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広島平和記念式典の際に拡声器でデモ行進する団体と「表現の自由」について考えたこと/2020年9月25日

 他県の人はあまり知らないだろうが、毎年8月6日の広島平和記念式典の最中に周辺で拡声器を使ってデモ行進する団体が存在する。今朝の朝日新聞・広島版ページに市が行った、デモに関する式典参加者へのアンケート調査の結果が掲載されていた。
 私の感覚からいえば「実に困った人たち」という印象しかないが、彼らの主張は反核・反戦と現政権への抗議で、8時15分の黙祷の時間を除いて拡声器やシュプレヒコールの声が式典会場にも響く状況にあるという。

 デモを行っているのは旧国鉄の機関士が中心となって構成する国鉄西日本動力車労働組合などの4団体で、市は2014年から拡声器の音量を下げることや行進ルートを変更するように要請しているが昨年までは聞き入れられない状況が続いていたらしい。
 昨年行われた市が無作為に抽出した市民3000人に行ったアンケートでは、デモに対して条例で規制すべきが69%だったが、今年は団体が拡声器音量に配慮したことから「式典に影響はない」とする割合の方が増えたとのことた。ただしコロナの影響で参列者に限ったアンケートになったため、わずか54人の回答結果というのは頭の隅に置いておく必要がありそうだ。
 
 「現政権への抗議」ということは、安倍前総理が登壇して挨拶をしている時は特に拡声器の声が大きく響いていたのかもしれないが、原爆で亡くなられた方々を慰霊する場にふさわしくない「騒々しい行為」と思うのは私だけだろうか。

 もともと全国規模で見渡すと、民間の戦争被害が甚大だった場所や、大都市圏から離れて戦後復興が遅れた地方というのは、どちらかというと反政府という思想傾向になりやすい土壌を有していると思われ、広島や長崎、あるいは沖縄なんかはまさにその典型といえるかもしれない。

 少し話しが反れるが、以前、本サイトの日記でも書いたように広島の原爆投下時。軍部はヨーロッパにいた日本海軍駐在武官から事前に寄せられた「アメリカによる原子爆弾攻撃とソ連の対日参戦情報」は把握していて、しかもその後、B-29わずか3機からなる「特殊任務機」がテニアン島を飛び立って日本に向かっていることも知りながら何もしなかった。しかもその3日後、同じ特殊任務機3機が長崎に向かっていることも知りながら、やはり何もしなかった…とされる。高々度から爆弾を投下するB-29を撃墜するのは容易ではない? しかし当時、配属されていた日本軍の最新鋭戦闘機・紫電改なら撃墜も不可能ではなく、存命されている紫電改の元パイロットが、もし「原爆投下を阻止せよ」との命令が下れば自分は命がけでB-29に向かっただろうと、無念そうな表情を浮かべながらインタビューに答えられていたのを見たことがある。

 あまり適当なこともいえないが、もしこのことが事実であれば、心から信頼し尊敬していた人物に裏切られた…みたいな強い失望感を国に対して抱くのも理解できないことではない。戦中には挙国一致で国への協力が強制されたにも関わらず、結局、国は国民を守ってくれなかったではないか。守っていたのは天皇だけだったのではないか…という不信感。
 反戦・反核という、左寄りの発想をする人の中には、こうした国や政府に対する強い失望感があるのだろう。その気持ちも少しはわかる。でも私が思うのは、当時も政府や軍の高官全員が好戦派ばかりではなかったし、当時の政府と現在の政府を同じ政府としてひとくくりにするのもどうかと思うね。

 上記について、あくまで私の想像だが、当時の軍高官は「アメリカが新しく開発した原子爆弾という新型爆弾で日本を攻撃しようとしている」ことは理解していたが、その新型爆弾が、たった一発でひとつの都市を壊滅させるほどの威力があるとは、さすがに想像もしていなかったのではないか。テニアン島から特殊任務機3機が日本に向かっていることも把握はしていたが、たとえ原子爆弾を積んでいたとしても、3機でできることはどうせ知れている…と甘く見ていたのかもしれない。ただ、この言い訳は広島には通用するが、長崎には通用しない。 

