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最多の意見こそ正しいというヤバ過ぎる幻想/2025年1月17日

 以前の日記にも書いた福島原発事故における世間の反応について、常々、これは一体どういうことなのだろうかと不思議でたまらなかったのだが、ようやくあることに思い至った。そうか! そういうことか。それなら辻褄が合うな。

 いうまでもなく、あらゆる分野に精通している人など、この世に存在しない。つまり誰しも知識がない分野のことで、なんらかの判断をしなければならないことは人生において多々あり、例えば福島原発事故の放射線にしてもそうだし、新型コロナのワクチンにしてもそうである。もっと身近なことも含めて、実は自分の専門外のことで絶対に正解だと断言できるほどの判断をするのは容易ではない。というか不可能である。世の中はそんな無理難題に溢れている。

 こうした無理筋の判断を迫られた時。おそらく日本国民の8割くらいは、一応はいろいろな意見や情報に接した上で、特に利害がなければ次のような方法で自分の意見を決めていることが多いのではないか。


最多の意見はどれか。より多くの人が選んだ意見こそが、きっと正しいし、それに合わせておくのが、一番無難。


 結論から言えば、あまり好ましくない方法というしかない。この方法でも正しい結果が得られる確率が高いのは、一般の正解率が50%以上の場合だけだ。正解率50%未満であれば、むしろ最多の意見こそが間違いということになる。そもそも最多の意見を選ぶとしても容易ではないし、たまたま接した情報如何によっても判断は左右される。当然、意見の選択時には人それぞれのバイアスもかかる。

 例えばリベラル派の人は元々、権力者が大嫌いなので、正しいか否かは横に置いて、とにもかくにも「政府に問題がある」という言説に飛びつきやすい。そりゃそうでしょう。だって権力をもつ政府が大嫌いなんだもん。やはり政府は信用ならん、という結論の方に快感を感じてしまう。たとえそれが信用度50%の、やや不正確な情報であっても素直に受け入れるが、同じく信用度50%の政府を高評価する言説には、すべて自動的に「本当か?」と疑う。どちらも信用度は同じなのに、この両極端な反応の違い自体がすでにおかしいことには気づけない。まさに個人の判断の限界を示しているが、これは逆の立場の人にも逆のことがいえる。

 重要なのは、ひとつの言葉でまとめられるものすべてが同質であるという、あまりに単純な認識は早めに捨てることだ。リベラル派は「自民党の政治家は信用ならん」と思っているが、たぶん、信用できる政治家○%、信用できない政治家○%、信用できる場合もあればできない場合もある政治家○%…というように要は人にもよるしケースにもよるのが真の実態だと思う。この○にどの程度の数字が入るかは誰にもわからない。思ったよりも多いかもしれないし少ないかもしれない。ただ、これは政治家に限らず、あらゆるジャンルの人々にも共通していえるし、当然、一般人もこれに該当する。○○○という名称でまとめられる人全員が信用できたり、できなかったりなんて、あり得ない。

 福島原発事故当時。私は、文系リベラルな人たちが発する意見に相当、衝撃を受けた方だが、同じ印象を持った理系の人は多かったと思う。それなのに「文系をバカにするものだ」という反発には、再度、大いに呆れかえったわけだが、これも上記のことを前提にすれば、納得がいく。理系は、何が正しいか、という判断をする場合に自分の持っている知識とか、データとか、文献とか、あるいは信用できる専門家の意見を参考にしたりするのに対して、文系はそうしたことができないので、常に「より多くの意見を選ぶ」(もしくは「自分が好きな意見を選ぶ」)という選択肢しかない。生まれてこの方、何が正しいかを判断する状況において、ずっとその方法オンリーでやってきているので、それに1ミリも疑問に感じていない。だから理系がいくら呆れようとも「なんで呆れるのよ。我々はちゃんと意見を聞いた上で、最も多い意見を選んでいるんだから、それが正しいに決まっている」という反発につながるのだろう。だが、先にもいったように世の中には一般の正解率が50%未満の難題で溢れている。というか、福島原発事故のように科学に関わる問題は、ほとんどの場合、一般の正解率は低いものだ。そのため科学知識が希薄な一般人の意見がどんなに多くても、それを選んでしまっている以上、正しい答えを選択できている可能性は限りなく低いといわざるを得ない。ただし、これもケースバイケースで、最多の意見でも正解を選べていることもまったくないわけではない。

 つまり科学に関わる問題だけではなく、より専門性の高い問題における正解は、より多くの一般人の意見にあるのではなく、より多くの、その分野の専門家の意見にこそある。これは文系分野でもいえることだ。日本の場合。メディア情報もネット情報も玉石混淆なので、一律でどちらかを信用するのも危険である。その理由は簡単。どちらも何もわかっていないド素人が、いい加減な情報を発出していることが割と多いからだ。

 しかも困ったことに、最多の意見を正解として選ぶ人々は、結果的に間違っていた場合でも、それを選んでしまった自らの責任については、恐ろしいほどにまったく何も感じていない。福島原発事故のように実はそれほど大きな問題ではなかったことが後日わかっても、「多くの人の意見に合わせただけですから、私の責任ではありません」で終わっちゃう。自分がどうして間違った言説を信じてしまったのか、では次からはどうすればいいのか、なんてめんどうなことは考えたくもない。ひたすら自分自身は正しいと信じたいし、正しい答えを選べると信じたい。なので永遠に同じ失敗を繰り返し、毎回毎回、社会をかき回す要因のひとつに自らがなってしまっていることにも気づいていない。つまり彼らがそういう方法で答えを選び続ける以上、今までと同様に次々に新しい無意味な騒動が生じ、その度に「あーでもないこーでもない」と意見が紛糾して無駄な費用と労力が延々と生まれ続けることになる。すべてではないにしても相当に根が深いでしょ。これはヤバイよ。




 
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