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遭難碑 広島県安芸太田町・恐羅漢山

撮影年月日:2020年5月12日

 遭難碑とは、遭難事故があった現場か、もしくはその近くにご遺族や山仲間などによって設置された慰霊碑のこと。各地の山を歩くと見かけることがあり、その度に改めて「山を甘く見てはいけない」と自分に言い聞かせている。

 ところで私の両親は、私が生まれる少し前に連続して遭難事故2件に間近で遭遇する非常に稀な体験をしている。若い頃は、山仲間と北アルプスや南アルプスを幕営縦走するようなバリバリの山ヤだったが、登山ではなくスキーの際に遭遇した事故だった。
 その頃のスキーは、除雪された道路を通ってスキー場の駐車場に直接、車で乗り付けるような簡単なものではなかった。当時は、広島周辺でスキーができるのは恐羅漢山くらいしかなく、しかも恐羅漢山のスキー場は奥まった場所にあるため、山麓の戸河内から徒歩で夜の山越えをして内黒峠の避難小屋(今はない)で休憩し、深夜にスキー場の民宿に到着するような行程だったという。つまり、今では考えられないほど、非常に労力がかかった。

 昭和37年の年末。仕事収めのあとに両親は、山仲間とともに最終バスで戸河内に入り、スキーとザックを担いで峠道に足を踏み入れた。山間集落と山麓の町を結ぶ林道で、おそらくある程度のラッセルもされていただろうが、それでも、いわゆる「サンパチ豪雪」の直前で胸までの積雪があって大変だったという。
 実は別の山仲間2名が1便前のバスで先行しており、たまたまバスで同乗した国税庁に勤務する青年と一緒に内黒峠に向かっていた。両親ら一行が峠に近づくと、道端にスキーが投げ捨ててあり、さらに行くと今度はザックがころがっていた。そしてその先に人が倒れていた。
 倒れていたのは先行者がバスで乗り合わせた青年で、避難小屋に運び入れて、心臓マッサージをしたり身体を暖めたりしたが、残念ながら息を吹き返すことはなかった。もともと心臓が弱かったらしいので、おそらく一緒に登っていた二人に遅れをとり、一人になったところで心臓麻痺か何かで倒れられたのだろう。
 当時は、現在のように携帯電話ですぐに通報ができるわけもなかったが、買い出しのために山麓へ下る民宿の主人に偶然遭遇したので警察への通報を依頼できたそうだ。
 
 ところが、話しはこれで終わらない。正月休みをスキー場で過ごし、帰る日のことだ。両親が懇意にしていた民宿にはほかにもスキーヤーが泊まっていた。その中には以前から顔見知りだった三菱レイヨンの一行がおられた。彼ら一行が帰り支度をすませて、両親に声をかけた。「日野さん、戸河内まで一緒に下りませんか」。ただ、両親らはまだ支度が終わっていなかったので、「すぐあとを追いますから、先に下りて」といったらしいのだが、実はこのわずかな出発時間の差が運命を左右することになろうとは、その時は誰も想像すらしていなかった。

 内黒峠の避難小屋まで来て、小屋で休憩していると、先に下りた一行の一人が、歯をガタガタ震わせながら小屋に飛び込んできた。中ノ谷をスキーで下っていた時に雪崩が発生して全員が飲み込まれたという。自力で脱出できた人、救出された人もいたが、7名中2名が帰らぬ人となった。
 そのうち1名は見つからず、春になって発見されたのだが、その捜索の際に最初に出て来たのは一行とは関係ないおじいさんのご遺体だった。近くの集落に住むおじいさんが、神戸の娘さんのところに行くために餅を持って山を下った。その途中で遭難したと思われた。
 おばあさんは、おじいさんが神戸に到着しているものとばかり思っていた。一方、娘さんは、おじいさんが用ができて来られなくなったのだろうくらいにしか思っていなかった。当時は電話も普及していない頃。今なら考えられないことだが、こんなことも現実にはあるのだ。

 母はいう。民宿を先に出たのが、もし逆だったら。自分たちが雪崩に巻き込まれた可能性も十分にあっただろう…と。記録的な豪雪の年の新雪斜面である。スキーで滑ったことがきっかけとなって雪崩が発生したと考えられ、両親ら一行が先に下りていれば、飲み込まれた可能性も捨てきれない。もしそうであれば、私が生まれることもなかったかもしれない。それを考えると、なんともいえない運命の無情さを目の前に突きつけられている気分になる。

 その遭難碑は、今でも内黒峠の少し東側県道沿いに立っている。今年5月、車に両親を乗せて通りがかったので、碑に手を合わせ写真を撮影してきた。碑には枯れた花が残っていたので、60年近く経過した現在でも誰かが時折、花を手向けておられるのだろう。また最初の遭難事故で亡くなられた青年の遭難碑も峠付近の少し入った場所にあったはず、と母は言っていた。



両親にも関わりがある、内黒峠に立つ遭難碑。昭和38年1月6日遭難…とある。



長野県阿智村と岐阜県中津川市にまたがる富士見台高原で見かけた遭難碑。昭和30年8月3日に地元中学の生徒4名が犠牲になった落雷遭難の碑。



新潟県魚沼市・浅草岳。2000年6月18日の遭難救助中に殉職された警察や消防関係者4名の慰霊碑。

以下3点NEW
谷川岳ロープウェイベースプラザ(山麓駅)手前の小公園にある谷川連峰山岳遭難者の慰霊碑。昭和12年の建立(左)。同公園には、やはり遭難者慰霊のために昭和15年に彫刻家が製作した「山の鎮の像」を昭和60年にブロンズで復元した像も立っている(右)。



同公園には昭和42年に建立された「静寂の碑」もある。表面には昭和6年から順に遭難者の名前が刻まれている。揮毫は作家で政治家だった今東光(こん とうこう)。撮影は2009年。その後の2016年にも同地を訪れて撮影しているが、いずれも40年以上経過しているにも関わらず、花が供えてあった。


遭難碑ではないが、見て切なくなったものを最後に掲載しておきたい。谷川岳・一ノ倉沢(左)と、その一ノ倉沢の岩壁を望む下流に供えられた花。線香の跡もあった(右)。登攀中に遭難されたのだろうか。撮影は2001年。

山は魅力的な場所であると同時に死に直結しうる場所でもある。誰しも「自分だけは大丈夫」と思ってしまいがちだが、これらの遭難碑は、それが現実に起こったことを改めて我々に教えてくれる。山を甘く見てはいけない。そして決して他人事ではない…と胆に命じたい。




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