●生態系音痴とは
 
 いささか失礼な呼び方かとは思うが、私は、生態系についての基礎的な知識を有さないがゆえの間違った考え方であるにもかかわらず、あたかも考え方や価値観の違いであるかのように堂々と自分たちの考えを主張している人たちのことを「生態系音痴」と呼ぶことにしている。
 一方、生態系について詳しく知らなくても専門家の意見に、素直に耳を傾けることができる人は、生態系音痴とは呼ばない。
 私は、今の日本(おそらく他の先進国でも似たようなもの)では、まさに生態系音痴の天国という気すらする。しかも昨今は環境意識が高まり、テレビなどで「生態系」という言葉を耳にすることも増えているが、それでも世間一般の人が、どれくらいの割合で理解しているか、さまざまな事例から見てほとんど期待できないのが現状である。



●生態系とは、そもそもどういうものなのか
 
 
 ごくごく簡単にいえば、ひとつの地域に棲息するすべての生物と環境が複雑に関わり合う体系、ということになろうか。だが、一番重要なのはそんな言葉の定義ではない。わかりやすいように次のようなものにたとえて説明しよう。
 まず日本の典型的な自然を一枚の絵にしてみる。山があり、川が流れ、池があり、周囲には木々が生い茂っている。その絵の「川」の部分に切り抜いた魚の絵を置いてみる。次に同じく切り抜いた鳥の絵を木にとまらせてみる。少し鮮やかさがほしいので、池の畔に花がいっぱい咲いた園芸植物の絵も置いてみる。だが、いろいろな絵をおいて行くと、ちょっと煩雑になってしまった。そこで先ほど置いた園芸植物の絵を取り除いてみた。するとバランスがよくなった。ガラス付きの額に入れて絵が完成だ。その絵は人間が手を加えない限り、このまま変化しないし、いつまでもバランスを保っている。
 実は生態系音痴の人の発想は、まさにこうなのだ。鮮やかさがほしいからと園芸植物の絵を置く。でも邪魔になったら取り外す。これは絵の世界だから、置くのも取り外すのも簡単だし、置いている絵どうしが影響しあうことはない。ところが、現実の自然の中ではこんなに簡単にはいかない。園芸植物を植えたら、もともと生えていた野草よりも繁殖力が強くて、あっという間に園芸植物だらけになってしまうこともある。時には、園芸植物と近い種類の野草との間に雑種ができて、やがてはその雑種ばかりになってしまう。すると以前あった野草だけを餌にしてきた虫は食べるものがなくなり、姿を消す。その虫を食べていたトンボも姿を消し、トンボを食べていた鳥も…と次々に影響が及んでいくのである。この例え話のように、現実の自然環境では必要なら置くし、必要でなくなれば取り外す、という単純なことではすまないのだ。
 生態系の基礎を理解するのに難しい専門用語はいらない。要は生物どうしやそのまわりの環境は複雑に関わり合っている、ということだけでも知っておくといい。さらに、その関わり方というのは、決して表面的に見て認識できることばかりではないということ。生物の複雑な関係というのは、専門家でもその全体像は見えてこないことが多いのだ。それほど複雑な体系がゆえに、ひと度問題が生じると、それを元に戻すのは不可能に近いのである。しかも、こうした問題を見逃していると、結局は地球という巨大な生態系の頂点にいる人間の存在自体も、やがては揺らぎかねないのである。
 だからこそ生態系を正しく理解し、なるべく生態系への影響を少なくなるような手段を選んで行くべきなのだ。もちろん経済活動も重要。豊かな文明社会の利便性を思いっきり享受してきた我々に、今さら自然に優しい原始社会に戻れるはずもないからである。ある程度の経済活動は仕方ないとしても、個々の事例にあわせて可能な限り生態系への悪影響を少なくし、未来の世代に少しでも健全な環境を受け渡して行くこと。それが、今の世界に生きる我々の責務である。そして現在、その大きな分岐点にさしかかっているといっても過言ではない。未来の世代に「どうして、あの時になんとかしなかったのか」と批判されるようなことがないよう、よく考えたいものである。
 生態系を無視し自分の利益を最優先したとしても、所詮その利益をあの世に持っていけるわけではない。人間はいずれ誰でも死ぬ。どうせ死ぬのなら、未来のために少しでもいい環境を受け渡せるように、そして受け取った子孫たちも、さらにそれを未来へと受け渡せるように、その道筋をつけるのが賢明な方法だと思う。自分自身のことしか考えられず、生態系について知ろうともせず、トンチンカンな主張をしている人たちは、少しは意識を変えたらどうだろう。



