| 尖閣ビデオ流出で考えること〜法律や規則よりも真理の方が優先される〜/2010年12月22日
尖閣ビデオを流出させた海上保安官・sengoku38氏が、停職処分になりそうだとか。国民から圧倒的な支持を得る一方、「公務員としてあるまじき行為であり、こんなことが許されては組織が成立しない」という批判も根強くあるようだ。この批判意見にも確かに一理はある。個人的な考えで組織に逆らうことが頻発しては組織どころか国家も成り立たないだろう。それは間違いない。ただ、その一方で、常に組織や国家が正しい判断をするとは限らないのも事実だ。
sengoku38氏が名乗り出たあと、テレビ番組で漫画家の黒鉄ヒロシさんが、ナチス・ドイツから迫害を受けたユダヤ人6000人にビザを発給した杉原千畝氏を例に出して擁護されていたが、まったくその通りだと私は感じた。日本のシンドラーとも呼ばれる杉原千畝氏は外務省や外務大臣にビザ発給許可を願い出るが、許可されず、悩んだ末に独断で発給を続けたことで知られている。現在、この杉原氏の行為を「本省や大臣の指示に従わないのは公務員としてあるまじき行為」と断罪する人が果たしているだろうか。多くの人は、6000人のユダヤ人を救ったことに賞賛の声をおくるのではないか。
つまり「組織の方針や法律に従わないこと=許されない行為」ではなく、確かに組織の人間である以上、安易に自己の信念を貫いて暴走すべきではないとはいえるが、個別事案によって評価は異なるといわざるを得ない。
世の中には、残念なことに法律や規則を判断の最上位に据え置いている「法律至上主義」みたいな視野狭窄的な人がよくいらっしゃる。もし社会の問題や矛盾を即座に吸い上げて、常に完璧な形で法律が修正されるしくみでもあれば話は別だが、現実の社会ではそうなってはいない。つまり法律にしろ規則にしろ、多かれ少なかれ問題を含んでいるのだ。だからといって法律と規則を守らなくてもいいといっているわけではもちろんないが、実際には、問題を含んでいるがゆえに「真理」と「法律・規則」が二律背反となる事態も起こり得る。このような事態に陥った場合は、当然のことながら「法律・規則」よりも「真理」の方が優先されるべきである。
かつて救急救命士には気管挿管が認められていないにも関わらず、現場では救急救命士による気管挿管が容認されていたことが社会問題となったことがある。法律上、気管挿管は医療行為にあたるため医師にしかできなかった。そのため気管挿管が必要な場合は、救急救命士が医師に電話して許可をとらなければならなかったという。ところが現場では携帯電話も通じない場合もあって、緊急時には自分たちの判断で気管挿管をする例があとを立たなかったそうだ。この話を聞いて法律を守らない救急救命士を批判する人もいるだろうが、気管挿管をすれば救えるかもしれない心肺停止状態の患者を目の前にして規則だからといって医師に連絡が取れるまで必要な処置を遅らせてもよかったのだろうか。その患者が自分の愛する家族であっても、やはり「規則に従わないのは許されない」と批判するのだろうか。もし、気管挿管に自信があれば、助けられる命はなんとか助けたいと考えるのが、人間としてごく普通の感情だろう。私が救急救命士であれば、やはり同じように法律よりも人命の方を優先して判断をする。
ある医師は、「私は気管挿管をした経験がほとんどないから、医師であってもきちんと処置できる自信はない」と語っていた。つまり救急救命士と同様に医師が行ってもミスが起こりうるということだ。そうであれば、あとは比較して判断するほかない。つまり、救急救命士が気管挿管でミスをしたり気管挿管が遅れて助けられなかった患者の割合よりも、救急救命士が気管挿管をすることで助けられた患者の割合の方が多ければ、救急救命士に気管挿管を認める判断をすべき、ということになる。
厳密に言えば法律違反を犯していたのかもしれないが、患者の命を救う「真理」を優先して判断していた救急救命士は正しかったといえるだろう。(※ちなみに現在では、法律が改正されて救急救命士にも気管挿管が認められるようになった)
尖閣ビデオにしろ、気管挿管の問題にしろ、「短」があるから即ダメと切り捨ててしまう原則論ばかり振りかざす人が多いのも困ったものなのだが、わかりやすくいえばこういうことだ。選択肢としてA、B、Cがあるとしよう。
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選択肢A 長所多数 短所なし
選択肢B 長所あり 短所あり
選択肢C 長所あり 短所あり
短所が一切なく圧倒的な長所しかないAのような選択肢があれば、もう何も迷わずAを選べばいいわけだが、現実にはそういう例はごく稀だ。Aのような選択肢がなければ、選択肢として考えられるBとCの長短を比較して、どちらがより重要か、どちらがより結果にプラスかという比較をするしかない。選択肢BとCに短所(問題)があるからダメということにはならないのだ。
ところでsengoku38氏を「公務員としてあるまじき行為」と批判することと、ノーベル平和賞を受賞した中国人・劉暁波氏を賞賛するのは完全に矛盾する。前者は、政治家の判断が間違っていたのをsengoku38氏が正したということであり、後者は、中国の今の政治体制を劉氏が正そうとしている、という似た構図であるからだ。中国政府の視点から見れば、劉氏は中国の法律に従わない「犯罪者」ということになるが、だからといって劉氏は間違っているといえるのだろうか。
組織の人間であったとしても考えに考え抜いて、それでも組織の方が間違っているとの結論に至ったら、その結果責任をすべて負う覚悟で、「真理」を貫くのもひとつの見識である。sengoku38氏は、そう考えたからこその行動だったのだろう。きれいごとを並べるばかりで、実は保身第一で何もできない政治家や都合のいいことだけ批判して正義を装うマスコミ関係者よりも、sengoku38氏の方がはるかに人間として立派であると私は考える。
確かに世の中、正論を貫きたくても貫けないことも多々あるが、なるべくこういう姿勢で物事を判断したいものだ。
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