| 評論家・西部 邁さんの自裁死報道に接して考えたこと/2018年2月12日
先月、評論家・西部邁さんが多摩川に入水自殺されたとの報道は衝撃だった。その後の関連新聞記事等を読むと、「家族に迷惑を掛けたくない自裁死」という西部さんらしい選択だったようだ。
思えば大学生の頃か、社会人になりたての頃だったか忘れたが、テレ朝の『朝まで生テレビ』に度々出演され、極めて理路整然とした意見を淡々と語られていたことが昨日のことのようだ。当時のほかの出演者は、あまり記憶にないが、西部さんの語り口は、舌鋒鋭い意見とともに、とても印象に残っている。心よりご冥福をお祈りしたい。
この報道に接して、改めて死について考えさせられた。普段、死について考えることはあまりないが、死とは、全人類に留まらず、地球上に存在する、あらゆる生物に課せられた宿命ともいえる。ただ「あらゆる生物」といっても、分裂によって増殖する細菌みたいな微生物になってくると、微妙な話しにもなってくるわけだが、高等生物においては、ほぼすべての個体に必ずいつか死が訪れるのは間違いない。
明日は、あなたにとってよい日かそうでないか。あるいは今年の世界経済がどう動くか。これらの未来のことは誰にもわからない。でも未来のことであるにも関わらず、「人間であれば、いつか必ず死ぬ日が来る」ことほど、絶対確実なことはない。つまり致死率100%というわけだ。まあ、近い将来、不老不死の薬が発明されて、劇的に事情が変わる可能性もゼロじゃないけどね(笑)。
死に対する考えは、人によってもいろいろで、「死とは無である」と考える人もいれば、信仰する宗教に大きく影響を受けている人も多々いるものと想像される。そして、かなり高い確率で、誰しも死を恐れているのも間違いないだろう。確かに一度も経験したことがないことなのだから、怖いのは当たり前かもしれない。
でも厳密にいえば、死んでしまったあとは、恐怖を認識できる脳の機能も停止したあとのことの方が多いはずであり、しかも、死んでしまった以上、何かを恐れても意味はない。なぜなら恐怖とは、生物として最大のリスクである「死」を避ける機能だからだ。その死を終えてしまったあとに、何を恐れるというのだろうか。むしろ怖いのは、自分がどういう形で死を迎えるか、だと思われる。よく「ピンピンコロリが理想」といわれるように、まったく無自覚にある日ある時、パタリと倒れて亡くなるのは、確かに理想的かもしれない。誰にも迷惑をかけず、本人も死の恐怖を味わなくてすむ。
一方、そうでなかったとしても運命という自分では操作できないことに対して、いろいろ思い悩んでも仕方ないともいえる。いくら思い悩んでも、何の解決にもつながらない。思い悩めば悩むほど、運命がいい方向に動くという事実でもあれば、どんどん思い悩めばいいと思うが、そうではない。むしろ思い悩むことでストレスが生じれば、健康にも悪影響を及ぼす。そうなってしまっては本末転倒だろう。
死も含めて運命とは、一人一人の人間にあてがわれた台本みたいなものであり、自分で背負う以外に道はない。自分の運命が気に入らないと拒否することもできなければ、誰かと運命を交換することも不可能である。人生すべてにおいて達観してしまうのが、なにより精神衛生上ベストではないだろうか。
そしてもうひとつ。私はこうも思う。死が怖いのは人間の感情としては自然なこととはいえ、本当に死の瞬間は、恐怖に包まれた地獄の瞬間なのだろうか、という疑問である。死とは、人間として極めて重大な事態であることに違いはないが、それも「この世」しか知らない人間目線の感覚に過ぎないともいえる。過去、すべての故人がみんな、その瞬間を経験してきたのも間違いなくて、進化によって類人猿から人間になって以降、その故人の総数は数百億人か、それ以上か、正確な数はまるでわからないが、それほど圧倒的な膨大な数の人間全員が、みんな恐怖に包まれた地獄の瞬間を味わっている…と考えるのもいささか疑問が残る。
もし「死とは、きっと恐怖の瞬間だ」と思う人がいたとしたら、その根拠はなんだろうか。あなたは、それを実際に体験した上でいっているのだろうか。そもそも死とは、本当に人間にとって絶望的なほどに悲劇的なことなのだろうか。もし「死とは、人間にとって絶望的なほどに悲劇的なことだ」と思う人がいたとしたら、その根拠はなんだろうか。あなたは、それを実際に体験した上でいっているのだろうか。
