私は山で不思議な出来事に遭遇したことが何度かある。よく調べれば、その原因や理由は案外あっけないものなのかもしれないが、この手の話というのは、もともとその性質上、民話や昔話の類に限りなく近いものだ。だからそういう視点から読んで、ちょっとだけゾッとしてもらえれば結構だと思う。


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私が体験した話

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北八ヶ岳・双子池の足音


 晩秋の北八ヶ岳はすでに雪に覆われていた。1988年11月4日、私は一人で幕営装備一式を担いで北八ヶ岳・蓼科山を目指して竜源橋から山に入った。竜源橋を出たのは昼過ぎ。亀甲池を経て双子池に着いたのは夕方であった。早速、テントを設営して横になった。今日の行程はそれほど長くもなく疲労も少なかったため、なかなか眠りに就けなかった。ずいぶん時間が過ぎてから、ふと時計を見ると11時。
 そんな折、100mほど先にある登山道あたりから、ザクッ、ザクッという雪を踏みしめて歩くような音が聞こえ始めた。足音は明らかに一人分の音で、最初のうちは「こんな時間に登山者か」と少々あきれ気味にテントから外を見たりした。しかしこの日は金曜日。会社勤務を終えて自宅を出発し、その日のうちに幕営指定地まで入り一泊。土日の休みを最大限利用して登山を楽しむ。休みの少ない会社勤めの人ならそういうことを考えてもおかしくはない。夜行幕営泊の予定でやって来た単独行の登山者なんだろう。
 私はとりあえず登山者の足音と考えることにして眠りに就こうとした。ところが10分たっても20分たっても、その音は近づきもせず遠ざかりもしない。まるである一定の場所で輪を描いて歩いているかのように足音は移動しないのである。動物の足音だろうかとも考えた。だが野生動物が雪の上を歩いても、そんなに大きな音はしないはずだ。しかも同じ場所を輪を描くように歩き続ける動物なんているはずもない。私は考えながらもいつの間にか眠り込んでしまった。
 翌朝、外の明るい気配を感じて目が覚めた。足音はすでに聞こえなかったがテントから顔を出してみると、予想に反して、しんしんと雪が降っていた。昨夜の足音はいったい何だったのだろうか。そのことが終始頭から離れないまま、その日、予定の蓼科山登山を中止し、吹雪く双子山を経て竜源橋へ再び下山した。
 実は八ヶ岳では、私と同じく謎の足音を聞いたという人が多いらしい。しかも、この手の話のほとんどは、なぜか冬季に限られているという。確かに八ヶ岳を舞台にした不思議な体験談で、春から秋のものは読んだことがない。私の体験も正確には晩秋だが、すでに積雪もあるから冬季といっても無理はないだろう。
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