党議員から自らの正当化ともとれる意見が、このところ続いた。例えば「議員は質問するのが仕事なのだから、それがけしからんというのなら質問もできないじゃないか」とか、「メールはニセモノだったが、だからといってライブドアからの献金疑惑が完全にシロになったわけではない」とか。そんな意見を私は呆れて聞いていた。議員は質問し疑惑を追及するのが職務である。これは当然のことだ。だが問題なのは質問をしたことではない。充分な根拠もなく相手をクロと断じて、「魂を金で売った」などの言葉を使ったことが問題なのである。もし、永田議員が「そのような疑いがあるが、どう説明するのか」というくらいの言い方をしていれば、ここまで大きな問題にはならなかったはずである。
 こんな話にたとえてみよう。あなたが大勢の人通りがある場所を歩いているときに、突然警察官に呼び止められ、大声で「おい、おまえ、覚醒剤をやっているだろう」といわれたとしよう。まわりの人々はあなたを遠巻きにしてジロジロと白い目で見ている。あなたは、びっくりしつつも「いったい何の根拠があっていっているのか」と反論を続ける。すると警察官は次第にトーンダウン。さらに反論すると「ある情報をもとにそう思い込んでしまったが、その情報自体が間違いだったかもしれない」といい始める。当然、あなたは心底頭に来て猛抗議。ところが、そんな会話を聞いていた通行人が「警察官は犯罪者を検挙するために疑うのが仕事なんだから疑われても仕方ない。疑うのがダメというのなら警察官の職務は果たせない」という。また別の通行人はこうもいう。「警察官は間違った情報であなたを疑ったかもしれないが、だからといってあなたが本当に覚醒剤をやっていないという証拠はない」と。あなたは、この意見を聞いて「確かにそうだ」と納得するだろうか。普通の神経をもつ人であれば、「冗談じゃない」とやり場のない怒りに震えるはずだ。
 警察は根拠のない情報だけで、犯罪者と決めつけて逮捕するようなことは基本的にはしない。残念ながら、どこの国でも絶対にないとはいえないのが悲しいところだが、普通はあり得ない。持ち物を検査し、実際に覚醒剤が見つかったり、尿検査でクロと判定されて始めて逮捕となるのだ。警察官といえども、その時点からようやく犯罪者として扱うことが許されるのだ。
 この問題は、例のメールが起源になっているということを忘れてはいけない。つまり、そのメールがガセだったことが判明したのだから、同時に疑惑も消失してしまったのである。それでも「ライブドアからの献金疑惑が完全にシロになったわけではない」というのなら、同じように献金がなかったという証拠はないといえる、ほかの国会議員全員も疑惑の対象にしなければならなくなってしまう。疑惑の根本がウソだったことが判明した時点で武部幹事長はほかの全国会議員と同じ立場に戻ったのである。もし、まだ疑惑があるというのなら、きちんとそれなりの根拠を揃えてから口にすべきだ。
 そもそも絶対に公にしたくない裏の献金を完全に証拠が残る銀行振込するバカもいないと思うけどねぇ。永田議員は元キャリア官僚でありながら、そんなことにも気づかないでガセネタを掴まされ、それでもまだ情報提供者を信用しているといっている。まったく何を考えているのかね。私は以前からはっきりモノをいう永田議員をちょっとはかっていたのだが、今回は完全な勇み足。今の立場に恋々とせずに、一から出直せといいたい。