●リベット説という考え方

 地球上に生息するあらゆる生物は一見無関係なようでも、実は複雑に関わり合いながら生きていることをわかりやすく説明するリベット説という考え方があるので、紹介しておこう。
 まず地球環境を飛行機に見立ててみたい。そして地球環境を構成している生物1種類を飛行機に使われるリベット1本(わかりにくければネジでも構わない)にたとえ、その飛行機に人類が乗っているとしよう。
 最初に1種類の生物が絶滅したとする。しかし巨大な飛行機の中のわずか1本のリベットが脱落したに過ぎず、まったく影響がないようだ。しかし、さらにまたひとつと次々にリベットが落ちていき、ついには機体を支えることができなくなり…。
 その後の人類の運命は説明の必要もない。現在、私たちが搭乗している地球という飛行機は、すでにぽろぽろとリベットを落としながらかろうじて飛行しているのが現状である。
 実は過去の地球の歴史には気候の大変動により5回もの生物全体に及ぶ危機があった。そんな時に地球の「生命の流れ」が途切れなかったのは、まさに生物に多様性があったからこそである。すなわちさまざまな特徴をもったさまざまな生物がいたから、危機を乗り越えられたのだ。氷河期の到来で多くの生物は絶滅したが、一方でそれに適応できた生物もいた。もし生物に多様性がなければ、とうの昔に地球の生物は全滅し、人類が現れることはなかったかもしれない。
 生物1種類だけで生きていくことは到底不可能である。それは人間だって同じ。また過去の地球では、あらゆる生物が生まれては絶滅する、ということを繰り返してきた。それは進化の過程や自然の変化の中で、極めて緩やかに起こってきたことたが、今世紀に入ってそれは急激に増加し、生物の絶滅が相次いでいる。問題なのは過去の例とは根本的に異なり、その原因はほぼすべて人間活動によるという違いがある。だから過去と現代とを比較して、どちらも同じ絶滅だから多少は仕方ないという考え方は間違っている。



●生態系音痴に共通する物の見方

 生態系音痴の人々は、生態系の基礎知識がないがゆえに似たような物の見方をもつ傾向がある。つまり、自分にとって関心がある生物にしか視点を置かないという傾向である。バス釣りをする人というのは、バスにしか視点を置かない。「バスはいい魚だし、バスだって生きている。なのにリリース禁止とはけしからん」という具合である。だが、彼らの頭の中にはバスによって補食される魚のことなど、鼻から存在しないのである。さらにいえば、その結果どういうことになるかすらも考えてはいない。つまり、要は自分がバス釣りを楽しめれば、それ以外のことがどうなろうとも関係ないのである。
 バス釣り目的で、直径わずか20mたらずの池にバスが放流された例を出して考えてみよう。このような狭い生態系では、その影響が目に見えて現れるのは早い。身近なこの池にバスを放流すれば、このままバス釣りを続けられると放流者は思ったのだろうが、放流されたバスは池にもともといた魚を喰い尽くし、食べる物がなくなって、やがてはバス自身も一匹残らず姿を消したのである。バスを放さなければ、在来の魚が棲息する豊かな池だったのに、バスを放したせいで在来の魚どころかバスすらもいない池になってしまったのである。バスを放流した人は、この責任をどうとるのだろうか。生態系音痴の思考能力なんて、この程度なのだ。目先のことしか頭になく、先のことにはまるで頭が働かない困ったちゃんが多いのである。
 言っておくが、生態系という概念は価値観の違いで片づけられるものではない。あくまで科学的な概念であるから、人によって考え方見方に違いがあるマナーのような問題とは全然次元が違う。それをあたかも価値観の違いであるかのように自分たちの考えを声高に主張しているのは、まったくの厚顔無恥としかいえない。ある程度の知識がある人からは、バカにされていることすら知らない。それほど自分の考えが正しいというのなら、大学で生態学のイロハを学んでみればいい。それをきちんと学べば、自分の考えのどこが間違っていたのか理解できるだろう。何も知らないのにわかったようなこといってるんじゃない。



