超常現象があるかないか、それを検証するのは不可能に近い。しかし、だからといって、それを安易に否定してしまっていいのだろうか。私は非常に疑問に感じる。一方で、私はその存在を盲信しているわけでもない。私なりの考えを書いてみたいと思う。


Nature
超
常
現
象
は
あ
る
か

科学的な物の見方とは


 ひとつ、たとえ話をしよう。私があなたの前に長さ5〜7cmほどで白い卵形の物体を置き「これは何だと思いますか」と聞いたとしよう。あなたは、その大きさや形、表面の質感などから「鶏卵だと思います」と答える。だが、ちょっと待て。本当にそれは鶏卵と断言できるのだろうか。もしかすると鶏卵そっくりに作られたプラスチック製のレプリカの可能性だってあるのではないか。
 そこで、あなたはその白い物体を手に取り、割ってみる。すると中からは鶏卵と同じような白身と黄身が出てきた。あなたはいう「ほら、やっぱり鶏卵だ。これでレプリカではないことがはっきりした」と。

 おそらく多くの人の判断基準はこんなものである。私も日常生活では似たようなレベルで物事を判断することもある。だが、ひと度「科学的に検証する」となると、とてもこんなレベルでは不十分である。黄身と白身が出てきたからといって、それが鶏卵である証拠にはならないからである。もしかすると鶏卵と極めてよく似た別の鳥の卵という可能性だってある。あるいはカニカマボコや人工キャビアと同じく、人工的に鶏卵そっくりに再現したものという可能性もまったくないとはいえない。従って、本当にこの物体が鶏卵であるかを検証するには、さらに黄身と白身の成分を分析したり、DNAを採取して鶏卵のそれと比較するなどの作業が必要となってくる。そして鶏卵と一致する結果が出て、初めてこの物体が鶏卵であると結論づけられるのである。もちろん私たちの日常生活で、ここまで検証に検証を繰り返して確認することなどあり得ない。スーパーで買ってきたパック入りタマゴが本当に鶏卵か科学的に確認してから食べる、なんて人がいるはずもない。この話はひとつのたとえ話しに過ぎないが、しかし、本当の科学的な物の見方とはこういうことをいうのである。

 科学とは、答えを導き出すための手段であるが、本来、その演繹の過程では、あらゆる先入観や私情を一切排して、あくまで真っさらな心の状態で臨むことが真の科学的態度といえる。検証もしないうちから「これはこうに決まっている」と思いこんだり、「こういう結果が得られれば自分には都合がいい」などと期待しながら検証したとすれば、それは到底、科学的な検証とはいえない。

 だが、意図的に、あるいは意図してなくても現実の世界ではこの通りにならないことが多いようである。例えばプロの研究者が必ずしもそうではないことは、科学史を省みれば、その証拠はそこらじゅうにゴロゴロしている。

 かつて細胞内のミトコンドリア表面にあるATP合成酵素は、回転体構造をしていて回転しているとする仮説を立てた研究者がいた。学会では、その発表を聞いて「そんなバカな」と多くの人が笑ったそうだ。だが、その後回転していることを確認しやすくするため、この酵素にごく微細な棒状構造物を付着させて、本当に回転している様子が別の研究者により撮影された。これにより、かつて学会で笑われた仮説が実は正しいことが証明されたのである。このことは科学のプロですら、時に先入観にとらわれてしまうことを示している。つまり回転体構造をしているはずがないというのなら、本来その証明ができていなければならないはずだが、実際には証明もされていないのに「そんなはずはない」という思いこみで判断をしたことになるからだ。

 私の勝手な推測に過ぎないが、ノーベル賞級の偉大な発見というのは、あらゆる先入観にとらわれず現象に対して常に謙虚な姿勢で臨める人が成し遂げることが多いのではないだろうか。これまでの科学史を振り返ると、科学の進歩というのは意外なところから進んでいることが多々ある。大多数の人が「まさか」と思うところに真実が隠れていたりする。つまり多くの人が考えているところとは違うところに視点を置くことができるからこそ、誰も導き出せない偉大な発見ができるのではないか。だいたい先入観にとらわれてばかりの人が、先入観にとらわれない人ですら気づかないことに気づくとは思えない。そういう人というのは所詮、頭の柔軟性において可もなく不可もなくというのが関の山であろう。