「だって死ぬんだよ。死ぬんだから、言葉にできないほどのものすごく絶望的な重大事態に決まってる」という人もいるかもしれないが、「死=絶望的な重大事態」という前提が間違っている可能性はないのだろうか。その瞬間は、想像もしたくないほど、圧倒的に得体の知れない恐怖の瞬間であり、絶望以外の何ものでもない…という可能性も確かにないわけではない。でも逆にいえば、その可能性は、決して100%でもない。
私が、以前本項記事「情報が少なければ少ないほど判断を誤る可能性が増す」でも書いたことだが、少ない情報を元にして見立てた答えは、正解の可能性よりも間違っている可能性の方が高い…という事実を忘れてはいけない。これは論理的に考えれば当たり前の話しで、情報が少なければ少ないほどバイアスがかかりやすく、情報が増えれば増えるほど、真の姿にピントが合ってきて、より正確な判断が可能になる。
例えば、情報が何もない状態で、答えとしてA、B、C、D、Eの5つの選択肢が考えられる場合。そこにAとDを完全に否定できる情報がひとつ得られただけで、選択肢はB、C、Eの3つに絞ることができる。さらに別の情報も得られれば、もっと選択肢を絞ることが可能となるかもしれない。つまり、すべての情報が正しいことが大前提になるにせよ、正しい情報がひとつでも増えれば増えるほど、正解を選択できる可能性は増していく。逆にいえば、正しい情報がなければ、正解を選べる可能性は極めて低いことをも意味する。
で、これも「死」に対しても当てはめてみよう。前述したように死後の情報はないに等しいのだから、人間がいろいろ想像する選択肢自体、決して信頼性が高いわけでもなく、むしろ間違っている可能性の方が高いと考える方が理に叶っている。
例えば、身近な家族など、誰かの臨終に立ち会った経験があって「死を直前にした人の言動」や「臨終の様子」は知っていても、そのあと(死後)のことは誰にもわからない。死後の人間がどうなるのか、生きている人間にとって情報はないに等しい。確かに「死とは無」かもしれないし、どこかの宗教が教える「理想郷のようなあの世」があるかもしれない。でも情報がほとんどない世界のことだけに、逆にまるで予想とは違う可能性もある。
当然のことながら我々人間は、「この世」しか知らない。自分は、人間という生物であり、ほかの人間と交流しながら社会というものを構築し、その自分が住む地域があり、国があり、地球があり、太陽系や銀河系があり、ものすごく広い宇宙に包まれている…という状況までしか知らない。
我々が「あの世」と呼ぶところが、一般的な「あの世」のイメージとはかけ離れているものの、実は現実に存在していて、その世界こそが本来の世界であり、「この世」は仮の世界という可能性もないとはいえない。我々自身が「魂」と呼ぶものこそ、本来の世界における我々の実体であり、何らかの目的のために「この世」という仮想世界において、人生というプログラムを忠実に履行しているアバターみたいなもの…と、仮に想像を膨らませてみたとしても、それを論理的に完全に否定てきる人は誰もいないのである。
私は、どこかの怪しい新興宗教を根付かせるために、その可能性が高いといって扇動しているのではない。人間が、既存の情報に影響されつつ、なんとなく想像している死後の世界とは、まったくかけ離れてはいるものの、死後の世界が現実に存在する可能性だって、あり得るといいたいのだ。
死の瞬間を迎えた人は、もしかすると「あれ!? 死ってこれだけなの!? うわ〜。想像していたことと全然違うじゃん。しかも死んでいるはずなのに意識がある!? えっ!? 死後も意識が残るなんてビックリだな〜!!」と思ったかもしれない。もちろん、それもたくさんある可能性のひとつに過ぎないけどね。
死は怖いものかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。ちょっとだけ思うのは、自分の死により、本当に死後の世界があるのかどうか、自分でようやく確かめられる機会ともいえ、それはそれでちょっとワクワクするのも事実。だからといって決して死に急ぎたいわけでもないが、あまりに深刻に考え過ぎるのもバカらしいとも考えている。まあ、私は死に直面したことすらないので、そんな呑気なことをいえるのかもしれないけどね。相当に変わってるって!? まあ、仰る通りかもしれませんね〜(笑)。
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