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遭難碑 広島県安芸太田町・恐羅漢山

撮影年月日:2020年5月12日

 遭難碑とは、遭難事故があった現場か、もしくはその近くにご遺族や山仲間などによって設置された慰霊碑のこと。各地の山を歩くと見かけることがあり、その度に改めて「山を甘く見てはいけない」と自分に言い聞かせている。

 ところで私の両親は、私が生まれる少し前に連続して遭難事故2件に間近で遭遇する非常に稀な体験をしている。若い頃は、山仲間と北アルプスや南アルプスを幕営縦走するようなバリバリの山ヤだったが、登山ではなくスキーの際に遭遇した事故だった。
 その頃のスキーは、除雪された道路を通ってスキー場の駐車場に直接、車で乗り付けるような簡単なものではなかった。当時は、広島周辺でスキーができるのは恐羅漢山くらいしかなく、しかも恐羅漢山のスキー場は奥まった場所にあるため、山麓の戸河内から徒歩で夜の山越えをして内黒峠の避難小屋(今はない)で休憩し、深夜にスキー場の民宿に到着することもあったという。つまり、今では考えられないほど、非常に労力がかかった。

以下、記事追加修正+写真NEW

 父が残していたスキーや登山の記録手帳を発掘したところ、一部、母の記憶違いがあった。以前の記事では、同じスキー行の初日と最終日にそれぞれ遭難事故に遭遇したと書いたが、そうではなく昭和36年12月29日〜昭和37年1月7日のスキー行初日に国税庁勤務の青年の遭難に出会い、その翌シーズン、昭和37年12月28日〜昭和38年1月6日のスキー行最終日に三菱レイヨン(現在は三菱ケミカル)社員一行の雪崩遭難に遭遇していた。


父が付けていた記録。昭和36年12月29日の記述。


同じく昭和38年1月6日の記述。


【修正した記事】
 昭和36年12月29日。早朝に家を出て両親は、山仲間とともにバスで戸河内に向かったが、途中、積雪やトラック事故のせいで戸河内到着が2時間も遅れた。ようやく午前11時過ぎにスキーとザックを担いで峠道に足を踏み入れた。
 実は別の山仲間2名が1便前のバスで先行しており、たまたまバスで同乗した国税庁に勤務する青年と一緒に内黒峠に向かっていた。両親ら一行が峠に近づくと、道端にスキーが投げ捨ててあり、さらに行くと今度はザックがころがっていた。そしてその先に人が倒れていた。
 倒れていたのは先行者がバスで乗り合わせた青年で、避難小屋に運び入れて、心臓マッサージをしたり身体を暖めたりしたが、残念ながら息を吹き返すことはなかった。もともと心臓が弱かったらしいので、おそらく一緒に登っていた二人に遅れをとり、一人になったところで心臓麻痺か何かで倒れられたのだろう。
 当時は、現在のように携帯電話ですぐに通報ができるわけもなかったが、買い出しのために山麓へ下る民宿の主人に偶然遭遇したので警察への通報を依頼できたそうだ。
 
 続いて昭和38年1月6日。やはり正月休みを恐羅漢山スキー場で過ごし、帰る日のことだ。両親が懇意にしていた民宿にはほかにもスキーヤーが泊まっていた。その中には以前から顔見知りだった三菱レイヨンの一行がおられた。彼ら一行が帰り支度をすませて、両親に声をかけた。「日野さん、戸河内まで一緒に下りませんか」。ただ、両親らはまだ支度が終わっていなかったので、「すぐあとを追いますから、先に下りて」といったらしいのだが、実はこのわずかな出発時間の差が運命を左右することになろうとは、その時は誰も想像すらしていなかった。
【修正ここまで】

 内黒峠の避難小屋まで来て、小屋で休憩していると、先に下りた一行の一人が、歯をガタガタ震わせながら小屋に飛び込んできた。中ノ谷をスキーで下っていた時に雪崩が発生して全員が飲み込まれたという。自力で脱出できた人、救出された人もいたが、7名中2名が帰らぬ人となった。
 そのうち1名は見つからず、春になって発見されたのだが、その捜索の際に最初に出て来たのは一行とは関係ないおじいさんのご遺体だった。近くの集落に住むおじいさんが、神戸の娘さんのところに行くために餅を持って山を下った。その途中で遭難したと思われた。
 おばあさんは、おじいさんが神戸に到着しているものとばかり思っていた。一方、娘さんは、おじいさんが用ができて来られなくなったのだろうくらいにしか思っていなかった。当時は電話も普及していない頃。今なら考えられないことだが、こんなことも現実にはあるのだ。

