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昭和30年代の山 モノクロ編 後立山連峰・白馬鑓ヶ岳

撮影年月日:昭和35(1960)年7月30日

 山岳記199「昭和30年代の山 カラー編」で書いたように、両親は、私が生まれる前、主に昭和30年代に会社の山仲間とともに北アルプスや南アルプスを幕営縦走するなどしており、そのうちカラー編ではカラースライド(カラーリバーサルフィルムをコマ単位でマウントしたもの)からスキャニングした画像をご覧頂いたわけだが、それ以前はモノクロプリントを貼ったアルバムが山行記録として残っている。今回は、その中から写真を何点か選んでみた。

 昭和30年代は少しずつカラープリントが一般にも広まった時期であり、おそらく30年代後半ともなれば、ネガフィルムかリバーサルフィルムかの選択は容易だったはずだが、父は山仲間と、山行写真をスライド上映して楽しむために後者を選択したのだろう。ただモノクロフィルムと比べると、どちらもまだ高価だったと思われ、父の山写真もモノクロとカラーが混在している。

 いずれにしても個人の山行記録なので、写真の多くが同行者を写した人物写真や記念写真であり、本当は山小屋とか、交通機関とか、当時らしい風情がわかる写真をもっと撮っておいてほしかったところだが、こればかりは仕方ない。それでも父はよく記録しておいてくれたと思う。「山」というと、そうそう経年変化しない不動のものだが、「山」自体には大きな変化はなくても、そこにある人工物の変化は当然あるわけで、父の写真を見ると、現在とは違う点に改めて気づかされる。いくらモノクロでも、写真1枚からわかることは大きい。

 カラー編の時と違って、同行した山仲間が撮影した焼き増し写真を山行後にもらい、父が撮影したものと一緒にアルバムに貼ってあった可能性もあるため、以下掲載写真の撮影者は父だけではないかもしれない。どちらにしてもサイト名だけ入れておいた。




後立山連峰・白馬鑓ヶ岳付近の縦走路を行く。父が付けていた登山記録を見ると、両親一行はこの日、早朝に起床。白馬山荘幕営地から白馬岳山頂まで往復。その後、12時間かけて白岳コルの幕営地に達していた。途中には不帰ノ嶮という難所もあり、標準的なコースタイムから計算すると不可能なペースではないが、幕営装備一式揃えた荷物であることを考えると、かなりハードな強行軍といえそうだ。



同連峰・岩小屋沢岳の登り。上の写真と同様、昭和35(1960)年8月撮影(以下3点も同じ)



五竜岳山頂手前の登山道わきのスペースで幕営。昔は、今とは違って、どこにテントを設営してもよかった。



針の木小屋。1997年に撮影した同小屋写真が「山岳記 峠2 徒歩でしか行けない峠編」に掲載してある。



白馬岳。後の山小屋は白馬山荘、左手のピークが白馬岳山頂と思われる。



昭和33(1958)年8月撮影(以下3点の写真も同じ)の大正池。左手から岸辺が張り出し、当時は大正池の形も今とは違うことを伺わせる。池の中の立ち枯れ木も多い。



初代河童橋が架けられたのは明治24(1891)年とされ(明治25年とする資料もある)、写真の河童橋は、架け替えて間もない3代目と思われる。もちろん5代目にあたる現在の河童橋とまったく同じデザインと構造をしていることもわかる。



徳沢園。当然といえば当然、現在の建物とは外観が違っている。



徳沢園のキャンプ場。奥に見えるテントすべてが三角型なのが、時代を反映している。



南アルプス・尾白川渓谷に懸かる吊り橋。竹宇駒ヶ岳神社奥の吊り橋と思われるが、現在の吊り橋は川床よりももっと高い位置に架かっている。当時は吊り橋の位置が違っていたか、あるいは川床が浸食されていなかったからか。昭和34(1959)年8月撮影(以下3点も同じ)。



甲斐駒ヶ岳・八合目の御来迎場。奥の岩峰が山頂。石の鳥居や石碑は今もある。



山頂手前で幕営する様子。



甲斐駒ヶ岳山頂。昔は三角点がある山頂には、写真のようなやぐらが組まれていることが多かった。今と違ってGPSもレーザー測量もなかったので、三角点の正確な位置を遠くから把握しやすくするために現地に登って設置された。昔は測量するのも大変だったのだ。



愛媛県の石鎚山系・瓶ヶ森の登山口で昭和35(1960)年11月撮影(以下2点も同じ)。ふたつ下の写真キャプションにも書いたように、まだ瓶ヶ森林道はなかったので、瓶ヶ森に登頂するには山麓から登るしかなかったと思われる。昔は今よりもずっと大変な山だった。



一面イブキザサに覆われた瓶ヶ森山頂。ここでもやぐらが組まれている。



父の手書きキャプションには、「笹ヶ峰に続く尾根」とあるのだが、この写真の撮影地点はどこか。最初、瓶ヶ森山頂と想像したが、カシミール3Dの撮影画像と合致しない。いろいろポイントを変えて試してみると、瓶ヶ森南側の登山道から撮影したものだとわかった。画面中央の、少し雲に隠れているピークが東黒森。この頃は、まだ瓶ヶ森林道(現在は町道瓶ヶ森線)はないので、写真には写っていない。林道ができる前の景観は、こんな感じだったんだね。まさに石鎚山系主稜線の原始景観を伝える貴重な写真かもしれない。ちなみに瓶ヶ森林道は昭和43(1968)年から工事が始まり、全線開通したのは昭和49(1974)年。



立山の別山乗越に設営されたテント群。当時のテントは、すべて三角型。雪をブロック状にして防風壁が作られていた。昭和36(1961)年4〜5月撮影(以下の写真すべて同じ)。



別山山頂。祠と山頂標識。



立山室堂のバス乗り場と思われる。当時はバスターミナルもなかったようだ。道路も未舗装。



ケーブルカー美女平駅。駅前も未舗装。現在はバス駐車場など、一帯がすべて舗装され、建物も立派なものに変わり、往時の面影はまったくない。



後部にスキーを積めるようになったバス。係員から自分のスキーを受け取る。現在でいえば立山黒部アルペンルートの高原バスに該当する。当時は立山黒部アルペンルートという名称すらまだなかった。



千寿ヶ原駅といっても、どこのことかわからないでしょう。現在の立山ケープルカー立山駅は、開業当初はこの名称だった。改称されたのは昭和45(1970)年。



こちらは富山地方鉄道立山線立山駅のホームと思われる。駅周辺の閑散とした様子が現在との違いを際立たせている。




◆オマケ 当時のバス乗車券
両親の山行アルバムには、当時のバス乗車券の実物が貼ってあった。左は島々〜上高地の松本電鉄バス(現・アルピコ交通バス)乗車券。モノクロ写真に着色した疑似カラー写真が使用され、焼岳と梓川が写っている。手前の木はシラカンバのようにも見えるが、上高地にシラカンバはないので、ダケカンバだろう。樹皮の色が白っぽいのでそう見えないけどね。

上は大町駅〜下扇沢の登山バス会員券。現在、この路線を運行しているのはアルピコ交通と北アルプス交通の2社だが、当時はミスズ観光という会社がバスを運行していたようだ。

島々〜上高地が195円、大町〜扇沢が100円。現在の料金の十分の一以下である。安っ!!60年以上前なんだから、そりゃそうか。





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