山岳史に残る人々 正解+解説
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■アーサー・ヘスケス・グルーム → 六甲山
イングランドの実業家。幕末に来日。登山好きだったこともあってか、六甲山を開発する一方、自然保護にも尽力し、「六甲山開祖」と呼ばれた。妻は日本人で、15人もの子供に恵まれたという。記念碑台の六甲山ビジターセンター前に戦後再建されたグルームの胸像が置かれている(写真)。
■アーネスト・ヘンリー・ウィルソン → 屋久島
イギリスの植物学者。大正時代に日本を訪れて屋久島にも渡る。屋久杉調査の際に島内最大の切り株を調べて発表したことから、ウィルソン株と命名された。これは400年前に秀吉に献上するために切られた切り株のひとつとされる。屋久杉だけでなく、日本やアジアの植物を世界に伝えた。ソメイヨシノが交雑種とする仮説を発表したことでも知られる。
■赤井五代松(あかい ごよまつ) → 大峰山(五代松鍾乳洞)
大峰山麓・洞川温泉にある鍾乳洞の発見者。私財を投じて整備を行ったことから五代松鍾乳洞と呼ばれるようになった。五代松鍾乳洞は、奥行きが80m以上あり、最大の石柱「大黄金柱」は8m。鍾乳洞まではモノレールが敷設され、その乗り場付近に五代松翁の胸像が置かれている(写真)。
■アドルフ・エングラー → 宮島
ドイツの植物学者。植物分類学や植物地理学を研究してエングラー分類体系を提案した植物分類学史上では重要な人。大正2年に宮島の弥山に登山した際に「一生ここに住んでここで死にたい」とまで言って瀰山原始林を絶賛した。
■石川三郎(いしかわ さぶろう) → 谷川岳
谷川岳で遭難した約260人に及ぶ登山者の検死を行った水上町の開業医。谷川岳ロープウェイベースプラザ(山麓駅)手前にある小公園に遭難慰霊碑とともに石川医師の碑が立っている。碑には「この渓に夢うるわしく 眠る君と とわに語らん 山の明けくれ 三郎」とある。
■伊能忠敬(いのう ただたか) → 函館山
江戸期の測量家。17年もかけて日本全国で測量を行い、極めて正確な地図を完成させた人物としてよく知られているので、もはや説明の必要もないだろう。忠敬一行は10回に渡って全国を巡り、その多くは海岸線を調べることに費やされた。山に登って測量することはなかったようだが、北海道最初の測量地は函館山だった。そのため山頂に記念碑が立っている(写真)。
■ウォルター・ウェストン → 日本アルプス・上高地
イギリスの宣教師・登山家。上高地のウェストン碑やウェストン祭を知らぬ人はほとんどいないくらいに日本山岳史に欠かせない重要人物。穂高岳や立山などの山々に登頂し、『日本アルプスの登山と探検』『極東の遊歩場』などを執筆して、日本アルプスを世界に紹介した。氏の記念碑は上高地のレリーフ(写真)が最も古くて最も有名だが、ほかにも数カ所に設置されている。
■内野常次郎(うちの つねじろう) → 上高地
上条嘉門次の弟子。「上高地の常さん」と呼ばれ、秩父宮雍仁親王の登山ガイドもした。勢津子妃を「おかみさん」と呼んだ、いわゆる「おかみさん事件」で知られるが、秩父宮が「常さん、おかみさんでいいよ」と事を収めた。上高地バスターミナル近くに内野常次郎記念碑がある(写真)。
■遠藤現夢(えんどう げんむ) → 裏磐梯高原
明治21年の磐梯山噴火後、荒地と化した裏磐梯高原に私財を投じて植林を行った篤志家。裏磐梯高原・五色沼自然探勝路の柳沼付近から奥に入ると、現夢塚と呼ばれる遠藤現夢の墓がある(写真)。
■役小角(えんのおづぬ) → 大峰山・葛城山・石鎚山
修験道の基礎を築いた飛鳥時代の呪術的な山岳宗教家。実在の人物とされるが、後世に創作された伝説も多く、前鬼と後鬼を左右に従えた姿で描かれる。役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれる。
■大石武一(おおいし ぶいち) → 尾瀬
政治家。子供の頃は植物学者に憧れ、政治家になる前は内科医だった。第2代環境庁長官だが、4日間だけ兼務した総務長官から引き継いだので、実質的には初代といってもよい。尾瀬に自動車道路を建設する計画が持ち上がり、その反対運動を受けて現地視察。建設促進派の意見を退けて建設の中止を決定した日本の自然保護史に残る偉人。