超常現象否定派の矛盾


 世の中の超常現象否定派の大半は、「科学」と「科学っぽいこと」を混同している。怪しげな超常現象を否定することは、いかにも科学っぽい。だから超常現象を否定している自分がまるで「科学の側」に立っているかのような錯覚を覚え、そんな一見賢い自分に満足しているのだろう。だがそれはあくまで「科学っぽいこと」に過ぎず「科学」ではない。こういう人たちというのは、科学の側に立っているはずの割には、科学の基本中の基本すらろくに知らないことが多い。

 そもそも科学の大前提になっているのは「再現性」である。「再現性」がある現象だけが科学の対象になり得る。つまり同じ現象をもう一度測定するなどしても、やはり同じ結果が得られることを確認できる(再現性がある)現象だけが、科学の対象になるのである。逆に言えば、再現性がない現象については、科学はそれを対象にし得ないのであるから、明らかな物理法則との矛盾でもない限り、否定も肯定もできないのである。断っておくが否定も肯定もできないということは、その現象が存在しないことにはならない。あくまで科学の対象にならないだけのことである。だから再現性がない現象を言下に「存在しない」と否定してしまうことの方が、実は科学から見ても矛盾した結論といわざるを得ないのだ。

 超常現象の中にはこの「再現性」がない現象も含まれる。そんな現象は科学的でないから検証に値しないのでなく「再現性」がないから検証できないというのが正しい。つまり、このような現象が存在するかどうか、と聞かれれば「存在するともしないともいえない」と答えるのが理にかなっている。





科学者の詭弁  


 本来、論理のプロであるはずの科学者の意見の中にも詭弁としか思えないものが数々ある。例えば「UFOやミステリーサークルはプラズマで説明できる」という某超常現象否定派論客の主張。私はプラズマについて詳しくは知らないが、確かにプラズマ現象をUFOと見間違えたとするその科学者の主張にも一理あると思う。しかしUFOはプラズマ現象で説明できるから、すへてのUFOはプラズマによるものだとか、宇宙人が乗ったUFOはあり得ない、という理屈は成立しない。念のため断っておくが、私は宇宙人がUFOに乗って地球に来ていると信じているわけではない。そこは誤解しないで頂きたい。

 宇宙人が地球に来ていようがいまいが、この科学者の主張にはそもそも論理的に無理がある。あくまでプラズマ説というのはUFOのひとつの可能性を提示しているに過ぎない。つまり目撃されたすべてのUFOが、すべてプラズマを見間違えたものであるという証明にはなっていないからだ。

 だいたい、そう主張する科学者が、すべてのUFO目撃の現場に居合わせたはずもないし、ひとつひとつの目撃談を念入りに科学的な手法で調査したわけでもないだろう。いかにもそれっぽい方法で説明できるから、あらゆるUFO目撃はそれで解明できるとは、随分ずさんな論理である。この科学者の手法をたとえていうなら咳の症状は風邪で説明できるから、咳が出る人はすべて風邪が原因である、と診察もしないで決めつけるようなものである。確かに咳が出ていれば風邪の可能性が一番高いだろう。だが風邪以外の病気の可能性だってあるはずだ。そもそも世の中の医者はその症状だけで風邪と結論づけたりしない。聴診器を当てたり、喉の奥を見たり、あるいは体温を検温したり、さまざまな診察をした上でこれは風邪である、という結論を出す。これが科学であるはずだ。

 そもそもUFOには「再現性」がないのだから、検証が不可能に近いのはいうまでもない。しかし検証が難しいから、いかにもそれっぽい理屈をこじつけて科学で説明できたと満足するのは大きな間違いである。わからないのならわからないなりに正確な表現にするべきである。つまり「UFOのひとつの可能性としてプラズマが考えられる」と。たぶん科学の論客として期待されている分、わからないことをわからないとはいいにくいのだろう。それは企業経営者が自分の会社の赤字をいいたがらないのと似ている。少々の無理があっても、一刀両断、科学で解決としたいわけだ。そんな手法でも世の中の多くの人はごまかせると思っているだろうが、それは甘いよ。

