Nature
原発の是非を考えた/2011年6月11日

 今回、福島原発の事故によって、原発の安全神話が揺らいだのは間違いないし、脱原発という流れができるのは当然だろうが、現在の科学技術力では、太陽光や風力、地熱などに切り替えることで、これまで同様にいつでも電気を自由に使え、節電の必要もなければ停電の心配もない便利な暮らしが、その先に待っているとは思えない。エコで安全な発電手段に代替えしていくことは、ある程度は可能だろうが、原発による発電分を完全にまかなうのは、かなり難しいのではないか。

 確かに将来向かうべき方向としては脱原発が望ましいのは間違いないが、現状では理想的な選択肢はなく、今後、さらなる技術開発が進んで、新たな局面が生まれてくるまでの「やむを得ない手段」として原発を容認するしかないと思う。でなければ、時々、停電する不便な生活を我慢するか、脱原発によるコストを電気料金として負担する覚悟を決めるしかないだろう。いくらないものねだりしても、理想的な解決策はない。

 また、作家の村上春樹氏が、カタルーニャ国際賞受賞のスピーチで福島原発事故を広島・長崎に続く2度目の核惨事であり、「原子力は拒否すべきだった」といったそうだが、でも、過去において原子力を拒否したなら、計画停電が日常茶飯事になり、不自由な生活を送らざるを得なくなり、それどころか経済も影響を受けて、日本の経済成長の足を大いにひっぱったのは間違いないだろう。そんなことをいうと、「原子力以外の発電手段をもっと研究して導入すべきだったのだ」と決まって主張する人もいるわけだが、彼らがいうほど、それが簡単なこととは私には思えない。

 それにだ。今回、たまたま原発事故が起こり、注目されているが、まるでそれを「ほかのものにはリスクがないが、原発だけ安全神話が崩壊した」と思うのは間違いである。そもそも、安全か非安全かの境界線は一本の線で引くことはできない。それが原発でなくても、例えば超高層ビルでも、レインボーブリッジでも、新幹線でも何でもそうだが、必ず地震や台風の規模を一定の数値として想定をした上で強度計算が行われる。仮に一万年に一度という極めて稀な規模の地震や台風が起きても大丈夫なように十分すぎる余裕を見て作ることができればいうことはないわけだが、でもそうだったとしてもリスクをゼロにするのは不可能。より安全性を突き詰めれば突き詰めるほど膨大な建設費が必要になり、建設してもペイしない、つまり国の借金が増え、やがては国民がそのツケを払うことになる。つまり、今回の原発事故と同じように想定以上の災害が起これば、多かれ少なかれ大惨事になる可能性があるということだ。原発の方が影響が広い範囲に及ぶので、よりリスクがあるともいえるだろうし、福島原発の場合は、そもそも想定云々以前の問題としての人災という面が大きいとは思うが…。

 原発事故は目に見えない放射線に対する漠然とした恐怖もあって、余計に敏感になることもあるのだろうが、でも車も飛行機も同様に危険を含んでいることに違いはない。どちらがより危険か、安易に言えないが、死者数から見ると、今回の福島原発事故では間接的な理由で亡くなった人はいるものの、放射線による直接の死者は今のところいない。一方、日本国内で自動車事故による死者数は年間5千人である(かつては1万人を越えていた)。このふたつの事例を死者数からだけで単純に比較するのもどうかとは思うが、この数字だけ見ると、なぜ我々は、じわじわと身体を蝕まれて将来のリスクにつながる可能性があるとはいえ、死者がひとりもいない原発を異常に怖がる一方で、年間5千人も死んでいる乗り物を怖がらないのだろうと、自分のことも含めて疑問に感じてしまう。おそらく車は事故に対する心配はあっても、長い間身近に存在して慣れてしまっているということだろうか。それとも国民一人一人の自動車総乗車時間があまりに大きい割には、身近なところで重大な事故が滅多に起きないからだろうか。車がなければ生活できないところも多く、とにかく車が便利すぎることを身にしみてわかっているので、思考回路の別の穴に入り込んでしまって思考停止に陥っているのかもしれない。




 
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