■大平 晟(おおだいら あきら) → 苗場山・清津峡
登山家・教育者。清津峡の名付け親。明治〜大正期に郷里の新潟県内を初め、日本各地、台湾、朝鮮半島の山にも登り、日本山岳会会報『山岳』にその紀行文を寄せる。苗場山山頂付近にあるレリーフは、昭和10年に設置されたもの(写真)。
■大己貴命(おおむなちのみこと) → 本宮山
神代の昔。大己貴命は諸国を巡幸したあと、三河国の本茂山(ほのしげやま)、現在の本宮山に留まって、この山を神霊を止め置く地と定めた。そんな伝説から、以来、三河地方を代表する霊山として人々の信仰を集めることとなる。山頂には、大己貴命を祀る三河国一之宮・砥鹿神社の奥宮と大己貴命の像(写真)が置かれている。
■尾崎喜八(おざき きはち) → 美ヶ原・御荷鉾山
詩人で随筆家。東京生まれだが、戦後、長野県で暮らしたことから信州の山や自然を題材にした詩や随筆を多数残す。「登りついて不意にひらけた眼前の風景に しばらくは世界の天井が抜けたかと思う」から始まる詩「美ヶ原熔岩台地」は、美ヶ原のシンボル・美しの塔に刻まれている。また群馬県神流町の西御荷鉾山にも喜八の文学碑が建立されている(写真)。
■尾瀬大納言藤原頼国(おぜだいなごんふじわらよりくに) → 尾瀬
名前だけで答えは明白。後白河天皇の第三皇子・高倉宮以仁王(もちひとおう)は、歴史上、宇治平等院の戦いで討死したことになっているが、生き延びたとする伝説も存在する。それによると以仁王は上州から会津へと逃れたが、途中、お供の藤原頼国が、病に倒れてしまう。回復して以仁王のあとを追うが、山奥で道に迷って現在の尾瀬沼に出て、ここに住み着いたとされる。福島県檜枝岐村の中土合公園に銅像が立っている。
■尾瀬三郎中納言藤原房利(おぜさぶろうちゅうなごんふじわらふさとし)
→ 尾瀬
都を追われた藤原房利一行は、現在の新潟県魚沼市湯之谷地区を経て、やはり尾瀬沼にたどり着いたと伝わる。福島県側では前項・藤原頼国が尾瀬の由来となった人物とされるが、新潟県側では藤原房利が尾瀬の由来とされる。写真は奥只見の銀山平に2004年に建立された像。
■加藤武三(かとう たけぞう) → 西中国山地
広島の登山家。特に西中国山地に多くの足跡を残し、昭和40年代に『広島をめぐる山と谷』(うちにも昔からあった)など、優れた山の本を著したことでも知られる。内黒峠の丸子頭登山道入口に加藤武三之碑がある(写真)。
■上條嘉門次(かみじょう かもんじ) → 上高地
大正2年にウォルター・ウェストン夫妻を槍ヶ岳や穂高岳、焼岳などに案内して、山の案内人として有名になったが、もともとは猟師や杣をしていた人物。熊との格闘で怪我をしたせいで片足が不自由だったが、卓越した登山技術を身に着け、ウェストンも敬称で呼んでいたという。上高地の嘉門次小屋に嘉門次碑がある(写真)。
■熊 南峯(くま なんぽう) → 三段峡
広島の写真家。大正末期〜昭和初期に当時、無名だった柴木川上流の渓谷に分け入り、その価値に気づく。三段峡の命名者。横川(よこごう)地区の小学校教師・斎藤露翠(さいとう ろすい)とともに三段峡の名を広めることに尽力する。三段峡・正面口に熊南峯之碑がある(写真)。
■佐伯有頼(さえき ありより) → 立山
『立山開山縁起』によると立山の開山者とされる飛鳥〜奈良時代の人物。実在したのか伝説上なのかは不明。父は越中国の国司・佐伯有若。立山開山伝説では、熊を追った有頼が洞窟で阿弥陀如来から立山の開山を命じられる筋書になっている。立山黒部アルペンルートでは、キャラクター化した「有頼くん」が迎えてくれる。また富山市呉羽山公園に銅像が立っている(写真)。
■桜庭留三郎(さくらば とめさぶろう) → 美ヶ原
日本のスキー界発展に尽くした功労者。大正末期から昭和初期にかけて全国各地でスキーの普及と指導、用具の開発に努めた。美ヶ原・牛伏山山頂に碑が置かれている。写真は1988年6月に撮影したもの。
■白石邦太郎(しらいし くにたろう) → 妙義山
世界遺産富岡製糸場の最後のオーナーで町議会や県会議員を歴任した政治家。戦後、妙義山の観光発展に尽くした。妙義山の中之岳神社前の県営駐車場に銅像が立っている(写真)。
■高波吾策(たかなみ ごさく) → 谷川岳
