| 政府の原発事故収束宣言への批判について/2011年12月30日
野田さんが、「原発事故そのものは収束した」と宣言したことに関して、マスコミも世論も「復興もしていないのに収束とはけしからん」と批判の嵐だったが、私はこの発表の何が問題なのか正直よくわからない。原発事故のために生活が滅茶苦茶になった人には心から同情するし、批判する人たちがいいたいこともわからなくはないんだけど、はっきりいって感情論に過ぎないと思う。この国では、これまでも似たようなことが何度も繰り返されてきたので、「またか」としか思わないし、正直うんざりしながら記事を読んでいた。相変わらず情緒でしか物事を考えない日本人ならではの反応である。
別に野田さんの肩をもつ気もないが、要は「収束」という言葉じりをとらえ過ぎていると思う。野田さんは、「原発事故のあらゆる問題がすべて収束しました」といったわけではないだろう。「事故そのものは…」といったはずだ。「冷温停止になって危険な状態を脱した」ことを「収束」と表現したに過ぎない。そんなことをいうと、「まだ放射線が出ているのに何が収束か」という反論もあろうが、そもそも「事故の収束」とは何を指すのか、今一度、冷静に考え直してみよう。それが、「事故によるあらゆる問題が完全に解決した段階」しか指さない言葉だとしたら、確かに「収束」と呼ぶのは問題があろう。だが、それって「一万円は大金か、それとも端金(はしたがね)か」を議論するのと同じような話で、事故のあらゆる影響がすべて解決しないと収束と呼ぶべきではないと考える人もいれば、原発の状態がある程度安定したら収束と呼んで差し支えないと考える人もいるはずだ。つまり、どちらが正しいとか正しくないとかではなく、収束をどう定義するかによって変わってくる話であって、野田さんが「危険な状態を脱した」と定義して「収束」を使ったのなら、その定義も含めて発言の意図を汲む必要があると思う。それを「野田さんの定義なんか知ったことか。自分の収束の定義とはこうだ! だから収束というのはけしからん」とばかりに一方的に批判するのもアホすぎる。そして、マスコミもわかっていて故意に批判しているのか、国民同様に単純なのかは知らないが、お得意の手法、つまり「収束」という言葉だけ切り出してきて「政府の収束宣言は疑問」みたいな、いかにも国民が食い付きそうな取り上げ方をするわけだ。そして、野田さんが実際はどう発言したか確認もしないで、センセーショナルに取り上げられた言葉だけを見て感情的に反応する国民もお粗末すぎるだろう。
別のシチュエーションで考えてみよう。凶悪事件の犯人が捕まった時、マスコミは「犯人逮捕で、事件は一応の決着を見ました」とよくいっているではないか。これも「収束」と同じく言葉じりをとらえれば、犯人の裁判もこれからで、被害者への補償も決まっていないのに、どこが決着なんだということにならないか。何の疑問にも思わずに「決着」という言葉を使う一方で、「収束」というのはけしからんというのなら、このふたつの例で何がどう違って対応が異なるのか、ぜひ説明してほしいものである。
|