通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの細通じゃ
天神さまの細道じゃ
ちょっと通して下しゃんせ
御用のないもの通しゃせぬ
この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも通りゃんせ 通りゃんせ


 童謡「通りゃんせ」は、昔から様々な解釈や分析がなされているようですが、ここでは、それらの説は置いといて、単純に歌詞の内容からシチュエーションを考えてみたいと思います。
 改めて内容を思い返すと、疑問点が次々に浮かんできます。少なくとも七才になった子供とその保護者が、天神様にお札を納めに行こうとしていることがわかりますが、私は歌詞の登場人物を「方向音痴の母親と七才になった子供」と考えました。また母親は、継母の可能性もあります。なぜそういえるのか、説明しましょう。

 この童謡が成立した江戸時代は、庶民が見知らぬ土地へ自由に引っ越すことはできなかったはずですから、子供の成長を祝ってお参りする神社は、先祖代々信仰してきた近所の氏神様である可能性が最も高いということになります。それなのに身近な氏神様(=天神様)へ行く道がわからず、誰かに尋ねているのはなぜなのか。ここがポイントです。
 お札というのは、本来は神社で頂いて来て自宅の神棚などに飾り、いずれ神社に返すものです。つまり、「お札を納めに行く」ということは、少なくとも一度は天神様にお札を頂きに行っていることになります。それは別の家族や親族が担った可能性もありますが、次のようにも考えられます。
 「ちょっと通して下しゃんせ」という言葉遣いからすると、この保護者は女性であり、やはり子供の母親と考えるのが一番自然でしょう。確かに他所からお嫁に来たため氏神様に参った経験に乏しくて、周辺の地理に詳しくなかったと見ることもできます。でも、その一方で子供が七才ということは、結婚してから7年以上も経過しているわけで、それほど長期間の居住歴があれば、すでに周辺の地理に精通していても不思議ではありません。またお祭りなどの行事で訪れる機会が何度もあったに違いありません。それなのにどうして天神様へ行く道が覚えられないのか、という疑問も生じます。よほどの方向音痴なのか、そうでなければ他の地域出身の再婚したばかり継母と考えると、辻褄が合います。
 
 天神様参りが、もし七五三であるのなら(「お札を納めに行く」ということからは、可能性が低そうですが)、関西圏では十三才になったことを祝う十三参りが主流であり
、七五三はもともと関東圏の行事なので、歌詞の舞台は関東圏と推察できます。また七五三とは、男の子は三才と五才、女の子は三才と七才を祝う行事ですから、七才の祝いに参拝するということは、歌詞の子供は女の子であり、この日は、当然、七五三が行われる旧暦の11月15日ということになります。
 しかし、男女に関係なく七才というのは、古来日本では初めて社会の一員として認められる年齢だったそうですから、そのお祝いであれば、全国の七才の男女ともに可能性があります。

 次にお札を頂ける天神様となると、無人の小さな神社ではなく、宮司さんがいる比較的大きな神社と思われます。そんな神社へ行く道が、どうして「細道」なのか。これまでは広い表参道を通ったが、今回は、偶然ショートカットできそうな天神様方面に続く小径に気づいて、入口にいた人に尋ねたのかもしれません。また会話の相手は、「用のない者は通さない」と通行を拒否できるわけですから、天神様の関係者か、細道を含めた一帯の土地所有者ということになりますかね。

 さて、最後は、なぜ「行きはよいが、帰りは怖いのか」という点です。自分の土地なので見ず知らずの人を通したくないと思って、単に脅しているだけ。あるいは日が西に傾く時刻だったため、帰りは逢魔時(おうまがとき。夕暮れ時のこと)になるだろうということで、文字通り妖怪のような「魔」に出会うので怖い(あるいは単純に暗くなるので怖い)…などの見方もできるかもしれません。

 歌詞からまじめにシチュエーションを検証してみましたが、もしかするとモデルがいたわけでもなく、それほど深い意味があるわけでもなく、単に「通りゃんせ」の遊びが先にあって、それに合わせて作詞者が適当に歌詞を付けただけだったりして…。うーん、だとしたら、この記事、まったくの無駄だったかも〜。でも、いいんです! 正しいかどうかが重要ではなく、考え方を楽しむのが目的ですから(笑)。


 
 

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第14話

通りゃんせ考