私は山で不思議な出来事に遭遇したことが何度かある。よく調べれば、その原因や理由は案外あっけないものなのかもしれないが、この手の話というのは、もともとその性質上、民話や昔話の類に限りなく近いものだ。だからそういう視点から読んで、ちょっとだけゾッとしてもらえれば結構だと思う。


山
譚
Nature
岳
奇
私が体験した話
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山小屋にいたはずの男性が


 これは10年ほど前、ある山小屋での体験だ。その小屋は今でも営業しているから山名も小屋の名前も出せない。ここでは仮にK小屋とでもしておこう。
 あまりすっきりしない天気の中。ひとり登山口を出発。平日ということもあって、私以外には登山者はいない。しかも登るに従いガスが出てきて、小雨まで降り始める始末。昼間だというのにあたりは薄暗く、不安な気持ちを抑えながら、さらに登山道をたどって行った。
 やがて中腹に立つK小屋が見えてきた。ここは営業小屋だから管理人もいるだろうし、ほかの登山者だっているだろう。登山口から誰にも会わないで来たので人恋しくもなっていた。その気分をちょっとは紛らわせるかもしれない。そう思って、少し上にあるK小屋を見上げた時のことだ。ちょうど小屋1階の窓際に白い服装をした男性が立って「誰が登ってきたぞ」という具合に私の方を見下ろしているのが見えた。その男性は、すぐに窓際から離れてしまったが、その姿を確認して「K小屋は営業してる」と私は安心した。
 小屋の手前に続く階段を登ってK小屋に到着。初夏とはいえ肌寒かったので、暖かい飲み物でもあれば注文しようと入口の引き戸を開けた。だが予想に反して、中には人の姿はなく、しーんとして物音ひとつしない。「すみませーん」と声をかけてみたが、反応なし。「あれ?」つい先ほど窓際に立った男性はどこに行ったのだろう。ふと入口のカウンターに置かれた紙に目が留まった。そこには「今日は都合により下山していますので、宿泊される人はこの料金箱に料金をお入れ下さい…云々」と書かれていた。
 入口からは1階全体が見渡せる。だが、そこには誰もいない。2階にも上がってみたが人影なし。念のため外のトイレにも行ってみたが、やはりいない。そもそもこの小屋入口の引き戸を開ければ、ガラガラと大きな音がするはずで、私が小屋に着く前に出発したとすればその音が確実に聞こえるはずだ。ところがそんな音はまったくなかったのだ。
 とすると、私が見たあの男性はいったい…。急に怖くなり、早々にK小屋を後にした。その後、ガスで何も見えない山頂に立ったあと下山。結局その日出会った登山者は、別のコースから登ってきた2組3人だけ。
 さて下山途中の鎖場でのこと。鎖に捕まって岩場を下っていると、ふと背後の下の方から視線を感じる。「いやだな〜、勘弁してくれよ」と思って振り向くと、そこに立っていたのはカモシカだった。岩場の下に立って、下ってくる私を見ていたのだ。やれやれカモシカでよかった。カモシカはしばらくじっと私を観察したあと、やがてきびすを返して、急な斜面をあっという間に下っていった。
 
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