最近の若い親
が口にする気になる言葉/2006年1月8日

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以前からテレビのインタビューなどで、若い親たちが自分の子供に対して何か役に立つことをしたい、ということを話すときに使う言葉が気になっている。例えばこうだ。「息子の夢をかなえるために親としてできるだけのことをしてあげたい」という親が実に多い。私がすごく違和感を感じるのは「〜してあげたい」という部分だ。なぜなら私の両親なら決してそんないい方はしないからだ。確実に「〜してやりたい」というはずだ。
 「〜してあげたい」でも「〜してやりたい」でも要は意味するところは同じだが、決定的な違いは話者と相手との関係である。つまり「〜してあげたい」というのは、対等な相手に対して使う言葉である。それは、たとえ子供でも人間として対等に扱いたいという気持ちの表れなのであろうか。確かに友達に対してなら「〜してあげたい」でもいい。だが、自分と自分の子供は対等な関係ではないはずだ。勘違いも甚だしい。
 子供と対等に接する「友達親子」という言葉がある。一見よさそうに見えるが、いいのは子供が小さいうちだけ。やがてやってくる反抗期は、ただでさえ親がうっとおしい時期なのに「友達親子」がうまく機能するとは思えない。本当に親の経験に基づいて軌道修正が必要な時に、そんな対等な関係で子供が親の意見に耳を貸すはずもないのだ。ひとりの人間として対等に接するのは、せめて成人してからであろう。それまでは親の方が上だという前提に立った接し方をすべきだと思う。犬のしつけでもそうではないか。飼い主よりも自分の方が上位だと勘違いしている犬は、散歩の時でも飼い主を引っ張って自分の行きたいところに行こうとするし、気にいらないことがあると飼い主を噛んだりする。これは上下関係を正しく認識していないことに原因がある。犬と人間の子供を同じにみなすことはできないが、しかし同じ部分も多々あると思う。
 「〜してあげたい」という言葉は、本人はまったく意識して使っていないだろうが、実は知らず知らずのうちに親の方から階段を一段、子供の方に向かって降りていることを如実に示している。つまり親の威厳を親自身が放棄しているということではないのか。私はそのことにある種の怖さを感じる。本当にこれでいいのだろうか。
 何年か前に小・中学生向けのブランド服に熱中している自分の娘に、いつも高額な買い物をさせている親をテレビで見た。「子供の喜ぶ顔が見たいから」とニコニコ顔で話す父親。その姿を見て呆れた。時には何か買い与えて子供を喜ばせるのもいい。だが、それにも程というものがある。子供のうちに「我慢する」ということを教えるのは非常に大切なことだ。それによって、これからの人生でたとえ苦労することがあってもそれに耐えられる「耐性」が生まれるのである。小さいうちから何でも買い与え、それが当たり前だと思うようになってしまうと、耐性のない人間、ストレスを自分の中で処理できない人間になってしまう。そんな耐性を教えられないで育った人間は、大人になって自分の思い通りに事が運ばないとキレたり、自分の思い通りにするためには手段を選ばなくなるのではないか。犯罪者の中には、そんな耐性が欠如しているとしか思えない人がよくいる。そんな勘違いした親に育てられた子供が犯罪者にならなければいいけどねぇ。
 そういえば私が小学生の頃も、学校の先生に「うちの子にちゃんと躾をして下さい」というバカ親がいたが、そんなバカ親に育てられた子供も、今頃、やっぱり同じようなバカ親になってるんだろうな。まっとうな親よりもバカ親の方が目立つ今の日本。ホント、日本の将来どうなっちゃうんだろう。




客を待たせない郵便局の窓口に/2005年12月10日

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 日本郵政公社になって前よりもサービスがよくなり、局員の接客態度も丁寧になったと感じていたが、なかなか改善されないのが、振り込みなどの窓口である。私が利用するのは秦野郵便局だが、ここには振り込み窓口は4つもあるのに20人近く待つ人がいる時でも2つしか開いておらず、かなり待たされることもしばしば。そんな時に郵便物の窓口にいる2人の職員がヒマそうにしていたりすると「もう少し何とかしろよ」といいたくもなってくる。しかも秦野郵便局では、その2人以外にワゴンで切手を売っている人も別にいるのだ。人員の配置に問題があるんじゃないか。
 郵政公社になってから利用に関するアンケートをしていたので、この不満を書いたのだが、見ていないのか、何らかのできない事情があるのか知らないが、全然改善されなかった。もちろんアンケートをして、利用者の意見を聞こうという姿勢は評価するが、こうした不満についてはどう思っているのだろうか。
 先日も振り込み窓口が2つしか開いておらず相当待たされたので、自分の番になったときに窓口の人にそのことをいってみた。だが「申し訳ないと思ってるんですが…」という反応しか返ってこなかった。
 だが、私は客を待たせていることに対してちょっと鈍感だと思う。たとえ振り込みであろうと何だろうと郵便局の利用者はお客様という意識が乏しい気がしてならない。窓口を4つ開けられない事情はもちろんあるのだろうが、問題は本当にそれが不可能な事情なのかどうかだ。
 何かあることをしようとする時、決まって「これこれこういう理由で不可能」と努力もしないで、初めからできないと決めつける人がよくいる。だが、本当に不可能なのか。昨年、こんな話をテレビで取り上げていた。某大手銀行でのことだ。異業種からやり手の経営者をトップに招き入れて経営建て直しを計った。その時、その経営者がしたひとつの改革が、いかにお客様を待たせない窓口にするか、ということだった。その時、行員からは「事務作業上の制約があって時間短縮はできない」という反対意見が上がったそうだ。だが、その人は「それは行内の問題であって、お客様には関係ない」とつっぱねたという。そして、さまざまな工夫や努力をして、結局、待ち時間を大幅に短縮させることに成功したのだった。つまり、やろうと思えばできることだったのだ。
 同じことが、本当に秦野郵便局ではできないのだろうか。銀行でできるのなら郵便局でもできるのではないか。要はやろうという意気込みがあるかないかの違いではないのか。振り込み窓口では、ある程度の知識や経験が必要だろう。だから郵便物窓口の職員が兼務することはできないのかもしれないし、時折、郵便物窓口が混雑することもあるから、やはり最低2人は必要ということもあるかもしれない。だが、そうだったとしてもまだ努力できる余地はあるのではないか。限られた職員が客の多い少ないによって、効率よく兼務対応できるように、そもそも人材育成の時点からの方針を変えるとか、局内の規則があるのであれば、職員が動きやすいように規則を緩和するとか。ひとつの視点から見てだめなのなら、もっと上からの視点で見ればいい。局で対応できなければ、さらに上部の組織が動けば、不可能も可能になるのではないか。
 私が以前住んでいた横浜の、最寄りの集配局は、立地条件が悪いのか、いつ行っても振り込み窓口はガラガラだった。ところが秦野郵便局に行くようになって、混雑していることが多いのにびっくりした。秦野郵便局でも時期によってはすいていることもあるのだが、こうした現状は、神奈川県内全体を見たときの郵便局や人員の配置に問題があるということにならないか。
 窓口の職員が、事務作業を急げばミスをする可能性もあるから、それはできないのはわかる。だが、彼らに本当にお客様を待たせて申し訳ない、という意識があるかといえば、私は疑問に感じる。もし私なら別のデスクに何かを取りに行って窓口に戻ってくるとき、ゆうゆうと歩いて戻るようなことはしない。小走りに戻る。そんなことをしてわずかな差しかないかもしれないが、それは少しでもお客様をお待たせしない、という意識があるかないかの問題だと思う。
 窓口が混雑しても客が待つのが当たり前。そんな意識では民営化したあと、サービス向上で勝ち抜こうとする銀行に次第に足元をすくわれるぞ。もちろん、同じ意識しかない銀行にもいえることだ。今後の秦野郵便局を主なサンプルとして観察しながら、郵便局全体のサービス向上に注目したい。





