いいことも悪いことも自分に返ってくる
因果応報はおそらく事実である





 因果応報とは、「いいことも悪いこともすべて自分に返ってくる」という意味の仏教用語ですが、私は半世紀生きてきて、この考え方は意外と的を射ていると感じています。世の中や運命のしくみとして、そもそもそういう機能が備わっているのではないか…と思うのです。

 その機能とは、神仏も含めて、見えない何かが意図して因果応報となるように人の運命をコントロールしている…という意味ではなく、複雑に因果が絡み合って進んでいく運命にも実は物理的な法則があって、その法則が結果論的に因果応報を生んでいるかもしれないということです。

 このことは生態系で考えると、少しわかりやすいかもしれません。人為的な影響を受けない生態系内で、何かのきっかけで特定の生物が数を増やしても(=種としての利益拡大)、それは一時的に留まり、やがては個体数が元に戻ることも多いわけです。つまり、通常、生育環境が限られれば、その環境内で安定して種を継続できる個体数も限られるからです。空間だけでなく、食べ物や水が限定されることで、たとえ神仏が関与しなくても個体数は一定に保たれるような圧が働きます。それと似たようなしくみで、人間社会においても、なんらかの機能が働いているかもしれません。

 一方、もっとシンプルな要素も考えられます。例えば、自己中心的なAさんという人がいたとしましょう。Aさんは、自己中心的なので、とにかく、なんでも打算的に物事を考えます。たとえ他人に対して不誠実な結果を生むことでも、自己の利益を最優先させてしまいます。どうせ他人は気づかないだろうと高をくくっていて、確かに結果的には目先の利益を得られることが多く、Aさんは、内心「しめしめ。してやったり」と思っています。
 Aさんは、そんな目先の利益を得てばかりなので、一見すると長期的には、かなり得をしているようにも思えますが、現実はそうとは限りません。多くの場合、そのことに気づいた他人が、Aさんを信用しなくなり、もし他人がAさんを信用していれば、得られたはずの利益を失うなどして、結果的にトータルで見ると意外にもマイナスの方が大きい…ということは十分にあり得ると思います。つまり表向きは得したように見えるAさんは、目先の利益分を別の形で失っているというわけです。
 そういう目に見えない運命の精算が、本人が気づかないところで日常的に行われていることから考えれば、神仏が関わっているわけではなくても社会や運命というシステムの中で似たような機能がほかにもいろいろと働いている可能性を推察することができます。

 自己中心的な価値観をお持ちの人は、以上の説に対して鼻で笑い、きっとこう反論するでしょう。正直いうと、自分はこれまで自己中心的に生きてきたが、何か悪いことをしても、その行為に対する罰みたいなことが、直後に起きたことは一度もない。すべて、何事もなくすんでいる…と。
 でも、因果応報というシステムが、自分がした行為の直後に機能するとは限りません。それは半年後かもしれないし、もしかすると10年後かもしれない。いいことに対しても悪いことに対しても、実は直後よりもタイムラグがあることの方が多くて、因果応報は、一生のうちのどこかで精算されるように働いている可能性もあります。つまり、実は因果応報を知らず知らずのうちに受けていて、ご本人はまったく気づいていないこともあるというわけです。

 道端で1万円札を拾った。まわりを見ると誰もいない。これはチャンスとポケットに入れた。1万円丸儲けで、誰にもバレていない。1万円落としてショックを受けている人のことなんかどうでもいい。それよりもバレさえしなければ、自分にとってはいいことばかりで何の問題もない? …でも、10年後、その時の精算として誰かに騙されて、1万円どころかもっと損をするかもしれません。そういう気づきにくい形で因果は自分に返ってきている可能性は十分にあります。

 自分は、正義を通したのに、いいことは何も返って来なかったという人もいるかもしれませんが、それには3通りの可能性があります。ひとつは、自分が正義だと思い込んでいることでも、客観的に見ると実は正義ではない可能性。もうひとつは、小さなよいことが積み重なって、すでに精算されている可能性。そして最後は、「まだ精算されていない」可能性です。

 もしかすると因果応報は人間一人の一生に対してではなく、前世や来世、来々世も含めて、全体で精算されている可能性もあるかもしれません。つまり、人生を謳歌し幸せな人もそうでない人も、実は全体では平等なのかもしれないということです。だとしたら、自分の運命に不満があっても諦められるのではないでしょうか。





 




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