Nature

日本アウトドア犬協会の主張について (追加記事)


 そもそも「犬が入山することで生態系の影響がある、ない」という点について、科学的な根拠を示すのはどちらも容易ではない。「犬連れ登山が生態系に影響があるという科学的根拠はない」と彼らはいうが、同時に湯沢町のいう通り「生態系に影響はないとする科学的根拠がない」のも事実である。さらにいえば「生態系に影響がない」ということを論理的に証明することの方が、その逆よりもはるかに難しい。
 ネットで賛成派の意見を読んでいたら、裁判を例に出して「ない」ということを証明するのは不可能なのだから、「ある」と主張する方が根拠を示すべきという意見があった。しかし、これは大きな間違いである。この問題は事件などではないのだから裁判をベースにして考えること自体、適切ではない。科学の問題は、科学でのみ結論を得ることができる。従って裁判ではなく、科学で考えなくてはならない。
 わかりやすいように多くの人が体験したことがある事例を出そう。高校の時に数学で命題問題を習ったことを覚えている人は多いと思う。例えば、「任意の正の数χに対してa+χ>b ならば a>bである」というような命題が与えられ、その命題が正しいか間違っているかを答える問題だ。もし真とするのなら証明をし、偽とするのなら反例を示せばよかった。これは数学だけでなく、同じく論理で成り立つ科学でも同じことである。「犬連れ登山は生態系に影響がある、ない」というのを、ひとつの命題と考えれば、それが「ある」だろうが「ない」だろうが、そのこと自体に大きな違いはない。つまり…


「犬連れ登山は生態系に問題がない」という場合は、真なら証明、偽なら反例  であるし、
「犬連れ登山は生態系に問題がある」という場合は、真なら具体例、偽なら証明  なのである。


 「問題がある」でも「ない」でも、それを論理的に結論づけるには、証明するか例を示すか、どちらかをしなければならない、という点においては同じなのだ。協会や賛成派がいうように「ある」という方が根拠を示さなければならない、というのはまったくおかしな論理である。こういう科学の根本が、まるでわかっていない。
 本来「生態系に影響がない」と主張するのなら、根拠を示し、それを証明する以外に道はない。それが科学だ。しかし、その証明が難しければ、それを認めた上、反対派の意見ひとつひとつを論理的に反論していくことで、自分たちの方がより正当性があると世の中に訴えることはできる。そういうことを主張するのなら、まだわかるが、このようなお粗末な論理を展開する協会に今後も反対派の意見に論理的な反論を続けられるのか、極めて疑問である。もし、それさえもできないというのなら、この議論に参加する資格がないだけのことだ。


