| 杉田水脈論文と『新潮45』の休刊/2018年9月26日
2018年10月号に掲載された記事「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」が批判され、休刊に追い込まれてしまった『新潮45』。その報道を読んで私が思ったのは、次の通り。
『新潮45』の編集長も頭が悪いな。ああいう物議を醸すことがわかりきった記事を載せるんじゃなくて、LGBTを揶揄する風刺画だけにしておいて、批判されたら、こう言えばいい。「私はシャルリー」と(笑)。あれっ!?「私はシャルリー」といえば、何でも許されるんじゃなかったっけ!?
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フランスの新聞社シャルリー・エブド襲撃事件では、少なくとも日本の報道を見聞きする限り、やたらと「言論の自由を守れ」的な論調が大勢を占めていたような気がするのだが、今回と何が違うのか疑問に思うね。もちろん異論に対して殺害という手段を選ぶなんて論外中の論外なのは確かだし、風刺画と記事という違いもあるにせよ、批判対象がイスラム教からLGBTに変わっただけだろ。イスラム教徒には、相手がどんなに傷つこうが、それよりも「言論の自由」「表現の自由」が優先されるのに対して、LGBTには腫れ物に触るかのように対応が一変するのもどうなんでしょう?
念のためにいっておくと、私は、あらゆるものに対して「言論の自由」「表現の自由」を声高に主張すべきではないと考える者である。シャルリー・エブドの風刺画には、イスラム教徒が最も尊敬する預言者ムハンマドを冒涜してまで主張すべき真理が本当にあったのだろうか、ということである。相手がどんなに傷つこうと頭に血が昇ろうと、社会全体の利益の方が優先される場合も確かにあって、その時は「言論の自由」「表現の自由」を貫徹してもいいと思うのだが、シャルリー・エブドの風刺画にそれがあったのか、極めて疑問だ。そこにはイスラム教を見下す意識しかないのでは? それをおもしろおかしく風刺画にしてしまうことを「言論の自由」や「表現の自由」という言葉で正当化してはいけない。
ところで杉田議員の「生産性」という言葉は、直接的過ぎてえげつないが、彼女がいいたかったのは「少子化が叫ばれる中、LGBTは好ましいことではない」「必要以上に優遇して、こういう人たちが増えると、ますます人口減に拍車がかかって日本という国家としてはゆゆしき問題」ということだったのではないか。「生産性」という言葉に傷ついた…という批判もいっぱいあったが、同じく確実に「生産性がない」私は、別になんともなかったけどね。面と向かって私個人にいわれたわけでもないし、ある意味、日本の人口維持に寄与していないのは事実であり、こんな程度でイチイチ傷ついていたら、バカの巣窟である社会を生きていくことはできないね(笑)。
LGBTの人たちは、犯罪でもないし、人に迷惑をかけるものでもないし、ご本人たちの嗜好の問題だから好きにすればいいとは思う。私のまわりには少なくとも表向きは一人もいないが、仮にいたとしてもわざわざ彼らが傷つくような言葉を直接投げかける必要もないし、たぶん普通に接するだろうと思うが、こういうことは過度に優遇すべきでも推奨すべきでもないし、ご本人のみなさんも陰に隠れるようにして生きていくこともない替わりに、逆に必要以上に大っぴらにすることでもないのかな…とは思うね。
LGBTの人たちが傷つくことを懸念する意見もあるけど、それくらいの言動って、世の中にいくらでもある。「デブでハゲのおっさんは気持ち悪い」はOKだが、「LGBTは気持ち悪い」はなぜダメなのか? 「LGBTを認めない」という意見があっても、それは個人の自由であり、欧米の社会通念に影響され過ぎて、いかにも「LGBTは社会全体で認めるのが新しい考え」みたいな、要は空気しか読んでいない人たちが、こうした「自分はLGBTを認めない」みたいな意見でさえ、徹底的に批判するのは筋違い。LGBTの人たちが傷つくことを必要以上に言いつのるのはダメだが、それくらいのことを思うだけなら人それぞれ自由だろ。
ちなみにかつての田母神論文もそうだけど、どうしてマスコミは、この手のタダの寄稿文を「論文」と表現するのが好きなんだろうな? どこにも「論文」の要素がねぇーじゃんか。とりあえず『新潮45』の記事タイトルに合わせておいたが、実は結構な違和感があることは断っておく。
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