米国産牛肉輸入再開について/2005年10月28日

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 BSE問題で米国産牛肉の輸入を再開するか否か、ということで議論噴出しているが、26日の朝日新聞には67パーセントの人が輸入再開反対という世論調査の結果が掲載されていた。多くの人が反対というのは当然であろう。逆に私は賛成している21パーセントの人の見識を疑う。賛成している人というのは、そもそも米国産牛肉輸入再開にリスクがあることを知らないか、知っていてもリスクに対する意識が欠落しているか、そうでなければ自分たちの商売のためには多少のリスクは存在しないことにしてしまいたい、実に利己的な考えの持ち主かのいずれかでしかない。
 牛肉を輸出し利益を得ている米国側が、「米国産牛肉は安全」というのは当たり前なのだ。利益がほしいのに「たぶん安全だと思いますけどね。でも世の中に絶対なんてことはないですから」などとホンネをいうはずもない。ここで重要なのは食べる側の立場で考えなければならないということだ。米国側は「安全」というが、果たしてそれは正しいのか。利益優先でいっているに過ぎないのではないか。そこに視点を置かずして「米国側が安全と言っているから安全」と判断してしまうのは実に脳天気。おめでたい性格というほかない。アメリカは地球温暖化京都議定書に組みしないなど、国益を最優先に考える国である。その国がいうことをそのまま受け入れる神経が私には信じられない。まぁ、普通、国家というのは国益を最優先するのが当たり前なんだけどね。国益を優先しない無能な政治家や官僚が、どこかの国にはワンサカいるから、それに比べればアメリカは至ってノーマルなのかもしれないが、だがそうはいっても優先しすぎだろう。
 現にアメリカ国内の調査でも牛の解体処理の規則違反が1300件以上も報告されているという。つまり「この部位はBSEに感染していた場合危険だからきちすと除去すべし」などのきまりを守らなかった例がこれだけの数、実際にあったということだ。もしBSEに感染している牛の解体処理の際に、偶然きまりごとが守られず、食肉として流通する部分に危険な部位の肉片が付着したらどうなるのか。それは食べた人がクロイツフェルトヤコブ病に罹る可能性が出てくるということである。もちろん、その可能性は高いとは思わないが、最悪の場合、重大な結果を生むことを考えれば、その最悪の事態を回避すべくできる限りの対策をとる、というのが正しいリスク管理のあり方である。ところが日本人というのは、平和ボケしているせいか、こういうリスク管理の意識が欠落している人が実に多い。「まさかそんなこと起きないだろう」「仮に起きても自分だけは大丈夫だろう」というような何ら根拠のない楽観主義者が多いのである。さらに自己の利益が絡めば、結果などはおかまいなし。「そんな事態になる可能性は低い」とか、あらゆる論理ともいえない幼稚な論理を持ち出してきて反論するのである。特に「生態系への危険性に対する意識の低さ」を私は最近まざまざと実感する。それは知識に疎い一般市民ばかりではない。大学教授、マスコミからして、ピントのずれた論理を平気で展開しているのである。それは私が別項でも書いている「犬連れ登山」にしろ、「バス問題」「外国産クワガタ輸入問題」でも同じである。このことはいずれ「生態系音痴が日本の自然を破壊する」というページで詳しく指摘したい。このページでは、世の中にウヨウヨいる典型的な生態系音痴の人々(著名人)を実名を出して批判するつもりにしている。