●なぜ、これほどまでに生態系音痴が多いのか
 
 私は、この原因を作ったのは学校教育にあると思っている。私が中学生〜高校生の頃は、「生態系」という言葉は中学校ではまったく教えられず、高校でようやく、ただでさえ選択する生徒が少ない生物学第二分野を選択して初めて教わった。ある資料によると1学年の生徒数が全国で154万人だった当時、そのうち生物学第二分野を選択したのはわずか16万人に過ぎなかったようだ。この状況は今もそれほど変わっていないのではないか。
 つまり生物学第二分野という学科を選ぶか、それとも大学で生態学を学ぶか、あるいは個人的に興味をもって勉強でもしない限り、学校教育も含めて大人になるまでに生態学の基礎について学べる機会は皆無なのである。これでは、ほとんどの人が、生態系とはどのような概念なのか、まるで知らないのも当然なのだ。おそらく今も、意識が高い先生を除けば、学校教育の場で「生態系」について教えてはいないのではないか。
 その一方で学校教育では、結構くだらないことを暗記させられる。例えば研究の進歩によって変化することもある歴史の年号などだ。歴史の年号は大学で歴史を学ぶ人だけ覚えればいいのであって、それ以外の人にとっては、江戸幕府開幕が1600年だろうが、1603年だろうが、大きな問題ではない。歴史の全体的な流れや歴史上の人物について、ある程度の知識を得られれば歴史教育の責務は果たされたと思う。むしろそんな些細なことよりも、歴史には、表面的な事実だけでは見えてこない裏側もたくさんあって、ひとつの視点だけでなく、さまざまな視点から多角的に見なければならないということを教える方がはるかに重要だと思う。そもそも歴史というのは、基本的に勝者の歴史なのだ。
 こんな下らないことを一方では必死になって覚えさせている割に、生態系という21世紀の人類にとって大きなキーワードになる用語の片鱗も、今の学校教育では教えようとしないのである。こうした歪んだ学校教育が、「ブラックバスが何で悪いの?」という連中を生み出してきたのである。そして、現在は重要な政策に関わる官僚や政治家から、ひいてはマスコミや知識人とされる人の中にも、生態系音痴がたくさんいるのである。それは諫早湾干拓事業など、さまざまな例を出すまでもないだろう。
 生態系という学術用語なんか知らなくても大きな問題はない、と思う人がいるかもしれない。確かに世間一般の人が、微分積分を知らなくても問題はない。有機化学の知識がなくても問題はない。それらの知識の有無が私たちの社会に影響することはほとんどないからである。ところが言葉自体は知らなくても生態系という言葉がもつ意味を理解していない場合は、大きな問題に発展する可能性が高い。ひとりひとりの行為と生態系とが直結していることが多いからである。それはバス問題など見ればいうまでもないだろう。
 ある著名な植物学者が、植物専門雑誌に「絶滅危惧種保護について意識の高い人にその問題を訴えることはそんなに難しいことではない。しかし、一般市民に広くとなると絶望的に難しい」と書かれていたのが印象に残っている。当然、その問題の重要性を政策決定者である政治家に理解してもらうのも容易ではないだろう。仕方ないといえば仕方ないかもしれないが、もし生態系についての意識が高い社会なら、こうした努力のハードルもかなり低くなり、ひいては日本の自然にとって大きなプラスになるであろうことを考えると、こうした現状は誠に残念というほかない。


生態系に関わる問題対策の基調に 
すべき「慎重なる回避」という考え方


 「慎重なる回避(prudent avoidance)」とは、地球温暖化や人体に対する電磁波の影響など、現在、EU諸国が採用する基本的な姿勢で、要は「安全性が証明されていない疑わしきものは回避する」ということ。つまり、影響がはっきりしていないものを「危険性が証明されていないから安全」とするのではなく、その影響がはっきりするまで予防のために回避しておこうという考え方である。
 これは生態系に関わる問題でもまったく同じであり、今後、こうした問題について対策を講じる際の基調にすべき考え方といえる。よく考えてみよう。「危険性が証明されていないから安全」というのは、現時点で確認されていない疑わしき危険要素が、本当に危険要素かもしれない可能性を完全に無視しており、実は論理的に間違っている。【危険性が証明されていないこと=安全】という構図は決して成立しない。つまり「危険性が証明されていない」のは、あくまでグレーゾーンということでしかなく、「安全性が証明されているから安全」と同じではないのだ。そこを勘違いしてはいけない。あとで危険とわかっても大きな問題ではない場合は、とりあえず選択しておき、状況に応じて方針を転換するという方法もあるが、生命に関わるような重大な問題に発展する可能性が少しでもあるのなら、慎重にすべきなのは当然といえる。影響が判明してからでは、すでに手遅れということが多い生態系に関わる問題でも、やはり同じように慎重であるべきなのだ。
 これは、すじみちを立てて物事を考える人には、説明しなくても理解できることだと思うが、日本では「危険性が証明されていないから安全」と思い込んでいる論理音痴がたくさんいる。さらには外来種新法において疑わしき生物の輸入を認めた例を見るように、環境省でさえ、このあたりのことをきちんと理解していないのではないかと疑問に感じるのが、今の日本の現状なのだ。


●著名人にも生態系音痴がいっぱい



     (つづく)










Nature

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生態系音痴が 日本の自然を破壊する