<<前のページ | 次のページ>>
戸隠山での間近な遭遇体験
ツキノワグマ(U)

Ursus thibetanus
………………………………………………………………………………………………

 先日(2017年7月)、長野県長野市の戸隠山に登った。一不動を経由して九頭竜山から戸隠山へ縦走し、最後に八方睨からの展望を楽しんで下山開始。ナイフエッジで有名な「蟻の塔渡り」は、ここだけでも十分に話題になるほどの超スリル満点の場所だが、なんとかその難所をクリアして、ホッとしたのも束の間。続いてあり得ないほど高〜い断崖絶壁の鎖場が次々に現れて、さすがに来たことを後悔した。

 そんな鎖場をいくつか下って、次の鎖場に取りかかるすぐ手前。再び神経をすり減らす前に呼吸を整えておこう…とザックをおろして休憩していた時のことだ。現場は非常に険しいやせ尾根上にあり、木が茂っているので高度感はあまり感じないが、登山道の左右が急斜面であることは容易にわかる。そんな場所なのに何かの動物が近くにいるようだ。ガサゴソと音がし、さらに少し離れた木の枝が大きく揺れている。こういう場合、大抵はサルの仕業に決まっている。だから気にも留めなかった。
 ところが、ややあって20mほど後方の登山道に黒くて大きな動物が上がってきたのが見えて、ものすごくビックリした。木を揺らしたのはサルではなかった。黒くて大きな動物といえば、そう!! クマだ。

 私は山でツキノワグマに何度も遭遇しているが、今回はさすがに「うわっ!! 困ったぞ。こりゃあどうしようかな〜」と一瞬、頭の中が真っ白になった。現場はやせ尾根上の鎖場と鎖場の間。もしクマが襲ってきたら逃げ場がない。しかも、あろうことか肝心の熊撃退スプレーを持参していなかった。クマとの遭遇としては、最悪の部類に入るシチュエーションである。荷物なんかそのままにして空身で直下の鎖場を急いで下降する方法もあることはある。急斜面の鎖場なので、さすがにクマは追って来れないはずだ。しかし20mしか離れていないクマが全速力で走ってきたら、おそらく4〜5秒くらいしかかからないだろう。その短い時間にクマの鋭い爪による前脚攻撃が及ばない場所まで一気に下る必要があるが、いくら空身でも直下に待ち構えているのは高さ15mもの岩場である。ザイルにディッセンダー(下降器)がすでにセッティングされているのならまだしも、三点確保の原則を守りながら足場をひとつひとつ確認して下るのであれば、さすがにわずか4〜5秒で安全圏に達するのは無理と思われた。急ぎすぎるとクマからは逃げることができても滑落する危険性もある。

 急斜面を上がって来たクマは、息が切れ、その荒い息づかいまで聞こえてきた。少ししてクマの方も私の存在に気づいたようだ。ただ、この時点で至近距離での鉢合わせではないので、クマの方も余裕があるはずであり、個体差も考慮しなければならないとはいえ、たぶん襲ってくる可能性は低いだろうと思いかけていた。そして、さらにクマの、ある些細な行動を見て、かなり安堵した。それはクマが私への視線を外したことである。

 確かにクマは、私を異質な存在と感じ、気にはなったようだ。だが、ものすごい危険対象として認識しているのであれば、恐怖のあまり視線は外せないはず。当然、まずは威嚇行動に出るだろう。しかし、そんな緊迫した行動は一切なく、じっと視線を送ってくることもある一方で、平気で視線を外して下を向いたりするのは、私をそれほど警戒していない明らかな証拠だ。人間を恐れない、いわゆる「新世代グマ」なのだろう。人間を恐れないので平気で町中に現れたりして、それはそれで問題なのだが、恐怖のあまりに自分や子供を守ろうとして必殺攻撃に出る旧世代グマのようなリスクはないと見ることもできる。

 だからクマが下を向いた瞬間を見計らって、5mほど近づいてカメラを向けてみた。最初の場所では枝が邪魔して撮影できず、なんとしてもこの極めて貴重な機会を逃したくなかった。再び顔を上げたクマは、同じようにじっと私の方を見ていたが、その後も視線を平気で何度も外した。やがてきびすを返して尾根道を反対方向に歩き出したが、その途中に2、3度振り返って私の方を見ていたので、やはり気になっていたのは間違いないだろう。だが、幸いにも私は危険対象や攻撃対象とは見なされなかったようだ。

 もともと私はツキノワグマを過剰に恐れる必要はないと考えている。というのもツキノワグマは、本来臆病な動物であり、実際に私が過去に間近に遭遇した事例のすべてにおいて、クマの方が先に気づいて大慌てで逃げたからである。そしてツキノワグマに襲われて登山者が死亡した事例は過去に一度もないという紛れもない事実もある。ヒグマに限っても日高連峰のカムイエクウチカウシで福岡大学のワンダーフォーゲル部員3名が亡くなった例が一度あるだけだ(※)。この事例では、ヒグマが持ち去った荷物を回収したことが問題とされ、回避することも可能だったと思われる。

 登山者が襲われてケガした例は何件もあるだろうが、死亡例は山菜やキノコ採りの人に限られる。こんなことをいうと、クマが山菜採りと登山者を区別しているわけがない、という意見も聞こえてきそうだが、重要なのは遭遇する場所である。山菜やキノコはクマにとっても貴重な食料であり、人間が攻撃対象とみなされやすく、それだけ山菜・キノコ採りは高リスクといえる。一方、彼らの餌場で遭遇する機会が少ない登山者の方はその分、リスクが低いのはいうまでもない。
 とはいえ、気軽に接する動物ではないのも間違いなく、今後、登山者がツキノワグマに襲われて死亡する可能性もゼロとはいえない。従って、あくまでクマの生態や統計的な事実を冷静に把握しつつ、「正しく怖がる」ことが必要ではないだろうか。

※2021年7月、北海道滝上町の林道で、浮島湿原に向かおうとした登山者がヒグマに襲われて亡くなる事故が発生したため、ヒグマによる登山者の死亡は計4名となった。



関連情報→本サイト動物記「ツキノワグマ(T)」「熊出没注意看板




クマも私に気づいて、じっと視線を送ってくる。ただ、興奮している様子もなければ、威嚇行動もまったくなし。しかも視線を外したので、かなり安堵した


きびすを返して登山道を上るクマ。今回の遭遇体験でわかったこと。ひとつはさすがのクマも急斜面を登ってくると息が切れるという事実。もうひとつは、「クマは鎖場の鎖があっても利用しない」という、さらなる重大事実も併せて確認できたのだっ。どーよ、みんなも知らなかっただろ(笑)。


振り返って再度私を見るクマ。「アイツ、なんだろうなあ〜。あれが話に聞くニンゲンとかいう動物なのかな〜?」と思っていたのかどうか定かではないが…。ところで奧に写っているのが手前の鎖場。実に狭い区間での遭遇…ということがご理解頂けるかと思う。





 
 CONTENTS 
 
   
 

Nature
動物記