 ところで欧米諸国というのは、古くから自然科学を発達させてきた優秀な人びとだと思うが、意外と論理と乖離している主張も多い。欧米の動物愛護団体のように自分たちは牛などの家畜を殺して食べているくせに、クジラを捕って食べるのは野蛮だというような主張である。牛は食べてもいいがクジラはダメという理由は一体何だろうか。クジラの頭数が減って絶滅の危険性があるというのなら反対する理屈もわかるが、「野蛮」とは余計である。しかも調査捕鯨で数が増えているにも関わらず反対しているところを見ると、そういうわけでもなさそうである。つまり論理もへったくれもないのである。だいたい動物愛護団体というのはどこの国でも決まって論理音痴、科学音痴の手合いが多いのにうんざりするが、科学の先輩である欧米諸国もこと動物愛護団体となると日本とレベルは大差ないようである。論理よりも感情を優先する幼稚な主張には私は到底ついていけない。
 そもそも動物を取り尽くして絶滅に追い込んだのは圧倒的に欧米人の方が多い。日本人が絶滅に追い込んだのはニホンオオカミとニホンアシカ、ニホンカワウソ、トキくらいなもんだ。日本人は自国の動物を絶滅に追い込んだくらいですんでいるが、欧米人は諸外国に行って絶滅に追い込んでいるではないか。果たしてどっちが野蛮か。さらにいえばもともと日本人は肉食中心の食生活ではなかったわけで、欧米人に比べてよほど動物に優しい食習慣をもっていたともいえる。しかも捕鯨はひとつの文化である。ソウルオリンピックのときに韓国の伝統的な犬料理に欧米諸国から「野蛮」の声が挙がり、韓国国内でも開催期間中は自粛しようと言う声が出たそうだが、そんなことする必要は一切ない。韓国の伝統文化を一方的に野蛮呼ばわりとは何様のつもりか。その根底には欧米の文化こそ最も優れているという意識しか見えてこない。それぞれの国が長い歴史で育んだ文化というのは、それぞれ尊重すべきことである。それを自分たちの文化は優れているが、あなたたちの文化は劣っているとは実に不見識といわざるを得ない。イスラム諸国に欧米への反発があるのも頷ける。

 さて、やや話がそれてしまったから最後にもう一度元に戻そう。
 アメリカは牛肉輸入再開問題で「制裁」という言葉まで持ち出しているが、これもおかしなことである。日本はまったく何の問題もないのに輸入再開に踏み切らないのではない。アメリカの牛肉処理に対する信頼性が疑われるから輸入を再開しないのである。現にアメリカ国内からそういう指摘がたくさん出ているではないか。日本に輸入再開してほしければ、それに対してきちんとした対策を打つべきである。その上で「対策したのだからこれで問題はなくなった。さぁ、輸入再開してくれ」というのならわかるが、対策もしていないのに輸入再開しろといわれてもできるわけない。そんなこと当たり前だろう。





買った商品が取り出しにくい自販機
/2005年10月15日

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 昔から不満に思っていたことだが、自販機(特にドリンク類)の取り出し口って、もう少し何とかならないのだろうか。500ミリリットルのペットボトルを買った場合、出口付近にひっかかって出てこなかったり(出口付近をたたくと、ガタンと出て来るんだよね)、取り出し口の間に立つ支柱が邪魔になって、実に取り出しにくい。取り出し口のフタは雨露を防ぐために必要なのかもしれないが、フタを開けて柱の間から取り出すのが、どうもまどろっこしい。あまり利用者の立場に立った設計がなされているとは言い難い。そもそも自販機といっても商売である。お金を入れやすく、商品を取り出しやすい自販機にする努力が必要ではないか。また買ってみたら賞味期限切れとか、選んだ商品とは違う商品が出てきたいうことにも、たまに遭遇する。しかも商店前にある自販機で商店が開いている時間帯に買って、こういう目にあったら商店で交換してもらうこともできるが、そうでなければ結局我慢するしかなくなる。ドリンクメーカーにはこういう点も含めて善処して頂きたいものである。
 例えば理想の取り出し口とは、下のイラストのような取り出し口である。屋外では路上に設置する場合、寸法の制約もあって自販機から飛び出した部分がない方がいいとか、受け皿状では雨水がたまりやすいなどのマイナス面もあろうが、屋内用では問題はないのではないか。そもそも網目の入った受け皿なら、後者の問題もクリアできる。こんな取り出し口の自販機どこかで見たような気もするが、あまり頻繁に見かけない。どちらにしても、こういう取り出し口なら商品を簡単にさっと取り出せていいと思うのだが。

