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AERAのネット記事「山岳写真家が感じるジレンマ」を読んで感じたこと/2018年8月20日

 昨日、AERAのネット記事「団塊世代の写真愛好家『急増』でトラブルも増加? 山岳写真家が感じるジレンマ」を読んだ。山岳写真家・菊池哲男さんのインタビュー記事で、菊池さんの指摘はおおむね正論だと思う。しかし、その一方で認識のズレも感じた。

 この記者だけでなく、おそらくご本人も含めて一般の人と同様に「山岳写真家=山岳地の自然環境に詳しい」みたいに勘違いされることも多いと想像するが、彼らが勝手に思い込んでいるほど、ほとんどの山岳写真家に山岳地の自然環境云々について正確な判断ができるほどの知識はない。彼らが詳しいのは写真知識に加えて現地情報の知識や登山知識であり、あるいは人により動植物に関する知識がそれに加わるくらいである。

 ご本人のサイトを見ると、菊池さんは立教大学理学部卒らしい。理系の方なので、自然や生態系について実は何もわかっていないにも関わらずわかった気になっていることも多い文系の人みたいなことはまずないだろうが、理学部でも物理学科。生態系や生物全般の知識は、生物系学部出身者のようにはお持ちではないだろう。ほとんどの主張に違和感はなく、むしろ「その通りだな」と思いながら読んだので、一部それを疑わせる発言があったのは、少し残念だった。

 冒頭「写真愛好家の撮影マナーが問われている。人物が被写体なら肖像権などを盾に撮影を拒むこともできるが、抗弁もせず、黙々と撮影愛好家を受け入れ、自分の身を汚し、時に命を絶つのが自然界の生き物である」と記者が指摘していたが、この部分は、まさにその通りである。
 また菊池さんは、カナダのアシニボイン山にトレッキングに行った際、現地ガイドから「花畑を好きに歩いてもいい。ただし、一列で同じ場所を歩いてはいけない。1、2人が花畑を歩いたところで自然の回復力のほうが強いから大丈夫だ」と言われた経験を例に出されていて、これはとてもいい指摘だと思った。要は「花畑の立ち入りOK or 花畑の立ち入りダメ」という二分法的な視点ではなく、「自然の回復力以内なら立ち入りOK」という定量的な視点が重要ということだ。管理者を常駐させられない場所で、こうした基準を設定するのは無理にしても、本来は環境保全を考える上で必要な視点なのだ。日本の自然愛好家やアウトドア愛好家(登山者も含めて)は、往々にして発想が二分法的になりがちであり、こういう定量的な視点が欠落しがちなので、この指摘は大変有益といえるだろう。
 ついでにいっておくと、本当に困ったことに一般登山者は、踏み荒らしとか盗掘とか、そういう自分が理解しやすいことには、必要以上にやたらと敏感だが、少し難易度が上がると、途端に無反応になったり、判断がズレまくったりするのも事実である。しかも、全体のバランスという視点で見れば、実はハチャメチャであるにも関わらず、誰一人それに対して正しい自覚すらない。はっきりいって、みなさんには自然環境への影響を正確に評価する能力さえもない…という現実をご理解されておく方がいいだろう。

 ちなみにこの記事では「花畑」とあるが、おそらく菊池さんは「お花畑」と仰ったと思う。それなのに記者が「お花畑」なんておかしいと勝手に「お」をとってしまったのだろう。実は「お花畑」は、れっきとした植物学用語であり、高山植物群落のことを指す。高山帯のフロラ(植物相)に関する文献(論文)では、普通に「お花畑」という言葉が出てくるし、人工的な花壇みたいな意味合いが強い「花畑」とはまるで異なる。こうした勘違いは、出版業界にいる私もこれまで繰り返し経験しているので「あぁ、またか」としか思わないが、せっかく菊池さんが正しく「お花畑」と仰っているだろうにも関わらず、記者自身が記事レベルを落としてしまっていると想像する。

 ところで私は、例えば尾瀬ヶ原みたいな高層湿原で、木道から外れて湿原に踏み入ることは一切しないが、道が通じていない誰も来ない湿原を訪問した際は、その湿原の表面の状態にもよるが、湿原内にドカドカ踏み込むことは普通にしている。さすがにミズゴケが厚く堆積し、足を置いただけで深く沈み込むようなフワフワの湿原には入らないが、そうでなければ平気で踏み込んでいる。二分法的発想しかできない人には矛盾していると映るかもしれないが、別に矛盾でもなんでもないのだ。なぜ、それが問題ないのか。それはアシニボイン山の現地ガイドがいっていることと同じだ。多少表面の植物を踏んでしまったとしても、人間が滅多に来ない場所だけに自分の踏み荒らしダメージよりも自然の回復力の方が上回るからである。もちろん表面に希少植物があれば回避するのはいうまでもない。

