| 早稲田大学教授による研究費の私的流用事件/2006年6月26日
早稲田大学理工学術院の女性教授による国の研究費私的流用事件は、一流大学の教授がここまでするか、と唖然とさせる事件である。この教授は文部科学省から同大学宛に振り込まれた遺伝子解析プロジェクト研究費の一部900万円を教授個人名義の投資信託口座で運用していたのだそうだ。しかも問題がニュースになったその日のうちに大学側は研究費の私的流用を記者会見で認めているのに、テレビ局の記者に追及されると「私的流用はございません」と平気で嘘をつく。そもそも公的なお金を個人的に流用する、そのモラルのなさにも驚く。最近はこの事件だけでなく大学教授による女子学生へのセクハラもたまにニュースになるし、そういえば早稲田大学では以前「手鏡」でさらに有名になっちゃった教授もいたな。「一流の肩書き」をお持ちなのであれば、それに見合ったモラルもお持ちになっていて然るべきと思うのだが、最近はそんな常識も通じない「一流の肩書き」の持ち主も増えてきたようだ。
私は出版社に勤務した折、それこそ東京大学医学部、京都大学理学部などをはじめ、さまざまな国公私立大学や研究機関の先生方と接する機会が多かった。私が原稿などでお世話になった先生方は、確かにきちんとした人ばかりだった。むしろ今となっては世間知らずの20代のペーペーの編集者とよく対等につきあってくださったと申し訳なくなるほどだ。出版社をやめて現在の仕事をするようになったあとも、たまに大学の先生にお世話になることがあるが、そんな先生方も常識人ばかり。だから大学のすべてがモラルハザードというつもりはないのだが、常識が通用する先生ばかりではない、ということは残念ながら実際いえることだ。特にこのニュースのように呆れる話にも時々接する。
これはその出版社での体験。某有名私立大学教授のゼミの学生さんから、ある時電話をもらった。「うちのゼミの○○教授が本を出したいとおっしゃっていまして、その原稿をお持ちしたいのですが」という。普通、この手の話は教授本人から直接話しがあることが多いのだが、ゼミの学生が電話してくるのも不思議に感じた。実現性は低く、あまり気乗りしなかったが、見るだけならと持参してもらうことになった。約束の日、電話をかけてきたゼミの学生が会社まで持ってきた。原稿には「ゼミの○○さんに託しますので、ご検討ください」という教授の手紙がついていた。教授としては、出版社に原稿を持ち込み編集者に会ったりするのも絶好の社会勉強とあくまで老婆心からの指示だったのかもしれないが、仮にその本が刊行になったとしてその印税は教授個人の収入になる。本には○○大学教授として載っても、それは教授のアルバイトみたいなものだ。そのアルバイトにゼミの学生をたとえ半日でも使うのはいかがなものか、と私は感じた。これが公私混同でなくて何だろうか。結局、企画は通らず丁重にお断りしたのだが、その学生さんに電話でお話しすると「まさか」という反応だった。有名大学教授なら出版社も喜んで本を出すとでも思っていたのだろうか。大学の名前だけで本の売れる売れないが決まるのなら、世の中の出版社はみんな東大や京大の先生に頼む。そんなに単純なことで決まるのなら、逆に誰も苦労はしないよ。
もうひとつ。出版社での経験ではないが、私がある人から聞いた某大学名誉教授の話。その先生は一見物静かな学者風なのだが、やはり公私混同の多い人で、とにかく「お金」に汚いということでまわりにはよく知られていた。大学を退官したのち、元自分の下にいた先生が結婚されることになったとき、両家のご家族どころかご本人も了解されていないのに勝手に何の利益関係もない、ある民間会社に費用の一部を出させようと画策されたり、とにかく理解を超えた行動の多い人だった。また、その先生は自慢話をするのが何よりお好きで、ある時、自分はいかに年金が多いかという話しをいきなり始められたそうだ。まわりの同年代の人たちは、大学教授の年金はそんなにいいのか、と聞いていたという。それくらいで止めておけば「自慢話」で完結したのだが、さらに具体的な金額までも出して自慢話を続けられたそうだ。聞いていた人はみんな黙っていた。なぜなら、その中に誰ひとりとして先生の年金よりも低い金額の受給者はいなかったからである。実はお笑いで終わったのだが、ご本人だけは満足してお帰りになられたそうだ。この先生はご存じないようだが、サラリーマンの年金は公務員の年金よりも掛け金が高い分、高額だ。それを知っていれば、いい恥さらしをしなくてすんだのだが。この話を聞いて、私はこの先生は大きな勘違いをされているように感じた。そんな人だから大学にいたときも、おそらく尊敬はされていなかったろう。ひょっとすると「自分はほかの教授と比較して、どうして人望がないのだろうか」と疑問に感じられていたかもしれない。賢い人はそこで自分に何かが不足していることに気づくのだが、この先生はそこではなく民間会社にパラサイトして自分の力で会社がこれだけのことをした、ということで自分自身を誇示する方向にしか視点をもてなかったのだろう。そんなことを繰り返した結果、さらにまわりの人が離れていくことに気づきもしないで。そもそもまわりから尊敬を集めるような人は、聞かれもしていない話を自分から積極的に自慢したりしない。人望がない、だから何とか自分の価値を高めたいという心理から自慢話をしたくなるわけだが、賢い人というのはそれくらいのことを読み切っている。結果として、むしろ尊敬を集めるどころかさらに軽蔑されて終わりなのだ。本当に哀れな先生だ。
実はこの程度の話をほかにもいろいろある。例えば某大学理学部教授の話。ある時、その先生は学生を引き連れて、あるお宅のパーティーに出席して、しこたま飲み食いされたという。まぁ、そこまではいい。問題なのはそのあとだ。学生たちは帰り際、そのパーティーの主催者である家の人にちゃんとお礼を言って帰ったそうだが、肝心要のこの教授は礼もいわずに満足してさっさと帰ってしまったという。世の中の幼稚園児、小学生ですら、よそのお宅で「およばれ」したら、「ごちそうさまでした」とか「ありがとうございました」くらいはいえる。この大学教授は肩書きだけはご立派だが、人間としての中身は幼稚園児以下としか私には思えない。うっかりというレベルの話じゃないし、実はこの教授にはほかにも呆れる話がいろいろあるのだ。「うっかり」じゃなくて、「やっぱり」なのだ。つまり大学教授にも人間としてピンからキリまであるということだ。そもそも大学教授という肩書きからは研究のレベルがある程度以上あるということがわかるだけで、実はそれが人間としてどうかという判断基準には一切ならない。そこを勘違いしてはいけない。もちろん先にも書いたように立派な先生も私はいっぱい知っている。重要なのは肩書きだけで判断を下すのではなく、やはりその人自身をよく見極めなければ人間としての中身は判断できないということだろう。世の中には「肩書きに弱い人」というのがよくいるけど、そんな人は詐欺にもひっかかりやすいだけでなく、私にいわせれば単に「思考停止」と思わざるを得ない。
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