 







最もよく見かける自販機の例。取り出し口にある支柱(矢印)が取り出すときの邪魔になる。こうした支柱は、すべての自販機にあるわけではなく、ないものもあるから、設計上どうしても必要なものとは思えないのだが。








衆議院選挙の結果について/2005年10月2日

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 先に行われた衆議院選挙の結果は、予想以上の自民党の大勝だったのには少々驚いた。だが、国民の大多数は、政治に無関心なようでよく見ているな、というのが私の感想だ。郵政民営化反対派の論理ともいえない論理をよく見抜いたと思う。野田聖子が「どうしてこんなに郵政民営化を急ぐのかわからない」と反対の理由にもならないことをいっていたが、改革を急いでなぜ悪いのだろう。どうせ反対するのなら、もう少しましな持論を展開しろよ。これがかつて将来の首相候補とまでいわれた議員のいうことか。
 関心を呼んだ広島6区。亀井静香はひと事でいえば「下品」以外の何ものでもない。まったくの広島の恥さらし。首相の器でないことはいうまでもない。どちらかというと田舎の土建屋社長っていう方が似合っている。だが、そうはいってもホリエモンつうのもねえ。企業家としては優秀なんだろうけど、有権者に笑顔を振りまき、小さな子供をあやして好印象を植え付けようとしても、ホリエモンがそんなにいい人とも思えないけどね。本心では自分の会社のことしか考えてないんじゃないの。さらにいえば利益のことしか頭にない人が、縁もゆかりもない広島のことを真剣に考えるはずもない。もちろん国の利益よりも地元の利益を優先するような国会議員じゃ困るんだけどね。今回の選挙でも「故郷のために…」と連呼していた候補者がいたが、こんな認識しか持たない人が税金使って国会議員なんかになってほしくないものだ。国会議員ならまずいうことは「国民のため、国家のため」というのが本当だろう。それが、まず第一声が「故郷のため」だもんな。聞いてあきれる。ホント、バカじゃないのかね。こんな低意識の国会議員が多いから日本は問題なのだ。
 ところで、私は今だかつて選挙権を行使したことがない。そんなことで国会議員のことを非難できるのか、と怒られそうだが、テレビによく出ているからという理由で、田嶋陽子や大仁田厚に投票するようなアホな有権者よりも、よほど政治に関心を払っている。これまで投票しなかったのは、投票したくなるほどの人物に巡り会えなかったからだ。だが、今回はさすがに何としても投票しようという気になった。郵政改革を手始めに国全体を改革してほしい、そう願ったからだ。そこで私が住んでいる秦野が属する神奈川17区の自民党候補は誰か調べてみた。その結果は絶句。河野洋平だったからだ。う〜ん、小泉自民党は応援したいけど、河野洋平は論外だよ。息子の方なら投票したかもしれないが、とっつぁんの方は遠慮しておく。生まれて初めての投票が河野洋平とくりゃ、人生の汚点だ。河野洋平はかつて、中国に外遊する時、中国のご機嫌をとるために経由地の台湾に着いても飛行機から降りなかった話は有名だ。それだけならまだしも、江沢民に会ったときに「私は台湾の地を踏まなかった」と自慢げにいったとか。こんなことだから日本の政治家は中国からナメられるのだ。せいぜい衆議院議長の椅子に座らせて議事進行に徹しておいてもらう方がよほど国益にかなうわい。で、結局、今回も私の選挙権行使は見送るハメになったという次第…。ペケペン♪♪♪





私は小泉さんを支持する/2005年6月8日

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*郵政改革について
 小泉さんが郵政改革にこだわり過ぎているとか、いろいろな批判があるが、私は断固改革をすべきだと思っている。いかに反対派が口角泡を飛ばして小泉さんを批判しようとも、反対している連中が国民の方を向いておらず全国の特定郵便局長の方を向いているのは明らか。
 今、改革を急ぐ必要性はまったくないとか、小泉さんの昔からの信念に過ぎないとか、はたまた民営化すればサービスが低下するとかいうが、改革の最大の目的は、民営化すれば特殊法人の資金源である郵貯からの金の流れをくい止めることができるからだ。
 小泉さんは、無駄な金の流れを断ち切るために郵政改革を主張している。ところが、反対している連中というのは、無駄な金の流れが今後も続くことは無視して自分の票のために反対している。どちらが本当に国民の方を向いているか、いうまでもない。綿貫も荒井も見苦しいぞ。
 
