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峠2 徒歩でしか行けない峠編 後立山連峰・針ノ木峠

撮影年月日:1997年08月14日

 後立山連峰の針ノ木峠といえば、越中の大名であった佐々成政(さっさ なりまさ)による「さらさら越え」で知られる。天正12(1584)年の冬に徳川家康に直訴するために富山からザラ峠と針ノ木峠を越えて浜松まで行ったとされるが、史実だったことを証明する資料が残っているわけでもなく、伝説の域を出ないようである。

 冬といっても初冬か、厳冬期かによって条件はかなり変わる。普通に考えればいくら筋骨隆々とした武将が、多くの家来を引き連れて挑戦したとしても、山中で何泊かしなければならないはずで、食料や燃料(炭)、防寒寝具等のすべてを人数分用意して運ぶ必要もある。それを考えると、厳冬期の立山を越えるのは相当に厳しい行程になると予想される。

 当時は冬山用のテントも寝袋もゴアテックスのウェアもガソリンバーナーも、とにかく今と比較すれば無に等しい。いくら武将でも身体のしくみ自体は現代人と変わらないので、凍傷にもかかるだろうし、疲労凍死することだってあり得る。初冬だったら、少しは可能性があるかもしれないが、おそらく後世に盛りに盛った話に過ぎないのではないか。ちなみに江戸時代の錦絵には、成政が馬に乗って雪山から下る勇ましい姿が描かれているのだが、馬で冬季の立山を越えるなんて絶対に不可能。馬に乗って行くということは、馬に与える餌や水すべてを運ばなきゃいけない。夏季であれば、途中の草を食べさせたり、沢水を飲ませたりもできるが、当然、冬季は無理。水は雪から作ればいいという人がいるかもしれないけど、溶かすためにはそれだけ余計に燃料もいるし、手間もかかる。加えて馬に水を飲ませるには大きな桶もいるが、そんなものまで持参しなきゃいけなくなる。また人間は雪洞で寝ることもできるが、さすがに極寒の夜間、馬をそのまま雪の中で休ませるわけにはいかないだろう。それらすべて、一体どうするつもりよって話。夏季でも馬で立山を越えるのは地形的に無理だと思う。

 ところで本サイト山岳記「峠1 車で行ける峠編」で書いたように、峠とは山麓から稜線を越えて反対側の山麓へ通じる交易や生活のための道の最高地点のことであり、当然、稜線を越える際は、効率がいい鞍部にルートを通す。従って峠は、ほとんどの場合、鞍部にある。現代の登山というレジャーではピークに立つことを目的とするため、峠はあまりその対象にはならず、あくまでピークに向かう途中に通過する1地点くらいにしか認識されていないが、実はその多くが古くから人々の往来があった場所でもある。

 ただ歴史や展望で有名な峠では、峠自体が目的地とされることもある。例えば、徳本峠(とくごうとうげ)や夜叉神峠(やしゃじんとうげ)、大菩薩峠とかね。ただ大菩薩峠の場合は、大菩薩嶺山頂も近く、しかも周回コースにできるので、峠を目的地として、ここで折り返す登山者は少ないかもしれない。 




佐々成政が冬季に越えたとの伝説が残る針ノ木峠。蓮華岳登山道から見下ろす。建物は針ノ木小屋。現地に行ってみると、夏場でも険しい道である。撮影は1997年。



針ノ木峠を示す道標。撮影は同。



同じく北アルプスを代表する峠のひとつ、徳本峠。建物は増築する前の徳本峠小屋。かつては島々から上高地へ入る主要ルートであり、上高地で伐採された木材を加工した上で山麓へ運び出す搬出ルートでもあった。上高地の歴史を語るうえで外せない場所で、かのウェストンもこの峠を経て槍に登っている。徳本と書いて「とくごう」と読むのも珍しいが、峠の上高地側入口にあたる明神あたりの河原を徳合と呼んでいたので、それに由来するといわれている。撮影は2001年。



徳本峠を示す標識。撮影は2008年。



白峰三山の好展望地・夜叉神峠。鳳凰三山の縦走者が通過するだけでなく、手ごろなハイキングースとしても知られ、ここを目的地として訪問する人は多い。名前の由来となった夜叉神を祀る祠は、峠から稜線を20mほど登った右手の草むらの中に安置されているらしい。撮影は1993年。



