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「イスラム教徒には何をいってもいいが、LGBTには配慮せよ」この矛盾は何に起因するのか/2018年10月3日

 前回記事に書いたことに補足したい。シャルリー・エブド襲撃事件と『新潮45』休刊における国内メディアの論調は、すでに書いた通り、私には矛盾しているようにしか映らない。つまり、わかりやすくいえば、「イスラム教徒には何をいってもいいが、LGBTには配慮せよ」…ということになるわけだが、これがおかしいのはいうまでもなかろう。この矛盾は一体何に起因するのだろうか?

 私は、国内メディアの論調の矛盾は、欧米社会の矛盾をそのまま反映したものに過ぎないと考えている。ヨーロッパでは、表向き公言しなくてもイスラム教徒は理解しがたい存在であり、実のところ侮蔑の対象でもあり、彼らが「異教徒」と呼ぶ際に真っ先に頭に浮かんでいるのもイスラム教徒であり、またヨーロッパからの移民の子孫であるアメリカにおいても911のようなイスラム原理主義者が起こした凄惨な事件などもあって、同じような敵対感情や差別感情がもともとあったのだろう。欧米社会においては、十字軍以来の歴史的背景から、これが彼らのドグマとなっていることは容易に想像できる。

 そのためシャルリー・エブド銃撃事件は、比較的リベラルな欧米世論でも自分たちも実は同じくどこかで見下していたイスラム教をおもしろおかしく風刺した新聞社寄りとなって「言論の自由を守れ」と叫ばれた声の方が圧倒的だったのだろう。一方、LBGTの問題に関しては、欧米社会において理解が進んでいるのは、あくまでまわりのLGBTが同胞だからだろう。彼らからすれば、同胞でもない異教徒であるイスラム教徒を理解することよりも、同じキリスト教徒のLGBTの方が理解しやすいのはいうまでもない。

 一方、日本人は、明治維新以降、「進歩的な考えはすべて欧米から来る」というドグマに支配されている。いわば世界的存在感がある欧米さんの考えに合わせておけば、それこそがきっと正しい…みたいな国際的な事大主義者が多い。わかりやすくいうと、実はそういう正体でしかないインテリ系論者は、いろいろご立派なことを唱えてはいるが、要は自分では何も考えてはいないのだ。「LGBTを認めるのが国際的にも新しい流れ(=実は欧米社会の流れに過ぎない)なのに、君はそんなことも認識していないのか」みたいに自分は意識高い系を気取ったりしてはいるが、自分では何も考えてはいないからこそ、こういう矛盾が生まれてくるわけだし、こういう矛盾に対して鈍感だったりする。

 つまり、国内メディアの論調の矛盾は、欧米社会の矛盾をそのまま反映したものに過ぎない…と私は考える次第である。ちなみに前回記事「杉田水脈論文と『新潮45』の休刊」は、これまでの記事と比較してもアクセスが多かった。みなさんのホンネまではわからないが、関心の高さが伺える反応だった。




 
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