 もちろん金星人が地球に来ていると何ら根拠もなく主張する、あまりにも低レベルの某出版社社長にもうんざりする。そもそも論理の根本すらも理解していない、こんな人物をおもしろがって十数年にわたり全国放送の番組に出演させるテレビ局もどうかしている。もっとましな人がいるだろう。あんなトンチンカンな人間が出てくるから超常現象とされるものの中に真実があっても誰も信用しなくなるのだ。だいたい年末恒例の「超常現象バトル」とやらは、否定派も肯定派もどちらも似たようなものである。否定派の松尾なんとかっていうタレントも「賢い」キャラで売ってるつもりなのだろうけど、科学を理解しているとは、とても思えないし、それにも増して肯定派の連中は、なんで毎回いかにも怪しそうな人たちばかりなんだろう。唯一例外だったのは、一昨年の番組で肯定派にまわった動物学者の実吉達郎氏くらいだ。

 そもそもこの手の問題ではマスコミはバカのひとつ覚えのように「信じますか、信じませんか」という二托にしたがる。「信じる」とは根拠はないが、それが真実であると思い込むことだろう。私はUFOにしろ、幽霊にしろ、「信じてはいないが、あり得ないと断定もしない」という姿勢だ。つまり、あるという証拠もないが、ないという証拠もない、ということなのだ。この二托では私のような考え方を表すことはできない。

 世の中の傾向を簡単にいえば、知識は豊富だが頭が固くて先入観にとらわれやすい人というのは、安易に超常現象を否定するものだし、頭は柔軟だが知識に乏しい人というのは、安易に超常現象があると信じこむものである。両者は、まるで水と油のようでありながら、実のところ手に持っているコマの色が違うだけで、極めて似たものどうしという気がする。

 科学者は、まず超常現象はあり得ない、というところから論理の組立てをスタートさせる。そして「あり得ない」結論にすべく、もっともらしい説明を探し出して当てはめているに過ぎない。つまり結論を出そうとして、実はすでに結論ありきなのだ。だが、どんな怪しげな説であっても検証する前に結論があるのはおかしなことだ。そんな手法のどこが科学といえるのだろうか。
 




幽霊は存在するか


 超常現象のひとつである幽霊は、存在するのだろうか。私は科学的な証明はできないが、そういうものもあり得るのではないかと考えている。それは次のような推論からである。

 世の中には普通の人が見ることができない霊を感じたり、見ることができる霊感をもつ人がいる。そういう霊感を何かの錯覚や想像と否定するのは容易い。だが存在する科学的な根拠もない代わりに否定できる根拠もないと私は考える。

 かつて私のクラスメイトにも霊感をもつ人物がいたが、見えている霊の描写は具体的だったりする。それを単純に何かの光や影を見間違ったとすれば、おそらくそれほどの具体的な描写は無理と思われる。またもし彼が本当は見えていないのに、見えていると嘘をついても彼に何の利益もない場合や、あるいは自分のそういう能力について自慢したいとする傾向がない場合は、わざわざ嘘をつかなければならない理由はない。

 そういう能力をもつ人がひとりやふたりではなく、世の中にある程度の数が現実に存在することを考えれば、そのすべての事例を「錯覚や幻覚」あるいは「作り話」と結論付けるのは無理があるように感じる。

 そういう霊感に関して、どこかの物理学者などは、「霊が見えているということは、光の情報が目に入って視神経を経由して大脳の…」などと説明し、その矛盾をつくのが常套手段である。だが「見えている」ことすべてが視覚を用いているとは限らないのはいうまでもない。私たちは夢を「見ている」と感じるが、当然ながらそれは視覚を用いているわけではない。同様に霊感についても第六感とも呼ばれる通り、視覚などの通常の感覚とは別のチャンネルのようなものがあるのかもしれない。そもそも現代の科学はまだ大脳についてその片鱗しか理解していない。そんな段階でしかないのに、存在するかもしれない秘められた大脳の能力について安易に否定してしまうことの方が、よほどどうかしていると思う。

 霊感とは少し違うが、予知夢というものがある。たいがいは人が死ぬようなよくない事柄が起こる前に予知的に見る夢のことである。こういう予知夢というのは、実は心理療法士の学会などでは頻繁に報告されているという。つまり存在するかしないかではなく、予知夢という現象は確実に存在すると認識されているそうだ。予知夢の体験を創作とする見方もできるが、中には本人も自分の能力を恐れ嫌がっている事例もあり、単純にそうとも断定できない。またこうした体験談の中には非常にリアリティーを感じさせるものもあり、もし創作したとすればかなりの想像力の持ち主としか思えない話もある。