 母はいう。民宿を先に出たのが、もし逆だったら。自分たちが雪崩に巻き込まれた可能性も十分にあっただろう…と。記録的な豪雪の年の新雪斜面である。スキーで滑ったことがきっかけとなって雪崩が発生したと考えられ、両親ら一行が先に下りていれば、飲み込まれた可能性も捨てきれない。もしそうであれば、私が生まれることもなかったかもしれない。それを考えると、なんともいえない運命の無情さを目の前に突きつけられている気分になる。

 その遭難碑は、今でも内黒峠の少し東側県道沿いに立っている。今年5月、車に両親を乗せて通りがかったので、碑に手を合わせ写真を撮影してきた。碑には枯れた花が残っていたので、60年近く経過した現在でも誰かが時折、花を手向けておられるのだろう。また最初の遭難事故で亡くなられた青年の遭難碑も峠付近の少し入った場所にあったはず、と母は言っていた。




両親にも関わりがある、内黒峠に立つ遭難碑。昭和38年1月6日遭難…とある。


父が撮影した古いスライドフィルムを探索してみたところ、昭和37年12月28日〜昭和38年1月6日に撮影したフィルムが見つかった。前後のカット内容から考えるに、おそらく1月6日の帰路に撮影したと思われるのが、この写真。このカットより前はキスリングザックを背負っていないので、恐羅漢山スキー場のゲレンデで撮影したものだろう。しかし、このカットだけはキスリングザックを背負っているので、民宿を出発して内黒峠へ向かう途中だと推定される。つまり、このあと峠の避難小屋で休憩中に先行した知人ら一行が雪崩に飲み込まれたことを知ることになる。原版の状態はあまりよくなかったが、退色補正した上で、カビや汚れをデータ上で消去して画像として整えた。写真には、とりあえず私の署名を入れておいたが、いうまでもなく撮影者は父である。



北アルプスの折立登山口から少し入ったところに立つ十三重之塔慰霊碑。本文にも書いた恐羅漢山と同じく三八豪雪による遭難事故だったようだ。昭和38年1月14日。猛吹雪により愛知大学山岳部員13名が遭難死。その慰霊のために建立された。富山県が山岳警備隊を創設するきっかけにもなったという。撮影は2000年。



長野県阿智村と岐阜県中津川市にまたがる富士見台高原で見かけた遭難碑。昭和30年8月3日に地元中学の生徒4名が犠牲になった落雷遭難の碑。



新潟県魚沼市・浅草岳。2000年6月18日の遭難救助中に殉職された警察や消防関係者4名の慰霊碑。



奥秩父連峰・甲武信ヶ岳。甲武信小屋付近に建立された「奥秩父遭難者慰霊碑」。撮影は2000年。


美ヶ原・王ヶ鼻近くにある遭難記念碑。刻まれていた男性2名の名前を検索してもそれらしき情報は得られなかった。建立時期は古いのかもしれない(左)。鈴鹿山脈の御在所岳で見かけた遭難慰霊板。風雪の前穂高岳・北尾根で亡くなった女性を偲んで、山仲間が設置されたもののようだ(右)。


谷川岳ロープウェイベースプラザ(山麓駅)手前の小公園にある谷川連峰山岳遭難者の慰霊碑。昭和12年の建立(左)。同公園には、やはり遭難者慰霊のために昭和15年に彫刻家が製作した「山の鎮の像」を昭和60年にブロンズで復元した像も立っている(右)。



同公園には昭和42年に建立された「静寂の碑」もある。表面には昭和6年から順に遭難者の名前が刻まれている。揮毫は作家で政治家だった今東光(こん とうこう)。撮影は2009年。その後の2016年にも同地を訪れて撮影しているが、いずれも40年以上経過しているにも関わらず、花が供えてあった。


遭難碑ではないが、見て切なくなったものを最後に掲載しておきたい。谷川岳・一ノ倉沢(左)と、その一ノ倉沢の岩壁を望む下流に供えられた花。線香の跡もあった(右)。登攀中に遭難されたのだろうか。撮影は2001年。

山は魅力的な場所であると同時に死に直結しうる場所でもある。誰しも「自分だけは大丈夫」と思ってしまいがちだが、これらの遭難碑は、それが現実に起こったことを改めて我々に教えてくれる。山を甘く見てはいけない。そして決して他人事ではない…と胆に命じたい。




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