 その一方で問題なのは次のようなこと。写真愛好家に限らず、自然愛好家やアウトドア愛好家、登山者も含めて、表向きはみんなカッコ付けて誰しも「自然は大切にするべきだ」と口では言うが、「少しでもきれいな写真が撮りたい」みたいな自己の欲求が絡んでくると、途端に欲求の方が優先され、自分に都合よく「自分の楽しみに関しては例外」「これくらいは問題ない」と思ったりするものである。

 これは多少なりとも誰にでもいえることで、そもそも人間という存在自体が、自然環境の中では異質であり、この記事でも指摘しているように少数なら問題なくても数が増えれば増えるほど、どうしてもオーバーユースの問題につながってしまう。それは、たとえひとりひとりがどんなにマナーを守っても問題が生じてくる性質のものだ。しかも、人間の場合、加えてやっかいなのは、記事でも触れているように必ずそこに「経済要素」がついてまわることである。

 例えば、山岳地の自然環境を守ることに尽力している山小屋があったとして、それはそれで立派なことではあるが、一定以上の利益を出さなければならない営業小屋としては、登山者が泊まってくれなければ喰っていけない。しかも宿泊者が多ければ多いほど利益になるわけだから、仮にこの山小屋がオーバーユースが懸念されている山にあって、実際には登山者がまったく来なければ非常に良好な自然状態へと回復することが見込まれても、登山者に「自然環境を守るためには来て頂かない方がいいです」なんてことをいうわけがない。

 つまり、私も含めて山や自然で喰っている人全員が矛盾を抱えているわけであり、より多くの人に山や自然に触れてもらい、この環境の素晴らしさを理解してもらうことは確かに長期的にはいいことだろうとは思うが、それは同時に日本のどこかのエリアでオーバーユースにつながることをも意味する。また山や自然を愛好する人が増えれば増えるほど、中には自分に都合がいい解釈を持ち出して行政に対してゴリ押しする人も出てくるわけだ。それは、私が徹底的に批判している犬連れ登山を例に出すまでもない。あるいは今、はやりのトレランも犬連れ登山ほどではないにしろ、そもそも自然環境にどんな影響が及ぶか判断する能力のカケラもない文系の人たちが、自分たちの楽しみを失いたくない一心で「トレランは問題ない問題ない」とゴリ押ししてくるという意味では似たようなものだ。

 そもそもオーバーユースが懸念される人気の高い山やコースを繰り返し特集で組むような山岳雑誌、あるいは根強い反対があり、自然環境への悪影響もまだ不明な点が多いトレランを平気で宣伝するメディアが厳密な意味で環境保全を真剣に考えているとは思えない。本当に自然環境を第一に考えているというのなら、なるべく人が集中しない特集を組む努力をするはずだからである。表向きはカッコいいことをいくら言おうと彼らの頭に一番にあるのは、その売り上げであり、この記事の菊池氏プロフィール欄にある「専門誌『山と溪谷』『岳人』のほか、本誌『アサヒカメラ』などでもおなじみ」の中で一番に挙げられているヤマケイも別に例外ではないのだ。

 ヤマケイについては、いずれ私が知っているありったけのことを書きたいと思うが、ヤマケイが自然環境を常に第一に考え、もし日本のどこかの山で環境に悪影響が懸念される問題が発生すれば、たちまちフェアな視点から的確な記事にまとめあげて世に問うはず…と思っていたら大間違い。ヤマケイは、自分たちのメンツに関わること、都合が悪いことは無視するし、希少植物の盗掘や踏み荒らしみたいな、薄っぺらい登山者が理解しやすい問題をやたら好み(自分たち自身が理解しやすいことも大きいと想像される)、しかもそれを取り上げることでヤマケイの株が上がるような、自身にメリットがある問題しか取り上げない。ヤマケイは、いくら自身にデメリットがあっても、それでも敢えて自然環境保全の方を優先するような気骨なんかまったくない。
 というか、どんなに知ったかぶりして偉そうなことをいっても結局のところ、ぶっちゃけ自然や生態系について実は一度も学んだこともないヤマケイの文系編集者に山岳地の環境問題を先進的に嗅ぎ分けて問題提起するようなことができるわけがないのだ(=ヤマケイは、自然や生態系、もっといえば科学の基礎すらまるで理解していない)。これがヤマケイの正真正銘の実態である。もし、そのヤマケイで仕事をしている菊池さんが、それに気づいておられないのであれば、それはヤマケイに問題がないからじゃなくて、菊池さんがいくら理系でも生物系学部出身ではなくて物理学科出身だからとしか思えない。