 私は、広島平和記念式典のデモは、ちょっと前に安倍前総理が街頭演説した時に大声で「アベヤメロ!」などと抗議の声を上げて演説妨害した人たちをどうしても連想してしまう。彼らは決まってこういう。「表現の自由だ。政権を批判して何か悪いのか」と。確かにそうなんだけど、「表現の自由」とは何にでも言い訳に使えるわけではない。いくら「表現の自由」といっても、他人を誹謗中傷する内容なら道義的にも法的にも、日本社会では確実にアウトになる。つまり「表現の自由」にも条件がある。絶対的な免罪符では決してないということだ。

 安倍前総理の政策は間違っている。自分は断固反対する。そう思うのもそう主張するのも全然OKだ。ただし、その主張をするために何をしてもOKというわけではない。「表現の自由」という錦の御旗を掲げれば何をしてもよいと自分たちに都合のいいように解釈するバカが多いのも実に困ったものだが、表現の自由のためなら何をしてもよいのなら、もちろん誹謗中傷もOKということになるし、深夜の住宅街で拡声器を使って政権批判をするのもOKということになる。でもそんなことを認める人は誰もいないだろう。

 以前、安倍前総理の街頭演説で大声を出して、警察官に強制排除された男性が、排除した警察官相手に裁判までしたが、却下されたことがあった。男性は「政権を批判することが認められないのはおかしい」と仰っているらしい。確かに「政権を批判するのは当然の権利」という部分は別に間違っていない。でも自分が、安倍さんの演説を聞きたいという人の、演説を聞く権利まで奪っていることには、まったくお気づきになっていないのだろう。この男性に自分の意見を表明する権利があるのと同時に安倍前総理にも当然、同じ権利があるし、そもそも総理大臣という立場上、自らの政策をきちんと国民に伝えるのはむしろ安倍さんに課せられた義務でもある。それを妨害することが許されていいはずがない。安倍批判をしたければ、SNSで発信するとか、ブログに批判記事を書くとか、どうぞいくらでもご自由に…である。政権批判は一切してはならないと誰もいっていない。

 もっといえば、こういう人たちは結局、メタ認知能力に徹底的に欠けているのだろう、と私なんかは想像している。自分の脳ミソが出した答えは絶対に正しいと思い込む人は、共通してメタ認知能力が低いがゆえの結果であることも多い。わかりやすくいうと(こういう表現は適切ではないかもしれないが)、バグがあるPC診断プログラムをインストールされたPCが、診断プログラム自体に存在するバグを見つけることは物理的に不可能みたいな話しなのだ。
 重要なのは、バグが含まれたプログラムを有するPCに問題がないかどうか検証できる、より高次のマザーPCみたいな視点をもつことだ。PC自らがPC内のバグに気づくことはできないが、客観的に検証できるマザーPCがあれば、それを見つけられるというわけ。このマザーPCみたいな視点が、人間でいうところのメタ認知能力である。
 また、こういう人たちに共通するのは、反対意見は見たくもないし聞きたくもなかったりする。だから同じ意見の者どうしでまとまり、自分たちに都合のいい意見だけを取り入れてばかりなので、ますます自信を深めて、より集団極性化していくのだろう。

 念のためにいっておくと、私は、彼らの頭の中だけにバグがある…といっているのではない。人間であれば誰しもバグみたいな落とし穴があり、誰しもバイアスに結びつく可能性がある。だからこそ、自分は絶対に正しいと思ったことでも、ひょっとして自分が間違っている可能性はないのかと冷静に自問自答することを繰り返せる人だけが、正しい答えに到達できる可能性が増すものだと考えている。彼らは本当に自問自答を繰り返して、その結果を導き出したのだろうか? 正直、疑問に思うね。




 
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