 また霊感や予知夢の体験はなくても「人の視線を感じる」ことは比較的多くの人が経験することである。視野の端の方で自分を見ている人に気づく、というのではなく明らかに視野からはずれた背後からの、こうした視線に気づくことがあるが、これは論理的に説明のしようのない「第六感」の一種であるとしか思えない。私には霊感はないが、「視線を感じる」ことをはじめ、ほかにも似たような説明のつかない感覚があることを以前から認識していて、そんなこともあって「霊感」も否定する気にはなれないのである。つまり霊感を否定できないということは「霊」も否定できない。あいまいだが、それが私の現在の考えである。





UFOは存在するか


 UFOは未確認飛行物体の略だから、これは確実に存在する。微妙なのは、それがエイリアンクラフトであるかどうか、ということになるが、太陽系の惑星間ですら、まさに天文学的な距離があるのに、そんな距離を移動してくることが本当に可能なのかどうか。もちろん人類の科学力を遥かに凌駕する宇宙人がいて、我々が想像もしない手段で移動している可能性もなきにしもあらずだが。

 テレビなどでたまに放映されるUFO映像の中には、非常にリアリティーを感じさせるものもあるが、後日ニセモノだったことが判明した例もあるし、これらは何ともいえない。ただ、エイリアンクラフトかどうかはともかく、何らかの未知の飛行物体というは実在するのではないか。

 そう考えるのは、少ないながらも極めて信頼性の高いUFO目撃報告も現実にあるからだ。例えば、1984年12月と1986年12月の2回、水産庁の海洋調査船「開洋丸」が遭遇した事例では、観察のプロである科学調査を専門とする乗組員によって目撃され、加えて詳細な記録も残されている。この目撃報告は、科学雑誌の「サイエンス日本版1988年9月号および11月号」にも掲載されたことでも話題を呼んだ。

 当時、大学生だった私は、あの「サイエンス」にUFOの目撃談が掲載されたことに興奮を禁じ得なかった。今でも、この目撃報告をひとつの現象として緻密に記録に残された調査員の方と、その掲載に踏み切ったサイエンス編集部の高い見識に敬意を表したい。

 世の中には「UFOなんてくだらない。あるわけない」と決めつけてしまうような頭の固い人もいるだろうが、それがUFOであれ何であれ、現象は現象として観察し、記録に残すことこそ「科学」であるはずだ。

 開洋丸が1986年に遭遇したUFOは実に不可解だ。レーダーに映ったUFOは、長さ数百mの楕円形で、開洋丸を中心にして10マイルの距離を保って1周したかと思えば、ほぼ90度ターンして開洋丸に時速5000キロで急接近するような極めて特異な飛行経路をたどったという。こうした例を見ると、当然航空機ではないし、90度ターンやV字ターンをしている点から考えれば、自然現象とするのも無理があろう。詳しくは先の雑誌に詳細に報告されているので、興味がある方は国会図書館などで閲覧されるとよい。



水産庁の調査船・開洋丸が見たUFOの記事が掲載された
サイエンス日本版1988年9月号。表紙右上に記事の紹介も載っている


NEW
 もうひとつ。私がUFOに関して「すべてが誤認とは思えない」と考えるようになった理由として、ある映像の存在もある。それは、かつてテレビ番組で紹介された映像で、その説得力は別格レベルだった。

 かなり昔のことなので、詳細は覚えていないが(探せばVHSテープからダビングしたDVDに録画してあると思う)、次のような映像だった。撮影したのは、天体観測を趣味とする日本の一般男性。ある日、天体望遠鏡にビデオカメラを取り付けて月面を撮影した時に、それは現れた。月面の上空に細長い形をした物体のシルエットが浮かび、移動していく様子が写っているのだが、何より驚いたのは、その物体の影が月面に落ちていることだった。

 月面と天体望遠鏡の間を、例えば航空機が偶然、横切った場合を考えてみたい。当然、月面を背景に航空機がシルエットとして見えるわけだが、その影が月面に生じることはない。なぜなら航空機は地球の大気圏内を飛ぶので、夜間であれば地球の影(=夜半球)の中ということになり、太陽光線が当たらないので航空機に影ができる条件下にないことになる。もちろん、光源が太陽である以上、航空機の影は近くであれば、はっきり現れるが、遠くになれば拡散してしまう。仮に太陽−月の間のうち、地球の位置に航空機を配置しても航空機と月面の距離が遠すぎるため、航空機の影が月面に落ちることはないのだ。