*靖国神社の参拝について
 この問題についても、私は小泉さんに断固参拝を続けて頂きたいと思う。中国政府が国民の被害者感情なんかに深く考慮して参拝中止を求めているわけがない。反日運動も半ば官製という声もあるが、たぶんそれは事実だろう。尖閣諸島もあわよくば自国のものにしようと機会をうかがい、他国の領海に平気で原子力潜水艦を進入させるような国ではないか。その根底には、機会があれば他国のものをかすめとってやろうと目をギラギラさせている本心しか見えてこない。そんな国が国民の感情なんかに優しさでもって気をつかっているわけがないのである。靖国問題は中国にとって最も都合のいい政治カードとして利用しているに過ぎない。
 仮に今回、中国に配慮して参拝を中止したからといって、それで終わるわけがない。中国は東アジアにおける地位を意識しているのである。そのためには、口では友好というかもしれないが、本心は日本を叩きたいと思っている。だから、仮に靖国問題に譲歩したとしても、日本を揺さぶることができる新たなカードを見つけだすのは明白である。中国政府のこざかしいゆすりに、慌てて「申し訳ございません。すぐさま失礼のないように対処します」などと、こびへつらう必要性は一切ない。
 ただ、この問題で中国政府と一般の国民とは区別しなければならない。中国政府の対応がけしからんと、一般の中国人に怒りを向けるのはスジ違いも甚だしい。そんなことをすれば、反日運動で日本食レストランにペットボトルや石を投げた連中と同じレベルになってしまう。日本の国民は民度が高いのだから、そのような恥ずかしいことはするべきではない。

 ところで小泉さんは、もっと楽な道の選択もできたはずだ。だが、郵政改革にしろ何にしろ楽な道を選ばなかった。むしろイバラの道をすすんで選んでいる。私はそういう人こそ、本物の志を持った人だと思う。自分の利益を優先したり、まわりの声に流される方が、楽なのはいうまでもない。だが、それでも敢えてイバラの道を選ぶ。そういう人こそが国のトップにふさわしい人物である。
 旧・ソ連のゴルバチョフ書記長も同じだ。政治家としての評価はいろいろあるだろうが、彼も歴代の書記長と同じように権力の座にぬくぬくと座り続けることもできたはずだ。だが、彼はそれをしなかった。敢えて厳しい改革の道を選択した。私は楽な道を選ばず、困難な道を選ぶ人を高く評価する。
 政治家を見るとき、そういうところにも視点を向けなきゃね。自分たちが政権を取りたいがために反対のための反対を繰り返している民主党。「たとえ与野党どうしでも、いいと思うことはいいといいましょうよ」という小泉さんの意見の方がはるかに理にかなっている。国民のため正しいことであれば、たとえ与党の主張でも、それを積極的に受け入れるのがスジというもの。だが、反対しかしない民主党に、その意識があるとは私には思えない。民主党が国民のことを考えていないとは思わないが、それよりも党としてのメンツや政権をとることの方を優先しているようにしか見えない。
 
 マスコミもバカのひとつ覚えのように、小泉さんは中国や韓国への説明責任を果たしていないというが、それぞれの首脳との対談ではかなりの時間をそれに費やして、靖国参拝が不戦の誓いであることを説明しているではないか。その事実には、なぜか目をつむり、「説明が足りない」と繰り返しいうのは、否定のための否定でしかない。このような論理と乖離したマスコミの主張は、程度が知れる。
 私は中国の首脳も韓国の首脳も小泉さんのいわんとすることに理解はできたはずだと思う。おそらく個人的には、小泉さんのいうこともわかる、と思っているかもしれないが、国民に向けて小泉さんの姿勢を理解したとでもいえば「日本に迎合している」と批判されるのは明白だから、敢えて理解できないことにしているに過ぎない。だからいくら説明しても無駄。結果は同じである。