 それはともかく。おそらくほとんどの人は、自分に都合いい基準を勝手に設定し、一方で自分の基準に合致しない他人のすることは問題に見えてしまうのも間違いないだろう。それでも山や自然に関してある程度の知識や経験がある人であればまだいいのだが、この記事が指摘しているような「急増している団塊世代の写真愛好家」となると、的確な判断を期待しても無駄だろう。急増しているということは、ほとんどの人が、知識も経験も未熟ということであり、でも将棋や囲碁、あるいは剣道や柔道の「段級位制」みたいな、その人のレベルを計るわかりやすくて客観的な基準すらないので、どんな素人でもいっぱしを気取りやすいのが、この世界の特徴でもある。ネットでちょろっと知識を仕入れただけで、もう自分は、いっぱしのつもりで自信満々に意見を主張したりするわけだが、こういう方々の的外れな主張は、むしろ問題をめんどうにするばかりでメリットはほとんどない。あたかも多くの人に意見を聞くことがいいことのように勘違いしないことだ。彼らは意見を聞かれれば、自分の意見にも価値があると勘違いする。その軌道修正は、結構やっかいだ。



 最後になったが、この記事の唯一残念な部分。それは以下の記述だ。


  人が足を踏み入れなければ、自然は手つかずのままで守られる。   

  だが、菊池さんは「人が感受できなければ、そこは存在しないに

  等しいのではないか?」とも感じている。




 まあ、なんとも山岳写真家らしい発想である。つまり自然を被写体としか見ていないとしか思えない。おそらく菊池さんは、「生態系サービス」という用語やその意味をご存じないのだろう。人間が入れない手つかずの自然があったからといって、それがイコール人間には無意味ということにはならない。人間が入れないことで健全な自然環境が保持できるとしたら、それにより表向きメリットはなさそうに見えても、例えば生物多様性が維持されるなどして巡り巡って人間にもいい利益(生態系サービス)が返ってくる。人が直接感受できなくとも、存在しないに等しいことにはまったくならない。
 勘違いしてはいけないのは、自然環境は別に人間のためにあるわけではないということだ。おそらく、この菊池さんの認識を生物系学部出身者が知ったら、一様に驚くと思う。本当のことをいって申し訳ないが、結構低レベルな認識といわざるを得ない。

 こういう事例を見れば、山岳写真家とか山岳雑誌とか、一般にはいかにもなんとなく権威に近いものと勘違いされがちな存在が、割と容易にバイアスがかかる実態をご理解頂けるのではないだろうか。みなさんが無条件に「なんとなくスゴそう」と思っている、こういう人たちは、残念ながらみなさんが思っているほどの知識や能力はない。これは、山岳雑誌をまとめあげる編集者としての能力とか、山岳写真家としての能力とは、まったく別次元の話しだ。

 もっと率直にわかりやすくいえば、日本の自然環境を取り巻く人的環境は、実は「極めてお寒い状況にある」というのが正しい。非常に残念なのは、この「お寒い状況」の中に、自称「山と自然のトップブランド」のヤマケイも含まれているという事実である。そんなヤマケイの実態を知りもせず、日本の登山者のみなさんは、ヤマケイこそが山の世界の天井だと思い込んでいる反吐レベルである。正直いって救いがたい。しかも、そんなレベルにも関わらず、多くの登山者が揃いも揃って「自分は山や自然に詳しい」と胸を張っているわけだから、私なんかは余計に反吐が出そうだ(笑)。

 つまり一般の人の勝手なイメージとは裏腹に、我が国では自然を取り巻く人々が一見立派そうに見えて、確かに、ある視点ではそれなりにスゴイ部分もあるかもしれないが、別の視点で見ると、その分野に精通している人からすれば「呆れ果てる」ほどの極めて低レベルなのもまた嘘も誇張もない紛れもない実態としてあり、菊池さんはまだかなり的確なほうだと思う。
 生態系について一度も学んだこともない、というか科学リテラシーすらもないズレまくりの人が、自分はどこそこの山に詳しいみたいなどうでもいいようなことを自信の背景に据えて、専門家気取りで偉そうな的外れ記事を書いている例はゴマンとある。それが日本のアウトドア界や山岳界の紛れもない現状といえる。


AERAのネット記事「団塊世代の写真愛好家『急増』でトラブルも増加? 山岳写真家が感じるジレンマ」↓
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