 もし、仮に航空機で同様の映像を撮るとしたら、夜間に天体望遠鏡〜月の間と月〜太陽の間という、ふたつの条件を満たす位置を飛ぶ必要があるが、それって完全に無理な話だ。なぜなら、それを満たす位置は月面上空しかないからである。地球の周囲をまわっている人工衛星でもあり得ない。月探査機が月面に接近した時であれば影ができるだろうが、天体望遠鏡で月探査機とその影を見つけるのは、小さすぎて至難の業だと思う。

 物体の影が月面に生じていたということは、月面から、さほど遠くない上空に物体があることを意味し、天体望遠鏡でもその大きさが容易に見てとれるということは、その物体がかなり巨大ということになる。しかも普通の再生速度で映像を見ても、物体が移動しているのがわかるということは、人類では不可能なほどの相当なスピードが出ていたのも間違いない。

 「細長い物体」ということから、2017年に初めて発見された太陽系外から飛来した恒星間天体・オウムアムアのように、たまたま岩石が細長い形状になった小天体ではないかと思うかもしれないが、仮にそんな小天体が月に接近したとしても、月面に影が落ちるほどの軌道で接近する可能性は低いのではないか。そもそも映像に映っていた物体は、人工的な形をしていた。

 フェイク動画が容易に作れる現代であれば、説得力も半減しそうだが、この映像を見たのは確か1980年代後半くらいのことだったと思う。当時、そんな動画加工は無理だろう。UFOの証拠というよりも、エイリアンクラフトの証拠といってもいいかもしれないくらいである。




ネッシーは存在するか


 何年か前に、有名なネッシーの写真が実はニセモノだと撮影者自ら告白して話題になった。このとき一部のマスコミは、「ネッシーはいなかった」と騒ぎ立てたが、私はまったくそうは思わない。仮にネッシーが実在していたとしても、ネッシーのニセモノ写真を撮ろうと思えばニセモノ写真は撮れるわけだから、ニセモノ写真がネッシーの存在を否定する根拠にはならないのである。至極当たり前のことである。

 ネッシーの存在を科学的に否定するというのは、実は非常に難しいことである。「あれほどの大きな生物が生息していると仮定すると湖の環境はあまりに狭すぎる」などといってみたところで、それはひとつの推論に過ぎない。科学的に検証するには次の方法が一番確かである。実際に可能かどうかは別にして、ネス湖の湖水をすべて排水して湖底まで露わにすることである。それ上でそれらしい生物がいなければ、初めて「存在しない」といえるのである。この検証がされない限り、どんな否定的な考え方があっても、それはネッシーを否定する根拠にはならない。





結局、人間は自分の向きたい方に向く


 世の中には、ここで取り上げてきたような曖昧なものがたくさんある。しかし、それが存在するかどうかというのを意見対立する人と議論するのは、実はあまり意味がないことが多い。所詮、肯定したい人は「絶対いる」と答えたいのであり、否定したい人は「絶対いない」と答えたいに過ぎないからである。そういう人たちに「科学的真理」という言葉を投げかけても、おそらく彼らの頭の中でその音が空しく響くだけだろう。だから、大抵はこの種の議論は無意味なのだ。

 私は中立的立場から論理的に検証し結論を出すことこそが、真の科学的態度だと考えている。肯定派であろうと否定派であろうと、それまで自分が公言していたことへの反証が見つかれば、素直にそれを認め取り入れるのが、真の科学的態度のはずである。しかし、世の中の多くの人はそうではない。

 特に否定したい人たちというのは自分の考えを正当化するために、中立的な立場から見ても無理があるとしか思えない論理を平気で持ち出してきたり、そもそも定義すらできないものを平気で否定してしまったりもする。言葉の定義もできないのに、なぜ否定できるのか、極めて不思議だ。

 つまり、それは否定のための否定としかいえず、また意識的あるいは無意識的に自分が期待する方向へ結論を歪めようとしていることの格好の理由としかいえない。真に中立的な立場から検証し、その結果否定するのであれば、無理な論理を持ち出す必要もなく、第三者に「なるほど論理的に理解できる」といわせることができるはずである。それができず無理な論理を振りかざした時点で、この否定派は自分が科学的態度にないことを自ら周りに知らしめてしまったわけだが、往々にして当人はそれにまったく気づいてもいない。

 もともと人間は自分が向きたい方に向く生き物である。信じたいものを信じるようにできているのだ。宗教が成り立つのも実は人間のそういう性質と無関係ではない。だが、ひとついえるのは向きたい方を向く人が「自分は科学的態度で物を見ている」と云う資格がないことだけは確かである。



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