戦後に国鉄土樽山の家の管理人となり、吾策新道や茂倉新道、平標新道など、上越国境の山々に新しい登山道を切り開いた人物。時にその費用を自ら負担したりして工事を進めた。立派な髭をたくわえていたことから「ひげさん」と呼ばれ、多くの登山者から愛された。茂倉新道や吾策新道の登山口に続く町道沿いに胸像がある(写真)。
■武田久吉(たけだ ひさよし) → 尾瀬
植物学者・登山家。父はイギリスの外交官アーネスト・サトウ。母は日本人。日本山岳会の発起人の一人。高山植物を研究し、尾瀬の保護に努めたことから「尾瀬の父」とも呼ばれる。ちなみに我が家には、氏が著者となった昭和34年初版の高山植物図鑑が今もある。写真は福島県檜枝岐村のミニ尾瀬公園にある武田久吉メモリアルホール館内の展示室。2000年6月撮影。
■伊達宗高(だて むねたか) → 刈田岳
仙台藩主伊達政宗の七男。寛永年間に刈田岳が大噴火を起こした際に易者と共に刈田岳に登り、山頂に祭壇を設けて7日間に渡って祈祷を行ったところ、噴火活動が沈静化。そのため噴火の被害を受けていた山麓の住民から深い信頼を寄せられるようになったが、2年後に19才の若さで亡くなった。昭和42年に写真の伊達宗高公命願之跡碑が刈田岳山頂に建立された。
■田部重治(たなべ じゅうじ) → 秩父山地・日本アルプス
英文学者・登山家。秩父山地や日本アルプスを好み、『山と渓谷』や『峠と高原』、『わが山旅五十年』など、多くの山の本を著した。田部が「黒竜の尾をうつが如き」と表現した奥秩父。その西沢渓谷入口には田部重治文学碑(写真)が建立され、近年は日本山岳会により山開きに合わせて碑の前で田部祭が開催されている。
■秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう) → 霧藻ヶ峰
昭和天皇の弟。昭和8年に秩父宮が登頂した際にサルオガセがあることから霧藻ヶ峰と命名した。山頂付近には秩父宮夫妻のレリーフがある。掲載した写真は1985年11月に大学の友人たちと登った際に撮影したもの。
■泊 如竹(とまり じょちく) → 屋久島
江戸時代の儒学者。屋久島・安房の出身だが、京都で修行した。それまでは島津氏も神木と崇められていた屋久杉を資源として利用する考えはなかったが、如竹が藩主に伐採することを進言。これにより屋久杉は利用され始め、島の経済を潤すようになった。屋久聖人と呼ばれる。
■中里介山(なかざと かいざん) → 大菩薩峠
作家。幕末を舞台にした長編小説で、ベストセラーにもなった『大菩薩峠』で知られるが、執筆途中に死去したため未完のままになっている。大菩薩峠には写真の「中里介山先生作 大菩薩峠記念塔」が立っているが、中里が実際に現地に登ったのは新聞に『大菩薩峠』の連載を開始してから12年後のことだったという。峠の山小屋・介山荘はいうまでもなく中里介山に由来。
■中島喜代志(なかじま きよし) → 谷川岳
昭和〜平成期の谷川連峰の登山ガイド。土合山の家を設立し、登山者の指導にあたる。地元山岳会の会長も務め、「谷川岳の主」とか「谷川岳の開発者」と呼ばれた。石川三郎の碑と並んで顕彰碑がある(写真)。
■ハンネス・シュナイダー → 菅平高原
戦前から戦後にかけて活躍したオーストリアのスキー講師で「アルペンスキーの父」といわれる。昭和5年には秩父宮雍仁親王に招待されて来日。菅平高原を「日本のダボス」と評したことから「日本ダボス」と呼ぶようになった。菅平高原スキー場には「シュナイダー記念塔」が建っている(写真)。
■播隆上人(ばんりゅうしょうにん) → 槍ヶ岳・笠ヶ岳
江戸後期の修行僧。1828年(文政11年)に槍ヶ岳の登頂に成功し、槍ヶ岳の開山者として知られる。松本駅前に銅像があるほか、富山市旧河内集落(廃村)の生家跡にも石碑が建立されている(写真)。なお、播隆上人を案内した人物をWikipediaでは中田又重郎としているが、これは郎を付ける風習によるもので、正しくは中田又重らしい(位牌はそうなっている)。
■平野長蔵(ひらの ちょうぞう) → 尾瀬
尾瀬の長蔵小屋初代主人。尾瀬ヶ原をダムにする計画に反対して「日本の自然保護の象徴」とも言われる人物。Wikipediaには、「牧野富太郎が尾瀬であまりに植物を採るので、研究するだけでなく保護を考えろと叱った」というエピソードが紹介されている。尾瀬沼畔の通称・ヤナギランの丘にある平野家の墓(写真)に眠る。ちなみに孫の長靖は尾瀬の自動車道路建設に反対し、前出・大石武一に直訴して建設計画を中止させたことで知られる。