中国の反日運動について
/2005年5月5日

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 このところ一時のような激しいデモは見られず、少し落ち着いたかのように見える中国の反日運動だが、中国国内における反日の根深さに驚くばかりである。過去に中国に対してひどいことをしたのだから仕方ないと見る向きもあるのかもしれないが、常軌を逸していると感じた人も多いだろう。すでに60年も前のことで、我々の世代からすれば2代、3代も前のこと。日本が同じような国策に傾いているのならいざ知らず、戦後一貫して平和主義を通してきたことや、ODA(その有効性についてはともかく)や民間の国際支援のことを抜きにして、日本はけしからんといわれてもねぇ。中国は国内に向けて日本から多額の援助を受けていることをほとんど何もいっていないから反日運動をしている連中はそんなことも知らず、ただやみくもに反日と叫ぶばかり。現実とかけ離れた行為は、ただ中国の奇異さが目立つばかりで、あまり賢明とは思えない。
 先日、テレビで反日運動に参加した人のインタビューを見た。「日本は謝罪しないから」というのに対して「小泉さんが謝罪しましたよね」とインタビュアーがいうと「心から謝罪していないと聞いた」だと。自分で確認もせず、その映像を見てもいないでそう決めつける。では中国政府の方が間違っている、と誰かがいったら素直に「あぁ、そうなのか」と納得するのか。通訳のニュアンスの違いがあるのかもしれないが、随分稚拙な印象を受けた。まぁ、投石などをする連中はただのバカというのはいうまでもないが、そうでなくてもこの程度なのだ。だいたい日本製品不買運動というのが、実は自国にとっても不利益になることは、少し頭が働く人ならすぐに理解できるだろうが、そんなことにも気づかないのである。表面的で単純な思考。見えるものだけを見えたとおりにしか判断できない未熟さだけが際だっている。今は、日本製品の多くが中国国内で中国人によって作られていることも多いばかりか、日本国内で作られている製品ですら中国で部品を作っている場合も多い。第二次世界大戦のころじゃあるまいし、中国対日本として、その間に線をひいて日本の企業を困らせれば日本人だけが困る、というような単純な問題ではないだろうのに。

 また私がいつも思うのは頭が悪い連中に限って、中国人とか、日本人とか、そういう単純な区分けにしたがる傾向があるということだ。しかし、現実には日本人にもバカはいるが、中国人にもバカはいる。逆に日本人にも尊敬に値する人がいれば、中国人にも尊敬に値する人がいる。つまりは○○人であるかどうか、ではなく、重要なのはそれぞれの個人がどうであるか、ということであろう。そんなことは一切斟酌せず、一概に○○人ということで判断を下すのは、まったくおかしなことである。そんな大ざっぱな見方や考え方は実にお粗末としかいえない。アメリカ人だからけしからんとか、そのアメリカに協力しているから日本人もけしからん、というアルカイダと同じ、恐ろしく前時代的で未熟な発想である。
 日本は大人だと思う。アメリカに原爆を落とされても、未来の方を選んだ。中国や韓国のように、原爆を落とし、空爆を繰り返して民間人を殺戮したアメリカはけしからん。断固アメリカ拒否という風にはならなかった。原爆投下についてアメリカ人は戦争を終わらせるためだったというが、当時日本はすでにソ連に戦争終結のための仲介を依頼していた段階で、もちろんそれが無駄だったのはいうまでもないが、日本の情報がアメリカに筒抜けだったことを考えれば、アメリカも当然そのことを知っていたはずである。だとすれば、多数の市民の犠牲を省みることもなく原爆を、しかも2発も落とさなければならない相応の理由があったとは思えない。それでも戦後ずっと、日本は過去は過去として割り切り、未来の方を見続けてきた。
 ただ原爆によって戦後処理におけるアメリカの政治的立場が強くなり、朝鮮半島のような悲惨な国家分断を避けられた、ということはいえるのかもしれない。広島出身の私からいえば、非常に複雑な思いがある。しかし広島と長崎の多数の市民の犠牲のもと、結果的にはそれが日本という国にとってはプラスに働いたのかもしれない。

 ところで国とか民族とかいうことに多くの人は熱くなりやすい傾向がある。だが、その区切り方もただの分類方法のひとつとしかいえないと私は思う。視点をかえれば、いかようにも変化することを認識すべきである。例えば、私は広島県出身で、今は神奈川県に住んでいる。もし仮に神奈川県民の誰かからひどいことをされたからといって、神奈川県民全員を許さないとか、けしからんなどとはみじんも思わない。それはおそらく中国人だって同じだろう。北京の人が広州でひどい目に遭ったからといって広州の人全員を恨まないはずだ。過去の戦争では、中国対日本という構図になったから、国という単位に視点が向かうのはわからなくはないが、本来は中国で悪いことをした日本人だけを問題にすべきであって、現代に生きている日本人ひとりひとりが、過去に中国を侵略するように望んだわけでもないし、日本人だからという理由で、すべてひっくるめてしまうことを妥当とする客観的根拠は何もないといわざるを得ない。逆に地球という単位で考えれば、日本人も中国人も同じ地球人という見方だってできる。何に基準を置くかによっても視点は変わってくる。それだけのことでしかない。もう少し視野を広げた価値観をもつべきだ。
 それに過去のことをいつまでも忘れないのは勝手だが、あまりに過去にとらわれてばかりでは、何の建設的な結果も生まないし、中国にとっても不幸なことだ。それは韓国についても同じ事がいえる。一部の中国人や韓国人も、ひとつの視点や価値観に凝り固まって、ちがう視点や価値観にも真実があるのではないか、ということをみじんも検証せず、政府やマスコミが煽る情報だけが絶対に正しいと盲信している。「独島は韓国のものだ」と叫んでいる連中も、おそらく韓国、日本の互いの主張を対比させて検証したことすらないはずである。もちろんそれは一部の日本人にも当てはまるが、そういう検証をした上で、やはり日本の主張は間違っているというのならいざ知らず、ただそういう主張をしている政府などの意見をそのまま取り入れて主張しているに過ぎない。そんな主張を聞き入れなければならない理由はない。

