私は山で不思議な出来事に遭遇したことが何度かある。よく調べれば、その原因や理由は案外あっけないものなのかもしれないが、この手の話というのは、もともとその性質上、民話や昔話の類に限りなく近いものだ。だからそういう視点から読んで、ちょっとだけゾッとしてもらえれば結構だと思う。


山
譚
Nature
岳
奇
私が体験した話
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山で突然、鳥肌が立つ


 原生林のような薄暗い場所というわけでもない。あるいは怖い話を突然、思い出したということでもない。ごくありふれた山の中で、稀だが唐突に鳥肌が立つことがある。これまでそんな体験をしたのは数えられる程度で、正確な場所まで覚えているほどだ。 
 一例を挙げよう。それは数年前、信州のとある高原でのこと。取材を終えた私は今まで利用したことのない道路を利用して山麓へ下った。メインルートではないため車の通行量はごく少ないが、それでも一応県道である。途中、道路沿いにオニグルミ(クルミ科の樹木)がたくさん生えている場所があり、たわわに果実を実らせているのが車窓から見えた。私はその果実を写真に収めようと車を路肩に停めた。
 車を降りて絵になる果実を探して道路沿いを歩いていたときのことだ。フッと突然、鳥肌が立った。確かに少し前から何となくイヤな感じがしていたのは事実だが、自分でも予想だにしない反応に、ちょっと意外に感じた。
 しかし時間はまだ午後3時ごろ。イヤな感じを無視してオニグルミの果実を撮影。さて、もう少し探そうかと歩き出したとき、ある看板が目に入った。それは何ヶ月か前にこの付近の森に山菜取りに出かけたおばあさんが、そのまま行方不明になったことを知らせる看板で、「お心当たりがある方はご連絡下さい」と書かれていた。このことと鳥肌が立ったことに何らかの因果関係があるとする根拠は一切ないが、私にはそれが理由のように思えてならなかった。おそらくこの森のどこかで亡くなられたおばあさんの無念の思いに、私の第六感が反応したとするのは考えすぎだろうか。
 だが、似たような話はほかでも聞いたことがある。かつて勤務していた出版社で付き合いがあった写真家の方自身の体験談である。それは次のようなものだ。
 仲間の人と二人で、お互い初めて登る山に撮影に入ったときのこと。登山道がカーブする場所で、何となくイヤな感じがしたところ霊感のある同行者が「以前、ここで誰か死んでいるようだ」と云う。カーブを曲がってみると、そこにははからずも遭難慰霊碑が建っていたというのである。
 人間は、特に不本意な死に方をしたとき「念」のようなものがその場所に残るのではないだろうか。「もっと生きたかった」とか、「死ぬ前に誰かにもう一度会いたかった」というような強い「思い」である。そんな「思い」は念としてその場に残り、生きている人間にも伝わってくるのではないか。
 人間をはじめ生物が生きるということは複雑さの大小はあるものの合成や分解などのような化学反応の集積であるともいえる。だが生物が死ぬというのは、そうした化学反応が停止しただけ、といえるほど単純なことなのだろうか。特に人間の場合、私にはそんなに単純なこととは思えない。



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