炭焼き窯跡 長野県松本市・島々谷
撮影年月日:2005年10月21日
かつて炭が燃料として重要な地位を占めていた頃は、里山の薪炭林で伐採した木を使って炭を生産することが、広く行われていた。炭焼きは、窯内部で不完全燃焼させることで高純度の炭素からなる炭にするわけだが、火入れから窯出しまで二昼夜を要するという。ただ小さな窯でも一度に数十キロ程度の炭を生産できていたらしい。窯は、管理しやすい自宅近くに構える方がいいに決まっているが、徒歩で数時間かかる山中で炭焼きをしていた人も結構いたようである。
『山の怪奇・百物語』(山村民俗の会編・エンタプライズ)という平成元(1989)年に刊行された本には、炭焼きを生業にする神奈川県津久井郡鳥屋村在住の男性(実名で掲載)の体験談が紹介されている。男性は、神奈川県の最高峰でもある丹沢山系・蛭ヶ岳(ひるがたけ)に続く稜線上で炭焼きをしていたが、窯から炭を取り出す作業日には深夜に起床し、暗闇の中、3時間かけて自身の炭小屋に通っていたようだ。日の出前に炭小屋に到着したのち、お湯を沸かし、弁当を食べて、窯止め(窯口と空気口を塞ぐこと)をした。午後にできたばかりの炭を炭俵に詰めて3俵を背負い、夕方に帰宅していたそうだ。鳥屋村は昭和30年まで存在していたようなので(現在は相模原市緑区)、それ以前の話なのだろう。
この話自体は、炭焼きの苦労話ではなく、初冬のある日、そんな通い慣れた深夜の山道を登っていた時、谷の対岸や下方に提灯(ちょうちん)を持って、たった一人で歩く7、8才くらいの子供がいるのを見たという怪異譚で、全神経を集中して見つめたが、紛れもなく子供だったという。深夜、蛭ヶ岳という深山の山道を子供が一人で歩いているはずもないので、地元で古くから伝わる「あとおいこぞう」という山霊ではないか、との内容だった。それはともかく往時の炭焼きが、時にかなりの重労働であったことを伺わせるので取り上げてみた。
山を歩いている時に炭焼き窯を見かけることもあることはあるが、私の場合、ほぼすべて「跡」であった。丹沢山系の話のように山奥で見かけたこともあったので、炭焼きを継続できる手ごろな森が自宅周辺にない場合は、より深く山に入った場所に窯を構えることも普通にあったのだろう。今でも炭焼きは各地で行われてはいるが、山で現役の炭焼き窯を偶然見かけたことは、ほぼない。ちなみに木酢液は、炭焼きの煙から作られている。
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徳本峠から島々谷を下って行くと、瀬戸下橋と戻り橋の間に炭焼き窯跡がある。おそらく島々地区の人がかつて炭焼きをしていたのだろう。だが、島々から徒歩で2時間以上もかかる渓谷にあり、ひょっとすると下の解説板にあるように1回の炭焼きでできた40キロの炭俵を背負って下山していたのかもしれない。だとすると相当な重労働といえそうだ。

島々谷の炭焼き窯跡に設置されていた解説板。撮影は同じく2005年。

秋田県にかほ市。中島台レクリエーションの森にあった炭焼き窯跡。ここも山麓から見れば、かなりの山奥である。撮影は2002年。

山形県山形市・蔵王中央高原の炭焼き窯跡。撮影は2002年。

同炭焼き窯跡の解説板。これによると、この窯では1回に60キロの炭ができていたようだ。

山梨県甲州市(撮影時は大和村)・竜門峡の炭焼き窯跡。撮影は1999年。

志賀高原の澗満滝展望台入口に平成2年に炭焼き窯が復元された。実際に炭焼きが行われているかどうかは不明。撮影は2017年。

同炭焼き窯の解説板。昭和10年には志賀高原で2万俵も炭が生産されていたとは、すごいね。
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