 私がなぜ、犬連れ登山に反対するのかはこれまで述べたとおりで、専門家の意見を踏まえて生態系に影響がある可能性などを指摘した。私はこれらの主張で論理的に無理なことはひとつもいっていない。それは個人的欲求とは無関係ということもあるが、なによりも「真理」を重視しているから無理なことをいう必要がまったくないからである。もし、日本アウトドア犬協会の主張が論理的に完璧だったら、とうの昔にそれに同調していただろう。私はそう断言することができるが、仮に犬連れ登山が生態系に問題があると科学的に証明されたとしても、ホンネでは犬連れ登山は続けたいと考えている協会に同じことが断言できるのか。甚だ疑問である。
 協会の主張は、もともと個人的欲求に根ざしているだけでしかない上に、さらに相手の主張に反論することしか考えていないから、根拠を示すことが難しい質問を投げかけられて、ついにはこんなトンチンカンな反論をするしかなかったのだろう。こういうのを「健全な議論」とはいわない。
 世の中にはこうした「健全な議論」ができない人が実は意外に多い。「健全な議論」とは、つまりは「論理的な議論」である。「論理的な議論」ができる人というのは、自分の意見に対する反対意見であっても、論理的で納得できるものであれば、それを受け入れることができる人のことをいう。もちろん、世の中にはどちらも論理的で納得できる相反する意見がある場合もある。しかし、そうであっても相手の意見にも一理あることを認識することはできる。
 また世の中にはさまざまな価値観がある。価値観に多様性があるというのは、それが常識の範囲内であれば、むしろ結構なことだが、「犬には絶対に問題はない」とか「犬の制限は偏見に決まっている」などの価値観や視点に凝り固まって、相反する価値観や視点はすべて拒否するというような態度では、反対意見をもつ人はもちろん、中間意見をもつ人ですら納得し、同調させることは絶対にできない。つまり自分は他人の意見には一切同調しないが、他人は自分の意見には同調してほしい、という実に自己中心的な考え方でしかないからである。こうした主張に同調するのは、その価値観の方が自分にとって都合のいい人か、論理的な考え方ができず、表面的なことだけを見て安易に判断してしまうようなバカだけである。悲しいかな、世の中には論理よりも自分が望むことの方を優先するだけでなく、自分の欲求に判断が大きく影響されていることを客観的に認識することもできない、このような「論理音痴」がいっぱいいる。しかも、さらに救いがたいのは、当人はまっとうな議論をしていると信じて疑わないことである。こういう人が覚醒するのを期待するのは無駄なことだが、期待薄とわかった上で、できることなら早くそのことに気づいてもらいたいと思う。まるでダダっ子のように「自分の考えの方が絶対に正しいのだから、みんなもそれを理解して!」といい張っても、それはまったくの逆効果でしかない。
 また、これまで専門家が犬連れ登山に関してほとんど発言してこなかったのは、専門家も犬連れ登山は問題ないと考えていたからではない。このような個人的欲求と深く関わる件に関しては、「健全な議論」ができないことが多いからである。相手が自分の主張を認めるまで質問を続ける、この日本アウトドア犬協会のような団体や人物から対象と見なされて議論に引きずり込まれれば、ただただ疲労するというのは目に見えているからである。不毛な議論を尽くさなければならないことが容易に想像できるから、誰も積極的に発言してこなかっただけである。


 協会は、犬連れ登山禁止看板を立てた現地管理者に質問を繰り返し送りつけている。その結果を見ると、一部その撤去に応じたところもあるようだが、ほとんどはそれに従っておらず、やがて返信も来なくなるのが現状のようである。協会はおそらく、返信(反論)できなくなったのだから相手の主張を論破した、とでも思っているのだろうが、それは違う。特に専門的な知識がある担当者の場合は、協会が「健全な議論」「論理的な議論」ができる相手ではないことに薄々感づいたのだ。つまりは犬連れ登山禁止看板を撤去します、というまで繰り返される質問にいつまでも真摯に対応するのが無駄だということがわかったのだ。それなのに返信(反論)が来なくなったことを、さも論破したかのように自らのホームページで得意げに掲載するのは厚顔無恥というほかない。今後、いくら質問を繰り返し送りつけようとも、結果は同じである。むしろ、そういうことをすることで、ならば法規制をしようという動きに拍車をかけるだけだ。
 ただ、これまで協会の質問に的を得た説明が少なかったのも事実である。それは残念というほかない。そのせいで犬連れ登山制限はただの偏見に基づいたものだという誤解が進み、余計に賛成派を勢いづけてしまった感がある。


 日本アウトドア犬協会の主張は、確かに一理ある部分もあるが、先に述べた数々の事例のように漠然と読めば何となくそれっぽいが、細かく見ていくとやや無理がある、という主張が多いのである。山と渓谷誌に掲載された主張にしても、私がある野生動物の専門家に見せたところ「すべて間違っている」とバッサリ。犬連れ登山を何としても認めさせたい、という自らの欲求に、自分たちも知らず知らずのうちにその判断が大きく影響を受けて論理的に無理な主張になっているのが、協会の実態だと思う。これはおおかたの賛成派の意見にも共通する。加えて、科学的思考能力や論理性、想像力の欠如などが、どこか間の抜けた主張に陥ってしまう主な原因である。
 そんなことはない、と肩肘張るのは勝手だが、このようなスタンスで、本当にいいと思っているとしたら、それは大きな間違いである。理路整然とした主張であれば多くの人の賛同を次々に得ることができるが、そうでなければ、次第にそういうレベルの団体なのだという烙印を押され相手にもされなくなるだけのこと。おそらく会員の大半は盲目的についていくだろうが、論理的な考え方ができる会員から見放されるのは、時間の問題だ。
 


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