 話は変わるが、今はどうか知らないが、少し前の韓国のメディアでは、日本のことを紹介するとき、必ずといっていいほど、ひと事余計なコメントがついていた。例えば、日本の祭りを紹介する場面では、「多くの人で非常に賑わっていましたが、我が国の祭りとは異なり、センスのかけらもないようです」といった否定的な内容である。最近、日本にやってくる韓国の俳優は非常に大人に見える。むしろ日本人俳優よりも大人という印象すら受ける。だが、もし日本だけでなく諸外国に行ってインタビューを受けた時に、相手の国のことをけなし、自国の素晴らしさばかりいうようであれば、日本だろうが欧米だろうがバカにされるだけである。それなのに韓国のメディアは、ずっとそういうレベルことをやり続けてきたのである。先日の反日運動は韓国にも飛び火したが、それを理由に交流行事などを中止するようなレベルなのである。日本では、そういう韓国の対応はけしからんと、韓国人タレントの出演を見合わせたテレビ局があっただろうか。まるで子供。到底、大人の対応とはいえない。
 ここまで日本のあらゆることに関して否定的なことをいうところをみると、逆に日本に対して相当なコンプレックスがあるとしか思えない。例えば日本ではどこかの発展途上国が日本よりも劣っていると、ことさらに強調したりしないのと同じく、普通、人どうしでも、自分よりも明らかに何かについて劣っていると感じている人に向かって、わざわざそのことを口に出したりはしない。しかし、その逆の場合は、現実では勝てないのでせめて口では何とかしてやろう、という心理が働き、そういうことを口に出してしまうのである。私自身の経験でも、過去に何かにつけて、私と比較して自分の方が勝っているとわざわざ口に出すバカがいたが、私はそれに対してイチイチ反論しなかった。コンプレックスが元になっているのはいうまでもないからである。相手は自分では気づいてもいないのだが、実はそんなことをいったと同時に自分の方が内心では負けていると思っていることを認めたに等しいのだ。また何かにつけて自慢をしたがる人というのも、似たようなもの。普段、自分が思っているほどまわりの人間や世の中が評価してくれない、というフラストレーションがたまっているから、それを消化するために自らが、自らの評価を上げようとして自慢するのである。私は自慢することが多い人を見ると、普段自分の評価に満足していないんだな、と可哀想に思ってしまう。むしろ、こんなことはいわないで、勝つ努力を密かに続ける方がはるかに得策だと思うのだが。あなたは気づいていないけど、賢い人はみんなあなたの心のうちを読みとってますよ、と教えてあげたい。
 ま、今は韓流ブームとやらで、韓国人の自尊心もある程度は癒されたことだろう。これからは少しは欧米や日本なみに大人になるべきだ。だが、韓国人の中にも外国をよく知る人ほど自国の醜さに気づいている。私はそんな人が書いた本を何冊か読んだが、私がこれまで韓国について感じていたことをものの見事に指摘していて、韓国人の中にも同じように感じていた人がいたのかと、びっくりした。私にはこういう考え方、見方の方が、はるかに健全に感じる。





NHK VS 朝日新聞/2005年5月5日

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 少し前のことだが、NHKに対する朝日新聞の取材で、双方がもめたことがあった。私が感じたのはNHKの方に分があるということだ。朝日新聞はNHKの主張に対して反論会見を行ったが、その時、NHKの質問に直接は答えず、要はNHKの行為がけしからん、といったに過ぎなかった。これだけ見れば、朝日新聞の方が嘘をついていたのは明らかである。なぜなら、本当に朝日新聞の方が正しいことをいっていたのであれば、絶対に何が何であろうとも、そのメンツにかけて反証を出して反論したはずだからだ。しかるに反証を出さなかったところを見ると、出さなかったのではなく、出せなかったのは明らかである。ゆえにNHKの不祥事は置いといて、この件に関してだけいえばNHKの方に私は軍配を上げる。マスコミというのは、真実を追究してこそ、その存在価値がある。それなのにメンツの方を優先するとはどういうことか。これではメンツばかり優先して、専門家が調査を勧告しても従わない諫早湾干拓事業における農水省のバカ官僚のことを追及する資格はない。いかにも我々の方は間違っていない、という感じでなんとか部長とやらが何人も出席して、憮然とした表情を見せつけて記者会見をしても、朝日新聞がそういうメディアであるということがよくわかった。私は朝日新聞を購読しているが、この一件でつくづく幻滅した。














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