中里介山の同名小説でも知られる大菩薩峠。かつて青梅街道がここを越えていたため、歴史ある峠といえるが、険しい山岳地帯に続く青梅街道は、甲州街道を避けたい事情がある人が歩いた裏街道であったという。中里が大菩薩峠を小説の舞台に選んだ理由のひとつかもしれない。撮影は2004年。



かつて訳ありの人たちが越えた大菩薩峠を見下ろす。建物は山小屋の介山荘。撮影は同。



秋田県鹿角市と小坂町の境。白地山登山道途中にある鉛山峠(なまりやまとうげ)。名前は近くの鉛山に由来すると思われる。鉛山には、寛文5(1665)年に発見され、鉛や銀を産出した鉱山があった。撮影は2002年。



尾瀬沼の主要入山ルート上にある沼山峠。直下までバスが入るので、あとは沼山峠を越えれば尾瀬沼に出る。尾瀬沼を目指すハイカーの休憩ポイント。撮影は1999年。



雲取山の北側にある大ダワ。ダワは垰(たお)が訛ったものだろうか。撮影は1994年。



神奈川県厚木市・白山の巡礼峠。石仏が置かれ、七沢と上古沢を結ぶ生活道が通っていたのだろう。撮影は2004年。



神奈川県箱根町と静岡県御殿場市の境にある乙女峠。金時山の南西側にある。昔は小田原から仙石原を経由して御殿場に通じる旧道が越えていた。富士山の展望地でもある。撮影は2000年。



滋賀県多賀町と米原市の境。霊仙山の汗ふき峠(現地看板は「汗フキ峠」)。国土地理院地図にも記載があるので、古くからの地名と想像される。。撮影は2001年。



鈴鹿山脈・御在所岳と国見岳の間にある国見峠。峠名としては割とよくあり、『日本山名事典』(三省堂)には北海道から宮崎県まで10件も同名の峠が記載されている。撮影は2015年。



三重県紀北町と尾鷲市の境にある馬越峠(まごせとうげ)。熊野古道が通り、前後には石畳の道が続く。ここから巨岩が鎮座する天狗倉山まで往復する人も多い。撮影は2015年。



広島県庄原市(撮影時は西城町)と島根県奥出雲町(撮影時は横田町)の境にある比婆山連峰の出雲峠。現在は、ひろしま県民の森側から登ると、毛無山と烏帽子山の鞍部にある峠の三叉路に出るが、島根県側へ下る道はない。しかし、かつては生活道があったのではないか。そう思って昭和58(1983)年刊の『改定版広島の山歩き 旅鳥』(広島修道大学ワンダーフォーゲル部)をめくると、地図に島根県側へ下る道が記載されていた。当時はまだ道が生きていたが、歩く人がいないために失われたのだろう。ただ同書では出雲峠ではなく出雲越という名称で載っていた。出雲越という名前が示唆する通り、「出雲へ越える場所」だったわけで、出雲に越える道がないわけがない。道の利用目的が生活のためではなく登山などのレジャーに変化したために同様に一方の山麓とを結ぶ道が失われている峠は、ほかにも全国で結構あると思われる。撮影は2004年。



父が若い頃に使っていた国土地理院地形図も広げてみた。昭和34年8月30日発行の5万分の1地形図「多里」には、現在の出雲峠から島根県側へ下る道が描かれていた(赤矢印)。しかも通常の登山道よりも幅員が広いことを示す二重線になっていて、当時は比較的広い道があったことを伺わせる。手書きの大峠と書かれているところが出雲峠。おそらく広島県側では出雲峠とか出雲越と呼んでいたが、島根県側では大峠と呼んでいたと思われる。六ノ原は現在のひろしま県民の森・公園センターがある場所。ちなみに私自身が買い求めて保管してあった昭和53年1月30日発行の「多里」では、同じ道が点線表示に変わっていた。現在の地理院地図はこちらだが、道自体の記載がなくなっており、歩く人がいなければ、自然と「幅広の道→普通の登山道→廃道」…という流れになってしまうのだろう。





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