■古川 嵩(ふるかわ かさむ) → 大台ヶ原
明治時代。それまで未開の地だった大台ヶ原を開いた行者。長期間山に籠って修行を続け、厳冬期も滞在し続けた。牛石ヶ原の神武天皇像(写真)は古川が尽力して昭和3年に建立したもので、分割して歩荷で運びあげたという。大台教会も6年という月日をかけて古川によって建てられた。教会といっても神道系の施設で、現在も大台ヶ原駐車場の手前にある。
■牧野富太郎(まきの とみたろう) → 八幡高原・苅尾山(臥龍山)
植物分類学者。日本の植物学の父といわれ、近年のNHKドラマで一躍有名になった。全国各地に足を運び、縁がある場所は多く、生まれ故郷の高知県には高知県立牧野植物園、また東京の自宅跡は練馬区立牧野記念庭園として整備されているが、碑は意外と少なく、広島県北広島町・八幡高原に建立された牧野の句碑(写真)だけのようだ。牧野はこの地に2度足を運び、苅尾山(臥龍山)にも登っている。
■政井みね(まさい みね) → 野麦峠
明治時代の生糸工業労働者。飛騨から信州に女工として働きに出たが、劣悪な労働環境により病気となる。兄の辰次郎は夜通し2日かけて、みねを迎えに行くが、帰路、野麦峠に着いたところで亡くなってしまった。辰次郎はみねの亡骸を背負い4日かけて故郷に戻ったという。写真は野麦峠に立つみねと辰次郎の像。碑には「あゝ飛騨が見える」と書かれている。
■松浦武四郎(まつうら たけしろう) → 大台ヶ原
幕末〜明治時代の探検家。まだ未開の地であった蝦夷地を探検し、同地の地理や自然だけでなくアイヌ民族とその文化や地名に関しても多くの記録に残した。武四郎が提案した「北加伊道」が、のちの北海道になったとされる。また大台ヶ原を好んで登り、登山道や山小屋の整備も行ったことでも知られる。道内各地に記念碑、銅像、詩碑が点在するほか、出生地の三重県松阪市には記念館もある。写真は阿寒湖畔に立つ武四郎の詩碑。
■三松正夫(みまつ まさお) → 昭和新山
戦時中から成長が始まり2年かけて誕生した昭和新山。この火山ができる様子を克明に記録し続けたのが、地元の郵便局長だった三松正夫。三松は1日も欠かさずに記録し続け、その連続スケッチは、ミマツダイヤグラムと呼ばれ、火山の国際会議で絶賛された。戦後、噴火口から硫黄を採取する人が増えたことから、父から相続した土地を売ってまでして新山の土地を購入し、貴重な火山標本を保護することに力を注いだ。その昭和新山の山麓には、三松正夫記念館がある。
■百瀬慎太郎(ももせ しんたろう) → 針ノ木岳
北アルプスの大沢小屋や針ノ木小屋を創業した山小屋オーナーで登山家。大正時代に山岳ガイドの組合を設立するなど、登山の環境整備に力を注いだ。大町市で毎年6月に行われる夏山安全祈願祭は「針ノ木岳慎太郎祭」と名付けられている。信濃大町駅前に記念碑が置かれているほか、大沢小屋前にはレリーフがある(写真)。
■ラザフォード・オールコック → 富士山
イギリスの外交官。初代駐日公使。1860年(万延元年)9月11日に外国人としては記録上、初めて富士山に登る。日本や日本人に対して高い評価をしていた人でもある。富士山富士宮口五合目の登山道入口に「サー・ラザフォード・オールコック富士登山記念碑」が立っている。写真は、かつて東側のブル道入口にあった時のものだが、その後現在の地に移されたようだ。
■T.A.ピーコック → ガラン谷
在シンガポールのイギリス陸軍駐在武官。昭和13年1月、日本人案内人・浅村とともに冬期の志賀〜草津のスキーツアーに出かけて行方不明に。翌春、ガラン谷で浅村のみ遺体が見つかるが、そのポケットからはダイナマイトの雷菅と導火線、発射された形跡があるピストルが出てきて警察も驚く事態に発展。今日に至るまで「ピーコック事件」と呼ばれ、真相は不明のまま。昭和50年代にガラン谷に駐日イギリス大使の名前でピーコック碑が設置された(写真)。→拙著『信州探検隊』(信濃毎日新聞社)で詳しく紹介してあります。
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